離縁の雨が降りやめば

碧月あめり

文字の大きさ
72 / 74
10.祝いの盃

しおりを挟む
 花嫁衣装に着替えると、葵は蓮華たちに導かれて祝言の席へと移動した。

 床の間の前の上座では、黒紋付羽織袴の御蔭が葵のことを待っている。下座には、赤や黄色や橙の鮮やかな着物の鯉たちが勢揃いで座っていた。

 窓を開けた縁側には、池の中の真鯉や錦鯉たちがあつまり賑やかしい。

 葵が和室の入り口に立つと、それに気付いた御蔭がやさしく目元を緩めた。その表情に、葵の胸がきつく締め付けられる。

 三つで美雲神社に嫁いできたとき、マキノとキヨと美雲神社の神主に見守られて挙げた形式状の祝言は淋しく質素だった。

 結婚というのは、なんて陰鬱な儀式なのだろう。幼い葵の心にはそんな記憶だけが残ったが、今日の祝いの席は葵の想像以上に華やかだ。

 葵が御蔭の隣に座ると、蓮華がふたりの前に盃を運んできた。

 蓮華が酌んだ盃に、まず御蔭が口を付ける。それから、まだ半分ほど入った盃を葵に差し出した。

「残りはすべて葵が。これで、あなたは私の正式な花嫁です」

 御影に微笑みかけられて、葵は両手で盃を受け取った。

 ずっと御蔭のそばにいることが葵の望み。ようやくそれが叶うのだと思うと、盃を持つ手が、胸が震える。

 葵が盃を口に近付けて手前に傾けたとき、無数の鯉たちの視線が全方向から一斉に集まるのがわかった。

 時が止まったような静けさの中で感じるのは、龍神の花嫁への祝福と期待。

 横顔に圧を感じるほどの鯉たちの眼差しの熱に、葵は盃を手に一瞬躊躇した。

 人の娘である自分を受け入れてくれる池の鯉たちの気持ちは嬉しい。

 けれど、龍の鱗がなければ御蔭の姿見えない葵は完璧な花嫁とは言えない。

 次にまた御守りをなくしてしまうようなことがあれば、御蔭に負担をかけてしまう。

 そんな自分が御蔭の花嫁になることは許されるだろうか。

 頭に浮かぶのは、ここに来る途中の和舟の中で生まれた懸念だ。

「こんなときに、私の花嫁はなにを考えているのやら」

 ふっとため息が聞こえて、御蔭の細い綺麗な指が盃の縁をつかむ。

 どきりと視線をあげると、御蔭が首を傾げつつ微笑んだ。やさしく包み込むような慈愛に満ちたまなざし。それがまた、葵をどきっとさせる。

「悩みや希望があるなら聞きましょう。ただし、花嫁を降りるということ以外で」

 のんびりとした口調で訊ねてくるくせに、御蔭はちゃんと葵の核心をついてくる。

「花嫁を降りたくはないわ。でも……龍の鱗がなければ御蔭が見えないわたしは、ほんとうにあなたの花嫁としてふさわしい?」

 ただひとつ、それだけが不安だ。

 目を潤ませる葵を呆れ顔で見つめた御蔭が、「そんなことか」とでも言いたげに肩をすくめた。

「なにを言い出すのかと思えば。言ったでしょう。私が正式な花嫁に迎えたいのは後にも先にも葵だけだと」

 御蔭にそう言われたのは、蓮の咲く庭だった。

「けれど……」

 御蔭がどれほど想ってくれようと、葵が不完全であることには変わりない。

 感情の制御がうまくできなくなってしまった葵の目にじわっと涙が溜まった。

「そんな顔をしないでください。この盃には龍の鱗を粉にしたものが入っています。これを飲めば、もう御守りの龍の鱗は不要になりますよ」
「え……?」

 涙の滲む目を見開く葵に、御蔭がふっと妖しく微笑かける。そうして葵の手から奪った盃を口に付ると、クッと一気に傾けた。

「御蔭……」

 驚いた葵が身を乗り出した次の瞬間、白無垢の袖を引っ張られ、御蔭が口付けてくる。

 反射的に目を閉じると、葵の喉をコクンと熱いものがゆっくり流れていった。その熱さは胸に落ちて、身体の細部にまで広がっていく。

 やがて唇が離れて葵が目を開けると、御蔭の澄んだ青の瞳と間近で視線が交わった。

「これでもう葵は私の一部です。これからの時を、私とともにずっと生き続けてくれますか」
「……はい」

 甘い熱を含んだ御蔭のまなざし。胸の高鳴りが激しくなり、葵もそれに溶かされるように頷く。

「おめでとうございます、兄様。葵様」

 蓮華の祝福の言葉に、池の鯉たちも歓喜に湧き立った。

 着物や尾鰭を揺らしながら跳ね上がる鯉たちの動きにあわせて、小さな泡がきらめきながら水中を昇っていく。

 やがて池の水面に辿り着き、弾けたその泡は、白い蓮となって、美しい祝福の花を咲かせるのだった。
 
 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇 ☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

生きるために逃げだした。幸せになりたい。

白水緑
ファンタジー
屋敷内に軟禁状態だったリリアは、宝物を取り戻したことをきっかけに屋敷から逃げ出した。幸せになるために。体力も力もない。成り行きに身を任せる結果になっても、自分の道は自分で選びたい。 2020/9/19 第一章終了 続きが書け次第また連載再開します。 2021/2/14 第二章開幕 2021/2/28 完結

診察室の午後<菜の花の丘編>その1

スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。 そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。 「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。 時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。 多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。 この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。 ※医学描写と他もすべて架空です。

処刑された王女、時間を巻き戻して復讐を誓う

遊鷹太
ファンタジー
断頭台で首を刎ねられた王女セリーヌは、女神の加護により処刑の一年前へと時間を巻き戻された。信じていた者たちに裏切られ、民衆に石を投げられた記憶を胸に、彼女は証拠を集め、法を武器に、陰謀の網を逆手に取る。復讐か、赦しか——その選択が、リオネール王国の未来を決める。 これは、王弟の陰謀で処刑された王女が、一年前へと時間を巻き戻され、証拠と同盟と知略で玉座と尊厳を奪還する復讐と再生の物語です。彼女は二度と誰も失わないために、正義を手続きとして示し、赦すか裁くかの決断を自らの手で下します。舞台は剣と魔法の王国リオネール。法と証拠、裁判と契約が逆転の核となり、感情と理性の葛藤を経て、王女は新たな国の夜明けへと歩を進めます。

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました

cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。 そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。 双子の妹、澪に縁談を押し付ける。 両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。 「はじめまして」 そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。 なんてカッコイイ人なの……。 戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。 「澪、キミを探していたんだ」 「キミ以外はいらない」

25年目の真実

yuzu
ミステリー
結婚して25年。娘1人、夫婦2人の3人家族で幸せ……の筈だった。 明かされた真実に戸惑いながらも、愛を取り戻す夫婦の話。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

処理中です...