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消えた女神の面影

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 烏月の屋敷での生活は、一日の時間の流れがとてつもなくゆっくりだった。

 麓の村にいるときは、朝から家中の床を拭いて回り、洗濯をし、料理を手伝い、家畜の世話をし、風呂に火を起こし……。とにかく、休む間もなくすることがあった。

 だが、烏月の屋敷で、由椰は自由だ。

 屋敷への長期的な滞在が決まってからは夜明け前のお清めもなくなり、好きな時間に起きて好きな時間に眠ることができるようになった。

 最初は、のんびりとした生活を楽しんでいた由椰だったが、何日か過ごすうちに、これでいいのかという焦りが出始めた。

 人の世に戻ることのできなかった由椰に、烏月はしばらく屋敷にとどまるように勧めてくれた。

 だが、それは永久に烏月の屋敷に居ても良いという意味ではない。人の世に戻るまでに、少しの猶予が与えられただけのことだ。

 烏月がいつまで由椰を屋敷に置いてくれるつもりなのかはわからないが、由椰も本来在るべき場所に戻るための努力をしなければならない。

 そう思った由椰は、風音に頼むことにした。

「風音さん、私になにか、この屋敷での仕事をください」
「仕事、ですか……」
「はい」
「でも、由椰様はお客様ですよ」
「風音さん。元はと言えば、わたしは神無司山に捧げられた生贄です。一週間だけの滞在が、期限の読めない長期滞在になった今、何もせずにぼんやり寝て過ごすわけにはいきません。料理でも掃除でも、できることは何でもやらせてください」

 意気込む由椰に、風音が少し困った顔を見せた。

「由椰様のお言葉はとてもありがたいのですが、この屋敷は烏月様の神力でできているので掃除は必要ないのです。下手に物を動かすと、バランスが崩れてしまうので……。それに、烏月様はほとんど食事を摂られません。私たちあやかしは、人間のように頻繁に食事を摂らなくても生きられるので……」
「そうですか……」

 烏月は、由椰が人の世に戻れないのは、現世での未練がないからだと言った。長い時間、眠り過ぎていたからだ、とも。

 ならば現世での行ないを再現すれば、未練に繋がるものが見つかるかもしれない。そう思ったが、この屋敷では由椰の出番はないようだ。

「ここでも、私はあまり役に立たないみたいですね……」
「そんなことありませんよ、由椰様」

 しゅんと肩を落とす由椰を見て、風音が首を横に振る。

「いいんです。私には、そもそも価値なんて――」
「そんなことありません。由椰様がいらっしゃるから、私はこの屋敷に足を踏み入れることが許されているのです」

 風音の話によると、昔、この屋敷には人やあやかしが多く出入りしていたらしい。だが、三百年ほど前に神無司山の土地神・伊世が姿を消してから、烏月は風夜と泰吉以外の者を屋敷に招き入れなくなったそうだ。



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