離縁の雨が降りやめば

碧月あめり

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6.水中の蓮

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 御蔭に連れられていった邸宅の庭には、淡い桃色の蓮の花があちこちに浮かぶように咲き乱れていた。

 ほとんどの蓮は葵の目線の高さより少し下で咲いていて、簡単に手で触れることができる。

「こんなふうに手で触れられるなんて驚きだわ」

 葵が興奮気味にそう言うと、御蔭がふっと笑った。

「喜んでいただけてよかったです。そういえば、葵は昔、庭の池に咲く蓮の花を摘みたがっていましたね」
「よく覚えてるのね」
「葵のことはなんでも覚えていますよ」

 御蔭の右の目尻が下がる。愛おしそうに見つめられて、葵はドクンと鳴る胸に手をあてた。

「葵が太鼓橋の欄干を超えて、池の蓮の葉に飛び乗ろうとしていたときは、さすがに私も焦りました。ぎりぎりのところで捕まえることができたときはほっとしたんですよ」

 御蔭が口元に手をあてて、くくっとなにか思い出したように笑う。

 幼い頃の出来事や記憶は成長とともに薄れてしまったものもあるが、御蔭の話は葵も身に覚えがあった。

 おそらく、七つか八つの頃のこと。

 その年は、美雲神社の池で例年以上にたくさん蓮の花が咲いた。

 池に浮かぶ大輪の蓮の花は幻想的で美しく、葵の質素な部屋に飾れば華やかになりそうだと子ども心に思った。

 太鼓橋の上から見ると、蓮の花の周りに浮かぶ葉は平らで面積が広く、葵ひとり乗ったくらいでは沈みそうにない。

 それならば、蓮の葉にのって花をひとつ摘んでみようか。好奇心の向くままに橋の欄干によじ登って立ったところを、鯉のエサをやりにきた御蔭に止められた。

『なにをしているのです?』

 葵の耳元に聞こえてきたのは、いつもと変わらずゆったりとした声だったと記憶しているが。あれでも、内心焦っていたのだろうか。

 蓮の花を摘むことはできずにむくれる葵に、御蔭は水辺に生えていた名もわからない白の野花を手折って髪に挿してくれた。

『どうか、これで機嫌をなおしてください』

 眉をさげて困ったように微笑み御蔭の顔を、葵は今もはっきりと思い出せる。

 髪に挿してもらった白の花は、葵が生まれて初めてもらう贈り物だった。

 葵だけに向けられている御蔭のまなざし。澄んだ空のように綺麗な青の瞳に、葵の小さな胸はときめいた。

 幼い頃の葵の御蔭のことを慕う気持ちは兄に対するものに近いと思っていたが。もしかしたら、あのときに生まれた感情はすでに恋心だったのかもしれない。

 御蔭にもらった白の野花は、家に戻ってからキヨに花瓶に挿してもらった。

 けれど、それほど長くは持たず、三日ほどで枯れてしまった。

 そのあと数日、雨が降って御蔭に会いにいくことができず、沈んだ気持ちで過ごしたことまでを葵ははっきり記憶している。

 御蔭は葵のことならなんでも覚えているというが、それは葵のほうも同じなのかもしれない。

 蓮の咲く庭を時間をかけて一周すると、御蔭がやや物憂げに池水面に視線を向けた。

「ああ、もう夜ですね」

 御蔭のぼやく声に葵も視線をあげる。

 葵が舟でここへ来たときには太陽の光が差し込み明るかった水面が、いつのまにか暗くなっていた。

 太陽が月の光に変わったのだろうか。暗い水面の一部で、橙色の光が楕円にぼやけて揺れている。

 と言っても暗いのは水面だけで、邸宅の庭はまだ昼間のように明るい。

 昼なのか夜なのか。ここにいては、時間の感覚がよくわからない。
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