離縁の雨が降りやめば

碧月あめり

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7.月夜の波紋

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「澄……! なんてことをするの!」

 橘の怒声が響き、音楽も鯉たちの舞も止まる。

「す、すみません……橘さん」

 焦ってしゃがんだ澄が、割れた食器よりもさきに水菓子のほうを器に拾い戻そうとする。けれど、橘は澄の肩を冷たく押しのけた。

「いえ、もう手遅れよ。御蔭様が戻られたらお詫びしなくては……」

 低くつぶやく橘のそばで、澄が萎縮したうつむく。

 さっき葵が花を挿したとき、はずかしそうに微笑んでいた澄。せっかく嬉しそうな顔を見せてくれたのに、橘の言葉に怯えている澄が可哀想になる。

 やはり葵には、澄がここで虐げられているような気がしてならなかった。

「あの……御蔭なら、きっと大丈夫よ。これくらいのことで怒ったりしないわ」

 澄を庇うようにそう言うと、橘が拾い集めていた水菓子を手の中でグシャリと握りつぶした。

 いきおい余ってではなく、故意のような気がする。

 ゾクッとして葵が一歩身を引いたとき、橘が顔をあげた。

「さすがは葵様。御蔭様のことをよくおわかりになるのですね」

 うっすらと唇をつりあげた橘のまなざしが、氷の刃のように冷たく葵を突き刺してくる。

 あきらかに好意的ではない――、もはや、抗戦的とも言える橘の笑顔。それは、葵が澄を庇うようなことを言ったからだろうか。それとも――

 言葉にできない不安が葵の胸を過ぎる。そのとき、紅白の美しい鯉がつつーっと泳いできた。

「いったいどうしたの、橘」

 くるりと旋回した蓮華が、緋色の着物の袖を翻して人へと変化する。それから床の惨事に気付くと、「まあ」と口元に袖をあてた。

「申しわけありません、蓮華様。運んでいる途中、澄がぶつかってきて落としてしまったのです。龍の鱗の入った貴重な水菓子でしたのに……」

 蓮華に説明する橘が、眉をさげて目を伏せる。

 橘の蓮華への態度は、葵に対するのとは違って腰が低かった。けれど、水菓子を落とした責任を澄にだけ押し付けるところが気にかかり、葵はそっと顔をしかめた。

 一部始終を見ていたわけではないが、ほんとうに澄だけが悪いのだろうか。

「ああ、龍の鱗を御菓子を落としてしまったのね。それだけはぜひ葵様に食べていただきたかったのだけど……」

 複雑な気持ちになる葵をよそに、蓮華が橘と話を続ける。

「はい。たったひとつ、御蔭様からお預かりしたものでしたから」
「そうねえ。もしかしたら少し御気分を害されるかもしれないけれど……こうなってしまったら、もう仕方がないわ。新しく作り直すのもむずかしいもの。龍の鱗は、祝言の日に召し上がっていただくしかないわね。兄様が戻られたら私からも伝えるわ。とりあえず、ここはもう片付けて」
「承知しました」

 橘が蓮華に恭しく頭をさげる。それからすぐに、澄に冷たいまなざしを向けた。

「聞こえていたでしょう、澄。あなたも片付けを早く」
「は、はい……」

 橘にきつい口調で指示され、割れた食器をお盆にのせた澄がすごい勢いで走り去っていく。

 それと入れ違いで、給仕の鯉が箒や塵取りなどの掃除道具を運んできた。橘はそれを受け取ると、ぐちゃぐちゃになってしまった水菓子を手早く片付ける。

「それでは失礼いたします。葵様、水菓子はご用意できませんでしたが、あとはゆっくり過ごしてくださいませ」

 薄い笑みを浮かべて去っていく橘に、葵はどうしても嫌な感じが拭えなかった。
 
「橘さんは、澄やわたしのような外から来た者があまり好きではないのかしら」

 ぽつりとつぶやくと、蓮華が驚いたように目を見開いた。

「いえいえ、そんなことはないですよ。橘はここでは古参の鯉ですが、兄様に深い忠義を示してくれています。正直なところ、澄には少し厳しいところもありますが……嫌っているわけではないはずです。もちろん、葵さまのこともですよ」
「そうかしら……」

 橘を信頼している蓮華には悪いが、葵の口からそっけない声が漏れてしまう。

 橘が葵をあまり好きではないとして。葵も橘のことは苦手だから、お互い様と言えばそれまでなのかもしれない。

 ダイニングルームを出て行った澄と橘は、それきり戻ってこなかった。

 また橘に叱られているのだろうか。せっかく花飾りを挿しなおしたというのに、宴の席に出てこなくてはもったいない。

 鯉たちの舞を見ながらの食事が終わると、葵は蓮華とともに池の庭を散歩した。

 蓮の花は変わらず美しかったが、御蔭が隣にいないのか淋しく恋しい。

 その日、御蔭が池の邸宅に戻ってくる様子はなく。葵はひとりで舟に乗り、美雲神社の小さな民家へと戻った。
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