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10.祝いの盃
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花嫁衣装に着替えると、葵は蓮華たちに導かれて祝言の席へと移動した。
床の間の前の上座では、黒紋付羽織袴の御蔭が葵のことを待っている。下座には、赤や黄色や橙の鮮やかな着物の鯉たちが勢揃いで座っていた。
窓を開けた縁側には、池の中の真鯉や錦鯉たちがあつまり賑やかしい。
葵が和室の入り口に立つと、それに気付いた御蔭がやさしく目元を緩めた。その表情に、葵の胸がきつく締め付けられる。
三つで美雲神社に嫁いできたとき、マキノとキヨと美雲神社の神主に見守られて挙げた形式状の祝言は淋しく質素だった。
結婚というのは、なんて陰鬱な儀式なのだろう。幼い葵の心にはそんな記憶だけが残ったが、今日の祝いの席は葵の想像以上に華やかだ。
葵が御蔭の隣に座ると、蓮華がふたりの前に盃を運んできた。
蓮華が酌んだ盃に、まず御蔭が口を付ける。それから、まだ半分ほど入った盃を葵に差し出した。
「残りはすべて葵が。これで、あなたは私の正式な花嫁です」
御影に微笑みかけられて、葵は両手で盃を受け取った。
ずっと御蔭のそばにいることが葵の望み。ようやくそれが叶うのだと思うと、盃を持つ手が、胸が震える。
葵が盃を口に近付けて手前に傾けたとき、無数の鯉たちの視線が全方向から一斉に集まるのがわかった。
時が止まったような静けさの中で感じるのは、龍神の花嫁への祝福と期待。
横顔に圧を感じるほどの鯉たちの眼差しの熱に、葵は盃を手に一瞬躊躇した。
人の娘である自分を受け入れてくれる池の鯉たちの気持ちは嬉しい。
けれど、龍の鱗がなければ御蔭の姿見えない葵は完璧な花嫁とは言えない。
次にまた御守りをなくしてしまうようなことがあれば、御蔭に負担をかけてしまう。
そんな自分が御蔭の花嫁になることは許されるだろうか。
頭に浮かぶのは、ここに来る途中の和舟の中で生まれた懸念だ。
「こんなときに、私の花嫁はなにを考えているのやら」
ふっとため息が聞こえて、御蔭の細い綺麗な指が盃の縁をつかむ。
どきりと視線をあげると、御蔭が首を傾げつつ微笑んだ。やさしく包み込むような慈愛に満ちたまなざし。それがまた、葵をどきっとさせる。
「悩みや希望があるなら聞きましょう。ただし、花嫁を降りるということ以外で」
のんびりとした口調で訊ねてくるくせに、御蔭はちゃんと葵の核心をついてくる。
「花嫁を降りたくはないわ。でも……龍の鱗がなければ御蔭が見えないわたしは、ほんとうにあなたの花嫁としてふさわしい?」
ただひとつ、それだけが不安だ。
目を潤ませる葵を呆れ顔で見つめた御蔭が、「そんなことか」とでも言いたげに肩をすくめた。
「なにを言い出すのかと思えば。言ったでしょう。私が正式な花嫁に迎えたいのは後にも先にも葵だけだと」
御蔭にそう言われたのは、蓮の咲く庭だった。
「けれど……」
御蔭がどれほど想ってくれようと、葵が不完全であることには変わりない。
感情の制御がうまくできなくなってしまった葵の目にじわっと涙が溜まった。
「そんな顔をしないでください。この盃には龍の鱗を粉にしたものが入っています。これを飲めば、もう御守りの龍の鱗は不要になりますよ」
「え……?」
涙の滲む目を見開く葵に、御蔭がふっと妖しく微笑かける。そうして葵の手から奪った盃を口に付ると、クッと一気に傾けた。
「御蔭……」
驚いた葵が身を乗り出した次の瞬間、白無垢の袖を引っ張られ、御蔭が口付けてくる。
反射的に目を閉じると、葵の喉をコクンと熱いものがゆっくり流れていった。その熱さは胸に落ちて、身体の細部にまで広がっていく。
やがて唇が離れて葵が目を開けると、御蔭の澄んだ青の瞳と間近で視線が交わった。
「これでもう葵は私の一部です。これからの時を、私とともにずっと生き続けてくれますか」
「……はい」
甘い熱を含んだ御蔭のまなざし。胸の高鳴りが激しくなり、葵もそれに溶かされるように頷く。
「おめでとうございます、兄様。葵様」
蓮華の祝福の言葉に、池の鯉たちも歓喜に湧き立った。
着物や尾鰭を揺らしながら跳ね上がる鯉たちの動きにあわせて、小さな泡がきらめきながら水中を昇っていく。
やがて池の水面に辿り着き、弾けたその泡は、白い蓮となって、美しい祝福の花を咲かせるのだった。
床の間の前の上座では、黒紋付羽織袴の御蔭が葵のことを待っている。下座には、赤や黄色や橙の鮮やかな着物の鯉たちが勢揃いで座っていた。
窓を開けた縁側には、池の中の真鯉や錦鯉たちがあつまり賑やかしい。
葵が和室の入り口に立つと、それに気付いた御蔭がやさしく目元を緩めた。その表情に、葵の胸がきつく締め付けられる。
三つで美雲神社に嫁いできたとき、マキノとキヨと美雲神社の神主に見守られて挙げた形式状の祝言は淋しく質素だった。
結婚というのは、なんて陰鬱な儀式なのだろう。幼い葵の心にはそんな記憶だけが残ったが、今日の祝いの席は葵の想像以上に華やかだ。
葵が御蔭の隣に座ると、蓮華がふたりの前に盃を運んできた。
蓮華が酌んだ盃に、まず御蔭が口を付ける。それから、まだ半分ほど入った盃を葵に差し出した。
「残りはすべて葵が。これで、あなたは私の正式な花嫁です」
御影に微笑みかけられて、葵は両手で盃を受け取った。
ずっと御蔭のそばにいることが葵の望み。ようやくそれが叶うのだと思うと、盃を持つ手が、胸が震える。
葵が盃を口に近付けて手前に傾けたとき、無数の鯉たちの視線が全方向から一斉に集まるのがわかった。
時が止まったような静けさの中で感じるのは、龍神の花嫁への祝福と期待。
横顔に圧を感じるほどの鯉たちの眼差しの熱に、葵は盃を手に一瞬躊躇した。
人の娘である自分を受け入れてくれる池の鯉たちの気持ちは嬉しい。
けれど、龍の鱗がなければ御蔭の姿見えない葵は完璧な花嫁とは言えない。
次にまた御守りをなくしてしまうようなことがあれば、御蔭に負担をかけてしまう。
そんな自分が御蔭の花嫁になることは許されるだろうか。
頭に浮かぶのは、ここに来る途中の和舟の中で生まれた懸念だ。
「こんなときに、私の花嫁はなにを考えているのやら」
ふっとため息が聞こえて、御蔭の細い綺麗な指が盃の縁をつかむ。
どきりと視線をあげると、御蔭が首を傾げつつ微笑んだ。やさしく包み込むような慈愛に満ちたまなざし。それがまた、葵をどきっとさせる。
「悩みや希望があるなら聞きましょう。ただし、花嫁を降りるということ以外で」
のんびりとした口調で訊ねてくるくせに、御蔭はちゃんと葵の核心をついてくる。
「花嫁を降りたくはないわ。でも……龍の鱗がなければ御蔭が見えないわたしは、ほんとうにあなたの花嫁としてふさわしい?」
ただひとつ、それだけが不安だ。
目を潤ませる葵を呆れ顔で見つめた御蔭が、「そんなことか」とでも言いたげに肩をすくめた。
「なにを言い出すのかと思えば。言ったでしょう。私が正式な花嫁に迎えたいのは後にも先にも葵だけだと」
御蔭にそう言われたのは、蓮の咲く庭だった。
「けれど……」
御蔭がどれほど想ってくれようと、葵が不完全であることには変わりない。
感情の制御がうまくできなくなってしまった葵の目にじわっと涙が溜まった。
「そんな顔をしないでください。この盃には龍の鱗を粉にしたものが入っています。これを飲めば、もう御守りの龍の鱗は不要になりますよ」
「え……?」
涙の滲む目を見開く葵に、御蔭がふっと妖しく微笑かける。そうして葵の手から奪った盃を口に付ると、クッと一気に傾けた。
「御蔭……」
驚いた葵が身を乗り出した次の瞬間、白無垢の袖を引っ張られ、御蔭が口付けてくる。
反射的に目を閉じると、葵の喉をコクンと熱いものがゆっくり流れていった。その熱さは胸に落ちて、身体の細部にまで広がっていく。
やがて唇が離れて葵が目を開けると、御蔭の澄んだ青の瞳と間近で視線が交わった。
「これでもう葵は私の一部です。これからの時を、私とともにずっと生き続けてくれますか」
「……はい」
甘い熱を含んだ御蔭のまなざし。胸の高鳴りが激しくなり、葵もそれに溶かされるように頷く。
「おめでとうございます、兄様。葵様」
蓮華の祝福の言葉に、池の鯉たちも歓喜に湧き立った。
着物や尾鰭を揺らしながら跳ね上がる鯉たちの動きにあわせて、小さな泡がきらめきながら水中を昇っていく。
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