名無しスズメと猫目尼僧

めけめけ

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第1章 スズメの上京

第8話 有働忠孝の書斎

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「良く参られた、小田原の御前」
 玄関から廊下を通り、まっすぐと書斎へと通された尼僧は、恭しくも親しげに挨拶をした。
「お招きいただき、感謝いたします。相変わらずの御忙しさと伺っておりますれば、何かよほどの大事でもございましたか」
 有働忠孝は大きなデスクで何やら書き物をしていたらしく、椅子に座ったまま、肩越しに会話を続ける。
「すまないね。すぐに済ませるから、まぁ座って、座って」
 書斎の中には応接のテーブルとソファーがあり、尼僧は言われるがまま腰を下ろした。
「どうかお気になさらずに――私は退屈という物を知りません。目にする物、耳に入る物、ここには珍しい物ばかりですわ」

 書斎には様々な書物が並べられている。壁には建物のスケッチや見取り図、設計図面、写真が貼られており、サイドボードには写真盾が飾られている。
「もし気になるものがあれば、手に取って見てもらってかまわないからね」
 有働忠孝は、口以上に手を動かすことを止めない。手に握られた鉛筆が紙の上を縦横無尽に飛び交う。時に滑らかな曲線を描き、そこから細かく点を書きこむような動きになり、直線を階段状に繋げ、大小さまざまな円を描き、空間を埋めるように鉛筆を寝かせて塗りつぶす。

 尼僧は促されるままに部屋の中を見回し、ゆっくりと部屋の中を歩きはじめた。
「これは中国にいらした時のお写真ですわね」
 そう言って尼僧が手に取ったのは、有働がまだ帝都大学工科大学助教授だったころに中国からインド、トルコといわゆるシルクロードを探検した時の記念写真であった。
「もうずいぶんと昔の話です。20年、いや、今は1931年だから、25年以上前ということになるか……歳をとるわけですなぁ」
 江戸末期に生を受け、明治、大正、昭和と3つの時代を生きてきた初老の男は、それでもなお活力に溢れているように見えた。額は頭頂部まで広がり、髪の毛や髭にはすっかり白い物が混じってはいるものの、丸渕のメガネの奥の瞳は少年のように輝いている。肌艶はよく、背筋もしっかりと伸び、うしろ姿なら、今の年齢より随分と若く見えるに違いない。

「それこそご謙遜というものですよ。十分お若くていらっしゃいますわ」
「小田原の御前がそうおっしゃるのなら、まぁ、悪ぶれずに謹んでお受けいたしましょう。どうも、教授だ、なんだと偉くなったお掛けで、周りがやたらと私のことを持ち上げるものですから、果たして人の本心とはどのあたりにあるのか。野良猫だって、餌をくれる人とそうでない人を見分けて態度を変えるのですから、それは恐ろしくて、おいそれとおだてや世辞と言うのを真に受けてはいられません」

 尼僧は愛嬌のある笑顔を称え、有働もまた、大きな声で笑った。
「以前お邪魔した時には、こちらのお写真はなかったように思えたのですが、どこかから不意に出てまいりましたか?」
「これは、これは――」
 有働は頭頂部が薄くなった頭を左手で撫でて、苦々しい顔で答えた。
「小田原の御前にはかないませんな。いや、先ほどの話ではないのですが、懐かしい写真を持ってきて、懐かしい話を散々した後に、資金をどうにか援助してくれないかとせがまれましてな。まぁ、そういうことでもなければ、わざわざこんな偏屈な男の元に、立寄ったりはしないのでしょうが」

「まぁ、まぁ、これは余計なことを聞いてしまいましたわね」
 尼僧にはその人物が誰であるのか察しがついていたが、あえてそれを口にすることはなかった。それは尼僧にも縁のある人物であり、風の噂で金銭のトラブルがあることを聞いていたからである。
 有働と知り合ったのはその人物がきっかけであったが、尼僧とは"同業者"でありながら教義が異なるため公の場での接触は憚れたこともあるが、宗派の重職にありながら、その枠にとどまらない”かの御仁”と行動を共にすることは、あまりに目立ちすぎることを、尼僧は警戒していた。

「あれからは、連絡が行きませんでしたか?」
「”かの御仁”の周りはいつも話題が絶えません。人の注目がいつも集まってございます。私のような身分の者がお近づきになれば、何かとご迷惑をおかけしてしまいますれば……」
「あれは、御前と話がしたそうだったがな」
「無視を決め込んでございます。その方がよろしいかと」
「ああ、違いない」

 二人は顔を見合わせ、”かの御仁”の憎めない顔を思い浮かべながら笑った。

「さて、お待たせいたしました。今日お越しいただいた本題に話を移しましょう。これをご覧ください。小田原の御前」
 有働は、デスクから立ち上がり、先ほどまで書いていた一枚の紙を両手で持ち、自分から遠ざけて内容を確認すると、応接のソファーに腰を掛け、尼僧にその紙を180度回転させて、テーブルの上に広げて見せた。
「これがお手紙にあった、例のものでございますね」
「左様、なかなかに面妖なものなのではあるが、まぁ、いろいろと人づてに聞いたことを絵にするとだ。こんな様子だったそうな」
「猫でございますね」
「いかにも猫であるが、しかし、そこらにいる猫とはいささか異なるようで、みなも困っておる。というか気味悪がってしまって、仕事が手につかないということで、ほとほと困っておる」

 有働が広げた紙には、5体の猫が描かれている。左上スミに二本足で立ち、手ぬぐいのようなものを頭にかぶり踊っているブチ柄の猫。右上スミには屋根の瓦を落として回る猫。右下スミに人魂と思しき鬼火に照らされながらこちらを睨みつける猫。左下隅に、女物の着物を着て、三味線を弾いている猫。そして中央にうすら暗い、陰鬱な表情で恨めしそうにこちらを睨む猫の尾は二股に割れていた。

「まぁ、可愛らしいこと。でも、真ん中の猫は酷く禍々しいですわね」
「ああ、4スミのそれは、具体的な証言に乏しく、人の噂のなせる業だと思うがね。ただ、中にしっかりとしていくつかの証言があって、それを形にしたのが、その真ん中の化け猫ということになる。まさか、ここにいるすべての化け物が実際にいるとは私も思ってはいないが、いたのならいたで、この目で見て見たい」
 有働は少し興奮気味に話をしている。まるで母親に自分の書いた絵を自慢している子供のようであった。
「それは、それは、なんとも有働様らしきことで……加持祈祷によって払え、鎮めろと言うのが普通のところでしょうに」

 有働は首を振り、そして頷き、一度メガネを取って目頭を押さえ、そしてメガネをかけ直した。
「まぁ、場所が場所だけに、私が好きにできるものでもないのが残念だが、これ以上工事を遅らせるわけにもいかず、ほとほと困っておるわけだが、できればこの目で見たい。そして現場の不安を取り除き、滞りなく仕事は進めたいものだと……これは贅沢なお願いだろうか?」

 小田原の御前はにっこりとほほ笑み、言葉を返す。
「有働様がお望みであれば、そのように致しましょう。それが私の務めでございますれば、何もお気遣いされることなく申しつけ下さいまし」
「では、御前、よろしく御頼み申し上げる」
 帝都大学名誉教授たる有働忠孝は、起立して深々と頭を下げ、小田原の御前もまた、すっと立ち上がり、手を合わせて申し出を受け入れた。

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