離縁の雨が降りやめば

碧月あめり

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5.墨色の鯉

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「澄がこの池に来たのは、今からちょうど1000年ほど前。人間との契約結婚の因習はいつまで経っても終わることなく、白雪様も焦れたのでしょう。離縁の雨が降り止み、その当時の花嫁が美雲神社を出ていったとき、『約束をお忘れにならないように』と白雪様から送られてきました。おそらく、いつ終わるともしれない御蔭様と人間の花嫁との契約結婚を澄に監視させ、報告させるためでしょう」

「そのとき、御蔭は……?」
「困って苦笑いを浮かべられていたそうですよ。『まだ諦めておられませでしたか』と」

 橘の語る御蔭のその様子は、葵にも容易に想像できた。

 きっと、池の鯉にエサでも投げながらのんびりとした口調でつぶやいていたことだろう。

「ですが、葵様。鯉は一度心に決めた相手には一途なのです。お会いできずとも、はずっと御蔭様のことを想い、人間の花嫁との契約が終わる日を待っております。今回、離縁の雨が異例の長さで降り続いたことは白雪様の耳にも入っているはず。葵様が正式に龍神の花嫁になることも。御蔭様に約束を反故にされて、白雪様はきっとひどくお怒りでしょう。ですから葵様、どうかお気を付けくださいませ」

 そう言い終えて、橘が微かに唇の端をつりあげた。親切に忠告してくれているようでいて、まっすぐに葵を見つめる橘の瞳には氷のような冷たさも感じる。

 どこか歪に見える橘の表情が、葵を無性に不安にさせた。

 橘から聞いた話を疑うわけではない。だが、彼女の話をすべて鵜呑みにしていいものなのだろうか。

 葵がそんなことを考えていると、橘が外の様子を気にするように戸の外に耳を澄ませた。

「そろそろ、御蔭様がいらっしゃる頃でしょうか」

 橘がつぶやいた、その直後。

「葵、開けてもいいですか?」

 和室の戸の向こうからやさしい声がした。

 葵には何の物音も聞こえなかったが、橘の予測はぴったりだ。

 引き戸を内側から開きながら、橘がわずかに目を見開く葵に、ふっと意味深に微笑みかけてくる。胸がざわっと騒ぐような心地がしたが、それも一瞬のことだった。

「待たせてしまい、すみません」

 引き戸の向こうに現れた御蔭の少し困ったような顔を見ると、胸のざわつきが橘への不信感によるものなのか、それとも彼への恋心によるものなのか、葵にはすぐに区別がつかなくなってしまう。

「お勤めは終わったの?」

 見上げて訊ねた葵に、御蔭が微笑みながらおもむろに手を伸ばして来る。

「ええ。けれど、慣れないことはめったにするものではありませんね」

 葵の髪を撫でてため息を吐く御蔭は、少し疲れているようだ。

 青嶺神社の白雪とのことは、穏便に話が進むのだろうか。

 無言で見つめる葵を御蔭が不思議そうに見つめ返してくる。そうして見つめ合うふたりのそばを、つつーっと柿色の着物が通り過ぎた。

「それでは私がこちらで失礼いたします」

 薄く微笑んで会釈した橘が、去り際に葵を数秒ほどまっすぐに見つめてきた。

 先刻の話を橘から聞いたことは言わないように。あらためて念を押されているような気がする。

 人の姿のまま、着物の袖を揺らしてゆっくりと歩いていく橘の背中を葵はじっと見送った。

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