9 / 57
現世への未練
3
しおりを挟む
◆
由椰が再び烏月と顔を合わせることになったのは、大松の屋敷に連れてこられて九日目のことだった。
風夜と風音に連れられてきた部屋で烏月の前に跪くと、輝く金の瞳をした美しい神様が、由椰のことをじっと見おろしてきた。
「七日間、泉の水で清めても、人の世に戻れない――、か」
抑揚のない声で言う烏月に、「さようにございます」と風夜が申し訳なさそうに頭を下げる。
「ふたりと泉の力を以てしても戻れないということは、この者のほうになにか原因があるのかもしれない。現世でなにか悪いことをして業を背負っているか、現世に未練を残しているか、あるいは……。現世に未練がなさすぎるのか……」
由椰をヒヤリとさせたのは、烏月の最後の言葉だった。
誰に必要とされることなく生きてきた由椰には、たしかに人の世での暮らしに未練はなかった。
生贄として麓の村を出たときも、死ぬことが悲しいとも苦しいとも思わなかった。
自分など、いてもいなくても変わらない。命を与えて慈しんでくれた母にだけは申し訳ないと思ったが、生贄として死ぬことが自分の価値であるならそれでいいと思った。
洞窟の中で運良く生き延びたあと、烏月に人の世に還れと言われたが、次の世に特別な期待は持てなかった。
できることならば、いい思い出などない人の世には還らず、消えてしまいたい。由椰の心のどこかに、そんな気持ちがあったような気がする。
だから、本来在るべき場所に行くこともできないのか。
「この娘の処遇はどういたしましょうか」
(何処へ行くこともできない。ここから消えることすらできない私は、どうすればよいのでしょう)
烏月に向かって訊ねる風夜の後方で、由椰はきゅっと唇を噛む。そんな由椰を見下ろして、烏月は静かに息を吐いた。
「しばらく、ここに置いて様子を見るより仕方ないな」
烏月の言葉に、由椰は驚いて顔をあげる。
「良いのですか?」
烏月の言葉に驚いたのは、風夜も同じであったらしい。彼の紫の瞳は、主人を前に大きく見開かれていた。
「良いもなにも……。泉の水で清める以外に、この娘を人の世に戻す方法を探すしかないだろう」
「それでは、私は引き続き、由椰様のお世話係としてお側に仕えさせていただきます」
烏月の前に一歩進み出て言ったのは、風音だった。
「そうだな。この娘のことは風音に任せよう」
烏月はうなずくと、初めて会ったときと同じように由椰の前で膝をついた。
感情の読み取れない、けれど美しい金の瞳が、戸惑う由椰の目をまっすぐに見つめる。それから、烏月は由椰のほうに手を伸ばしかけ、すぐにおろした。
気のせいかもしれないが、差し伸べられた白くて指の長い綺麗な手が由椰の頬に触れようとしたかのようで、おもわず心臓がドクンと跳ねる。
無言で見つめ返す由椰に、烏月がわずかに唇の端を引きあげた。
「心配しなくていい。きっと、少し長く眠り過ぎたせいだろう。この屋敷でしばらく過ごしていれば、人の世での未練も思い出せる」
「はい……」
由椰を見つめる烏月の瞳は笑ってはいなかったが、その表情は美しく、そこはかとない慈愛に満ちていた。
烏月の言葉に流されるままに頷く由椰だったが、胸の中には不安が燻っていた。
烏月の言うように、自分は人の世での未練を思い出せるのだろうか。
考え込む由椰に、風音が微笑みかけてくる。
「由椰様、もうしばらく一緒にいられるようで嬉しいです」
まだ出会ってほどないが、風音は初めからずっと由椰に優しい。風音の好意的な言葉が、居場所のない由椰にとって少しの救いになった。
由椰が再び烏月と顔を合わせることになったのは、大松の屋敷に連れてこられて九日目のことだった。
風夜と風音に連れられてきた部屋で烏月の前に跪くと、輝く金の瞳をした美しい神様が、由椰のことをじっと見おろしてきた。
「七日間、泉の水で清めても、人の世に戻れない――、か」
抑揚のない声で言う烏月に、「さようにございます」と風夜が申し訳なさそうに頭を下げる。
「ふたりと泉の力を以てしても戻れないということは、この者のほうになにか原因があるのかもしれない。現世でなにか悪いことをして業を背負っているか、現世に未練を残しているか、あるいは……。現世に未練がなさすぎるのか……」
由椰をヒヤリとさせたのは、烏月の最後の言葉だった。
誰に必要とされることなく生きてきた由椰には、たしかに人の世での暮らしに未練はなかった。
生贄として麓の村を出たときも、死ぬことが悲しいとも苦しいとも思わなかった。
自分など、いてもいなくても変わらない。命を与えて慈しんでくれた母にだけは申し訳ないと思ったが、生贄として死ぬことが自分の価値であるならそれでいいと思った。
洞窟の中で運良く生き延びたあと、烏月に人の世に還れと言われたが、次の世に特別な期待は持てなかった。
できることならば、いい思い出などない人の世には還らず、消えてしまいたい。由椰の心のどこかに、そんな気持ちがあったような気がする。
だから、本来在るべき場所に行くこともできないのか。
「この娘の処遇はどういたしましょうか」
(何処へ行くこともできない。ここから消えることすらできない私は、どうすればよいのでしょう)
烏月に向かって訊ねる風夜の後方で、由椰はきゅっと唇を噛む。そんな由椰を見下ろして、烏月は静かに息を吐いた。
「しばらく、ここに置いて様子を見るより仕方ないな」
烏月の言葉に、由椰は驚いて顔をあげる。
「良いのですか?」
烏月の言葉に驚いたのは、風夜も同じであったらしい。彼の紫の瞳は、主人を前に大きく見開かれていた。
「良いもなにも……。泉の水で清める以外に、この娘を人の世に戻す方法を探すしかないだろう」
「それでは、私は引き続き、由椰様のお世話係としてお側に仕えさせていただきます」
烏月の前に一歩進み出て言ったのは、風音だった。
「そうだな。この娘のことは風音に任せよう」
烏月はうなずくと、初めて会ったときと同じように由椰の前で膝をついた。
感情の読み取れない、けれど美しい金の瞳が、戸惑う由椰の目をまっすぐに見つめる。それから、烏月は由椰のほうに手を伸ばしかけ、すぐにおろした。
気のせいかもしれないが、差し伸べられた白くて指の長い綺麗な手が由椰の頬に触れようとしたかのようで、おもわず心臓がドクンと跳ねる。
無言で見つめ返す由椰に、烏月がわずかに唇の端を引きあげた。
「心配しなくていい。きっと、少し長く眠り過ぎたせいだろう。この屋敷でしばらく過ごしていれば、人の世での未練も思い出せる」
「はい……」
由椰を見つめる烏月の瞳は笑ってはいなかったが、その表情は美しく、そこはかとない慈愛に満ちていた。
烏月の言葉に流されるままに頷く由椰だったが、胸の中には不安が燻っていた。
烏月の言うように、自分は人の世での未練を思い出せるのだろうか。
考え込む由椰に、風音が微笑みかけてくる。
「由椰様、もうしばらく一緒にいられるようで嬉しいです」
まだ出会ってほどないが、風音は初めからずっと由椰に優しい。風音の好意的な言葉が、居場所のない由椰にとって少しの救いになった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
龍神様のかりそめ花嫁 離縁の雨と真の婚姻
碧月あめり
キャラ文芸
旧題:離縁の雨が降りやめば
龍の眷属である竜堂家に生まれた葵は、三つのときに美雲神社の一つ目の龍神様の契約花嫁になった。
これは、龍の眷属である竜堂家が行わなければいけない古くからの習わしで、花嫁が十六になるときに龍神との離縁が約束されている。
花嫁が十六歳の誕生日を迎えると、不思議なことに大量の雨が降る。それは龍神が花嫁を現世に戻すために降らせる離縁の雨だと言われていて、雨は三日三晩降り続いたのちに止む。
雨がやめば、離縁された花嫁は次の龍神の花嫁を産むために美雲神社を去らなければいけない。
だが、葵には龍神との離縁後も美雲神社に留まりたい理由があった。
幼い頃から兄のように慕ってきた御蔭という人の存在があるからだ。
白銀の髪に隻眼の御蔭は美しく、どこか不思議な雰囲気を纏っているが美雲神社の人間からは《見えない存在》として扱われている。
御蔭とともにいることを願っている葵だが、彼のほうは葵に無頓着のようだった。
葵が十六の誕生日を迎えた日。不思議な雨が降り始める。習わし通りであれば三日降り続いたあとやむ雨が、なぜか十日以上も降りやまず……。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる