名無しスズメと猫目尼僧

めけめけ

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第2章 猫目の怪異

第17話 剛と幸太郎、坂を下る

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 神田神保町の古書店街は、明治10年代から近隣に法律大学が多数創立されて以来、学生相手に古書店や法律の専門書を扱う書店が集まってできた古い歴史を持っている。
 羽佐間剛が上京する決意を固める要因として、そのような場所に住むことができるというのは、そこが女店主と娘が切り盛りしている喫茶店 東風亭の二階であるということよりもはるかに重要であったことは、その話を持ちかけた長谷川幸太郎の手紙と一緒に送られてきた古書が物語っている。

 古書店が並ぶ靖国通りの南側からすずらん通りに抜ける道に入ったすぐのところに東風亭は構えられており、二人は靖国通りから明治大学(旧明治法律学校)に向かって歩きはじめた。
 剛はまだ古書店巡りをしていないだけに、視線はどうしたって店頭に並ぶ古書や専門書に目が行ってしまう。
「まぁ、そう慌てるな。本は逃げたりはしないさ」
「いや、幸太郎、それは違うぞ。誰かが買って持って行ってしまうかもしれないではないか」

 剛は幸太郎の方を向くことなく、恨めしそうに本を眺めている。
「それはそうだろうが、お前さんまさか、ここにある本をすべて読むつもりじゃあるまい。それに本来買って読まなければならないものなのだから、どうやったって、ここにある本を全部読むなど、出来るはずもない」
「それはそうだがなぁ……」
 剛は右手で頭を激しくかき、己の欲を抑えることに努めるしかなかった。

 チュン、チュン
 チュン、チュン
(剛は本当に本が好きなんだねぇ)

 剛の羽織の左袖に隠れた鈴音が呆れたと言わんばかりにさえずる。

 日曜日のお昼前、商店街は学生を始め、本を買いに来た客でにぎわっている。剛にとってはあまり慣れない人だかりであるが、幸太郎は慣れた足取りで人込みを抜けていく。その大きな背中を追いかけるように剛は身を屈めるように歩くほかない。
「このあたりも関東大震災でみんな焼け出されたんだが、聞くところによると二週間やそこらで営業を再開したそうだ」
 幸太郎は明治から創業している一誠堂の前で足を止めた。
「すごいなぁ。焼け出されたってことは、本は無事で済まなかったということだろう」
 剛は酷く感心した。
「まぁ、本は商品だからな。流通さえ整えば新書だろうと古書だろうとどこにでも届く。俺がすごいと思うのは、食べるものも着るものも不足するなかで、本を売ろうなどとよくもできたものだということさ」

 剛は少し考えて、そして嬉しそうに答えた。
「そりゃあ、人は食べ物、飲物なしでは生きていけないし、着るものがなければ風邪を引くし、雨風しのぐ屋根もいる。だけどな、幸太郎。人が生きるということは、動物がしているようなことだけでは足りないのだよ。なぜなら人には心があるからな。そして知恵を得て、それを利用し、共有することで他の生き物よりも圧倒的な生存率を誇るんだ。物語は心の飢えを見たし、専門書は生きる糧となる。本とはかように大事なものなのだよ。人間にとって」

 幸太郎は酷く懐かしい気持ちにさせられたことを、少しばかり照れくさく感じていた。まだ、学生の頃、本ばかり読んでいる剛をからかったことがあるが、そのたびに本の素晴らしさを剛に悟らされ、そのついでに『これを持っていけ』となにやら小難しい本を渡されて難儀したものである。
「剛よ、お前は変わらぬな」

 チュン、チュン、チュチュン
(私にだって心はあるわよ、失礼しちゃうわ)

 剛がそのまま一誠堂に入ってしまいそうだったので、幸太郎は先を急ぐように促した。
「本は誰かに買われてしまうかもしれないが、書店は逃げないさ」

 剛は後ろ髪を惹かれながらその場を後にした。

 靖国通りを抜けて明治大学までは普通に歩けば10分程度で着くが、剛があちこちで立ち止まったため、もう少し時間がかかった。
「ほう、さすが東京の大学は立派なものだなぁ」
 明治大学――旧明治法律学校の校舎もまた震災よって崩壊し、1928年-昭和3年に3代目の校舎として生まれ変わった。
「どうだ、なかなかの物だろう」
 幸太郎が指差す先にはグレコローマン調のヨーロッパ様式と日本の平安時代を彷彿させる和式建築を組み合わせたモダンな建造物が姿を現した。
「すごいものだな。こんな場所で学べるとは、羨ましい限りだ」
 日本的な直線の組み合わせとヨーロッパ的な円形のドーム型の屋根、コンクリートの柱はギリシャの建造物にも見える。
「俺は現代の建築はかくあるべきだと思っている」

 剛は東京駅を目の当たりにしたときの圧倒的な存在感とはまた違う、重厚な建築物に圧倒されながらも、幸太郎がこのような建物――つまり人間が叡智を結集して作り上げた建造物に対して、自分が本に対する思いと同じような憧憬と畏敬の意と尊重すべき価値を見出しているのだと改めて思い知らされた。

「幸太郎は本当に好きなのだな。建築が」
 幸太郎は少しばかり興奮しすぎたことを照れくさく思いながらも、剛とこの気持ちを共有できたことをとても誇らしげに思っているのであった。 
「これを設計した人物もなかなかであるがな、剛よ。有働という建築家がまたすごいのだ。それはまたの機会に案内するがな。本当にすごいのだ」
 幸太郎は目を輝かせながら剛に訴えた。

「そんなにすごいのか。その有働という建築家は」
 幸太郎の勢いに押されながらも、剛は有働という名を自分の脳内の書庫で検索していた。
「ああ、有働忠孝……たしか今は帝都大学名誉教授だが、あの御仁の和洋折衷の建造物は、なんというか、只者ではないのだよ」
 剛の記憶の中にある人物の姿が浮かんできた。
「有働忠孝帝都大学……名誉教授、確か帝都大学の正門や明治神宮を設計した建築家で――」
 幸太郎がさらに興奮した口調でまくしたてる。
「おお、知っておったか。さすが歩く図書館と言われた男よ。国一番の物知りよ」

「その呼び名は……」
 剛は苦虫を噛みつぶしたような表情をしながら、幸太郎に訂正を求めた。
「確か二楽荘(にらくそう)という、たいそう風変わりな、なんと言ったか、変わった御仁の別邸を設計したと新聞だったか何かの本で読んだ記憶がある」

 その話をしたとたん、幸太郎の表情が微妙に変化した。
「あれはなぁ。まあ確かに面白おかしくはあるが、俺にはわからん代物だ。しかし、有働教授がすごいのは確かだぞ」

 その時思い出せなかった人物の名前を、剛はのちにある人物から聞くことになるのだが、それはまだ先のこととなる。

「まぁ、有働教授の設計した建物はこの辺りですぐに目にすることができるから、まずは目的地に行こうではないか」
 幸太郎の案内で、そこから御茶ノ水に向かって歩みを進める。駿河台を越えて本郷通りを進むとニコライ堂が姿を現す。
「あれがニコライ堂だ。震災を生き残った貴重な建造物だが、ほら、その通りを挟んで向こうに見えるのがそうだ」
 幸太郎が指差す先に大通りからわきに抜ける小道が見える。
「あれが例の坂か」
 剛は眼鏡のブリッジを指で少し押し上げ、幸太郎が指差す方向を見やる。
「おうよ、あれが幽霊坂よ」

 二人は化け猫が出たという幽霊坂の上にたどり着いた。
「どう思う? 剛よ」
「ただの坂だな」
「ああ、ただの坂だ。俺もそう思う」
「だが先が見えないのは気になるな」
 坂の上から坂の下までは見通せない。上から見ると左にカーブしている。
「降りて見るかよ」
「ああ、行ってみよう」

 二人は無造作に歩き出し、坂を下った。見通せなかった坂の下は、下って行くとすぐにその構造が明らかになった。
「ほんの少し曲がっているのは、不自然と言えなくもないが、どこにでもあるともいえるな」
 幸太郎の言葉に剛もうなずく。
「まぁ、夜になれば灯りがないから多少不気味さはあるのかもしれないが、だからといって化け猫がでるような雰囲気でもない。だいぶ整備されているように思うが、それはあれによるものか」
 剛が"あれ"と言ったのは二人が歩いてきた道そのもののことであり、本郷通りは区画整備で拡張と舗装が勧められている。それはその先に聖橋が完成し、街の区画整備が日に日に進められている中で、この坂も元の形をすでにとどめていないのである。

「どうやら単なる与太話だったかもしれんなぁ」
「いや、そうとも限らないさ」
 剛は懐からノートと鉛筆を取り出して、周辺の地図を書き始めた。
「幸太郎、このあたりの地図は手に入るか。それも最近のものと古い物と、出来るだけどう変わって言ったかが知りたい」
「ああ、それならなんとかしよう。他に何かあるか」
 幸太郎は背広の胸ポケットから手帳を取り出し、メモを取った。
「この坂の工事をした業者が解ればそれも知りたい。その発注の流れまでわかればなおいい」
「わかった。調べてみよう」

 にゃーおー

 不意の猫の鳴き声に、二人の手が止まる。
 振り向くとそこには一匹の白い野良猫がこちらの様子を怪訝な顔をしてみている。

「こいつは驚いた。猫だ」
 さすがの偉丈夫も化け猫が出ると言われた幽霊坂で猫の鳴き声には肝を冷やした。
「ああ、猫だな」
 剛は冷静に猫を観察している。
「こんにちわ、ここは君の縄張りかい?」
 剛の問いかけに白い野良猫は耳をぴくぴくと動かすものの、それ以上の反応はしない。
「随分と剛毅だね。僕らは君に面倒をかけるような輩じゃないから安心してくれたまえ。この偉丈夫は幸太郎、僕は剛だ」
 友人が猫に自己紹介をしている姿を幸太郎はただ唖然と眺めている。
「今日は挨拶だけ、こいつを書き上げたらすぐに引き上げるつもりだよ」

 うぉーん

 短く鳴いて、白ネコは向きを変えて建物と建物のわずかな隙間に姿を消した。
 
「あれは、なんだ?」
「猫だよ」
「それは、そうだが、話が分かるのか」
「さぁ、どうだろうね」
「わかった顔をしていたぞ」
「ああ、僕にもそう見えた」

 幸太郎は狐につままれたような顔をしていたが、すぐに我に返った。
「少し時間がかかるかもしれないが、依頼は確かにうけた」
「ああ、頼りにしているよ」
 二人は坂を下り、神田須田町の方角へと向かって行った。

 それは小田原の御前がここを通った一時間後のことであった。

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