離縁の雨が降りやめば

碧月あめり

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10.祝いの盃

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***

「御蔭、ついたわよ」

 池の邸宅につくと、葵は御蔭の肩を揺すり起こした。

「ああ、すみません。眠ってしまいましたか。きっと退屈させてしまいましたね」
「それは大丈夫なのだけど……」

 疲れている御蔭のことが気がかりだ。

「何を考えていましたか? それとも具合でも悪いですか?」

 身体を起こした御蔭が、葵の頬に手をあてて、じっと目を覗き込んでくる。

 探るようなまなざしに、葵の胸がドクンと跳ねる。

「だ、大丈夫よ。御蔭があんまり気持ちよさそうに眠っているから、わたしもぼんやりしてしまっていただけ」

 何事にも無頓着な顔をして、御蔭は意外と人の――というより、葵の感情の機微に聡い。

「それならいいですが……」

 そう言いながら、御蔭はまだじっと葵の顔を見つめている。頬が内側からじわじわと熱くなるのを感じる。きっとその熱は、葵の頬に触れる御蔭の手にも伝わっているだろう。

「そ、そろそろ行ったほうがいいんじゃない? 蓮華さんたちが待ってるわ」
「そうですね」

 葵が御蔭の手を引き剥がすと、御蔭がゆっくりと立ち上がって舟を降りる。そのあとを御蔭に手を引かれながら降りたとき、紅白の鯉がふたりのところに速度を上げて泳いできた。

「おかえりなさいませ、兄様、葵様。祝言の準備はもうとっくに整っていますよ。葵様、早く着物を着替えましょう。兄様も、お急ぎください。鯉たちはみんな待ちくたびれていますよ」

 水中を上に回転するように泳いで緋色の着物の少女に変化した蓮華が、葵の手をとって引っ張る。

 今日の蓮華は、ずいぶんと浮かれているようだ。

 御蔭とろくに話せないままに、邸宅の奥へとぐいぐい引っ張られていく。

 以前はたくさんの着物が置かれていた和室は、今日は祝言用の白無垢と宴のための御空色の打掛だけが衣桁にかけてある。

 そこには本物の橘と、それから澄が待っていた。

「それでは葵様、本日は私たちが着付けのお手伝いをさせていただきますね」

 橘が目尻をさげて会釈する。

「ありがとう、橘さん。よろしくお願いします」
「それでは失礼いたします」

 お礼を言うと、橘が帯を解くために葵の背中に回る。 
 本物の橘は、白雪が成りすましていた橘とは似ても似つかない人だった。もちろん、顔や姿は成りすましとそっくりなのだが、本物の橘は表情がとてもやさしい。

 一重の目元はやわらかく、葵に向けられるまなざしにも善意しか感じない。

 そんな本物の橘は、白雪が池の邸宅に侵入中、香の力の幻覚で周囲からは亀の姿に見えるようにされていたらしい。

 何度か邸宅に亀の侵入があったのは、亀ではなく本物の橘で。どれほど訴えても、香の作用で池の鯉たちに言葉が通じず、気の毒な扱いを受けたようだ。

「澄、そこの帯紐を取ってちょうだい」

 着付けの途中、橘が澄に声をかける。

 本物の橘は、葵にも周囲にも思いやりがありやさしいのだが、澄に対する言葉掛けだけが少しきつい。

 そこだけが、なりすましの橘と同じだ。けれど本物の橘は、白雪の手がかかった澄のことがどうしても信用しきれていなかったようだ。

 そんな澄が美雲神社に正式に仕えることを橘はどう考えているのだろう。

 おずおずと帯紐を手渡す澄に視線を向けて、橘が「ありがとう」とそっけなく答える。
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