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第10話
しおりを挟むーーどうして、こうなっているのかしら?
「オリビエ、ほら見てごらんよ!海鳥があんなに高く飛んでる」
まるで子供のように目を輝かせながら、空高く飛び上がる海鳥を指差すレナード。
その隣に立って同じように海鳥に視線を向けながら、オリビエは今の状況がいったい何なのか分からず半ば困惑していた。
どこまでも続く青い空、青い海。
頬に当たる風が心地よい。
『デートしてよ』
レナードからその言葉を聞いたのはほんの数日前のことだ。
一時の戯れだろうと、本気にしていなかったオリビエだが。
店に入ってから初めてもらった休暇の日の朝に、オリビエのもとを訪れたのは外ならぬレナードだった。
いったいどうしたのだろうと目を白黒させるオリビエをよそに、レナードはその手を取ると『約束しただろう?今日デートしよう』と笑いかけてきた。
あれはほんの戯れでは?そうオリビエが口を挟む暇さえないくらいに手早く外に連れ出されてしまった。
レナードが来るより早く、『用事があるから』とルイが出ていたことが幸運だった。
レナードとオリビエが仲良くしていることがどうにも気に食わないルイのことだから、もし見られていれば後でどんな嫌味を言われていたか想像がつかなかった。
そしてオリビエは今、レナードに連れられてこの街の港から船に乗っている。
観光用の遊覧船ということだが、船の上にはオリビエ達以外にも他の客の姿も見えた。
城を離れるときにも船に乗ったが、思ったよりも船の上がオリビエは嫌いではなかった。
人によっては酔うこともあると昔書物で読んだことがあったが、幸いオリビエは平気なようだった。
不意に海鳥の鳴く声が耳につく。
そちらに視線をやれば、いつのまにか海鳥はすぐ近くを飛んでいた。
「餌が欲しいんだ」
隣にいたレナードがそう口にする。
「……船の近くを飛んでいると、乗客が餌をあげることがあるんだ。それを覚えてるんだよ」
「そうなのですね」
レナードの言葉通り、他の乗客の中には周りを飛び交う海鳥に餌のようなものを投げている姿が見える。
餌を投げられた海鳥は、風に煽られながらも海に落とすことなくキャッチしている。
「オリビエもやってみる?」
「……え?」
「案外楽しいよ。向こうに餌が売っているから、少し待ってて」
レナードはそう言うと、小走りで売り場らしきところへ行ってしまう。
その後ろ姿を見つめながら、オリビエはもう一度視線を海の方に戻した。
どこまでも続く青の上をすべるように船は進んでいく。その先の地平線へ視線を伸ばすと、オリビエはその地平線の向こうには一体何があるのだろうという気持ちに駆られた。
「あの先に何があるんだろうって思うよね」
不意に耳元で聞こえた声にオリビエは驚くように振り返った。
後ろには海鳥の餌を持ってきたレナードが立っていた。
「あ、ごめん。驚かせちゃったね」
「いえ、大丈夫ですわ」
「あんまり君が真剣に海の向こう側を見ているから、僕と同じことを考えてたりするのかなって思ってつい」
「そうでしたのね」
「……気分を害したかな?」
後ろから急に話しかけられるのは心臓に悪い。だが、レナードに悪気があったようには見えないので怒る気も起きなかった。
オリビエはレナードが持ってきた受け取りながら「そんなことはありませんわ」と声をかける。するとレナードは安心したような顔を見せた。
「海鳥はね、上手に餌をキャッチするから気にせず投げてみるといいよ」
レナードの助言に従ってオリビエは餌をあげてみることにした。
船端によって、餌を構えると自然と海鳥もオリビエの側に寄ってくる。その数の多さに僅かに怯みそうになるが、意を決して投げてみる。
オリビエの手から離れた餌は風に乗って飛ばされるが、あっという間に集まった海鳥のうちの一羽がキャッチした。
慣れた様子で餌をキャッチする姿にオリビエはもう一度餌を投げる。すると今度もまた上手にキャッチした。
思いのほかそのやり取りは面白く、気が付けば袋の中の餌はすべてなくなっていた。
そうなってから、自分がレナードのことも忘れて夢中になっていたことに気が付いた。
途端に恥ずかしさに襲われる。
「も、申し訳ありません。袋の中身……すべて食べさせてしまいましたわ」
恥ずかしさを隠すようにオリビエがそう呟くと、側でオリビエを見ていたレナードが口を開く。
「オリビエもそんな顔するんだね」
「……え?」
「いや、餌を投げているときすごく楽しそうな顔をしていたから……いつもはなんかこう……我慢しているというか……自分の感情を押し殺しているように見えたからさ。楽しそうな顔が見られてよかったよ」
レナードが嬉しそうな顔をする。
ーーそんなことくらいで、どうして貴方はそんなに眩しい笑顔を向けられるの?
そんな疑問が口をつきそうになった。
城にいた時は、誰もオリビエが楽しいと感じているかなんて気にしていなかった。
教師はいつもオリビエにきつく当たるばかり、婚約者のサーフィスはオリビエの感情なんてちっとも気にしなかった。
唯一心を通わせられているように感じていた幼馴染とも、身分の差で疎遠になってしまっていた。
そんな生活を続けているうちに、無意識のうちに期待することなんて止めてしまっていた。
ーー誰かに気にかけてもらえている。
そんな当たり前のことを。
けれどもレナードはオリビエにいつも優しい言葉をかけてくれる。
かつて自分が夢見ていたセリフを。どうしてそんなに優しいのかオリビエには理解できない。けれど、レナードといると心の内側が温かくなるような気持ちになった。
その感情はサーフィスには感じたことのない不思議なものだった。
それがいったい何なのか、オリビエには分からなかった。
「オリビエ?すまない僕は何か君を傷つけることを言ってしまったかい?」
すっかり黙りこんでしまったオリビエにレナードが心配するように声をかける。
「い、いえ……申し訳ありません。レナード様のせいではありません。お気にしていただいてありがとうございます」
「そうかい?ならいいけど……何かあったらいつでも僕を頼ってくれよ?」
レナードの優しい言葉が心に沁みた。
「……ありがとうございます」
もう一度そう伝えると、レナードはいつものように微笑んだ。
船を降りてからもレナードとオリビエは二人で街の中を散策した。
初めて見るものが多かったオリビエに、レナードは色々なことを教えてくれながら歩いた。
時間はあっという間に過ぎていき、気が付けば夕日が街を染めていた。
町中を歩き回った二人は、街の中心にある広場に来ていた。
広場には大きな噴水が設置してあり、二人は広場の隅に並んでいたベンチの一つに腰かける。
「オリビエ、今日は僕に付き合ってくれてありがとう。とても楽しい一日だったよ」
「私もレナード様とたくさんお話ができて楽しかったですわ」
素直な感情を口にすると、レナードは「そっか」と笑う。
「そういえば……どうしてレナード様は私などをお誘いになったのですか?」
素直ついでにそんな言葉が口をついた。
デートというのは普通に考えれば恋人同士でするものだ。
雇用主と従業員という関係性であるオリビエに、どうして『デート』などという言葉を使ったのかオリビエには分からなかった。
オリビエの言葉を聞いたレナードの顔が僅かに驚いたような顔をする。
「え?それは……」
レナードの顔が動揺するように僅かに視線が泳ぐ。
茜色にそまりつつある街の中で、レナードの頬がそれよりも濃い赤に染まっているような気がした。
何かまずいことでも聞いてしまっただろうか、と不安になるオリビエだがレナードはなかなか言葉を続けようとしない。
ーーレナード様はいったいどうしたのだろうか?
いい加減心配になり、オリビエが言葉を続けようとした時だ。
「おや、レナードの旦那じゃないか!!」
二人の世界を裂くように、とても大きな声が響いた。
レナードにしか集中していなかったオリビエは完全に不意打ちを食らい、身体がびくっと震える。
「ああ、アスベルじゃないか」
だがレナードは違ったようで、ベンチからすくっと立ち上がるとオリビエを残して声のした方に歩み寄る。
そこにいたのは長身の男だった。
レナード同じくらいの背の高さだが、レナードと違うのは細身のレナードに対して男はごつごつとした岩石のような身体をした大男ということだろうか。
男とレナードは知り合いのようで、親し気に何かを話している。
「すまない、仕事相手の一人でね。少し待っててもらえないかい?すぐ向こうに相手の店があるから、少し顔を覗かしてくる」
男と何かを話し終え、戻ってきたレナードはそう言うと申し訳なさそうな顔をした。
「はい、私は大丈夫ですよ」
「本当にすまない、すぐに用事を済ませて戻ってくるからここで待ってておくれ」
レナードはそう言うとオリビエに背を向けて男と向かいの建物の中へと入っていく。
ぽつんとベンチに残されるオリビエ。
ーーレナード様、いったい何を言おうとしていたのかしら?
ーー戻ってきたらもう一度聞いてみよう。
そう思った。
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