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#25. 逃亡
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「今頃、智くんはビックリしてるかもしれないな‥‥」
電車に揺られ外の景色を眺めながら、私はポツリとつぶやく。
何も言わないで突然消えて心配をかけているかもしれない。
でも私にはこうするしかなかったのだ。
(最後にあんなふうに抱いてもらえて幸せだったな‥‥)
私はあの甘い一夜を思い出し、あの幸せにはもう戻れないと思うと目に涙が浮かんだ。
あの日、私は智くんに素直な気持ちを伝え、偽りの婚約者役を終わらせる決意をしていた。
それは元会長夫人の言葉を聞いて、いつまでもこのままじゃいけないと思ったからだ。
いつ一緒にいられなくなるか分からないのだから、ちゃんと伝えないと後悔すると思った。
そして同時に、智くんの元から去る決意も固めていた。
それはあの記者が私の居場所を突き止めて現れたからだった。
あの記事は遅かれ早かれ近日中に公開されることになるだろう。
そうなれば、智くんにも迷惑がかかってしまう可能性が高い。
その記事の後追い取材として別の記者がまた来るかもしれないし、もし智くんと一緒に住んでいることがバレれば、男漁りされた可哀想な人として智くんも悪く言われるかもしれない。
そんなこと絶対避けたかったし、居場所が露見した以上はあの場にはもういられないだろう。
そう思って、カフェのマネージャーにもあの日辞める旨を話してきた。
詳しいことは話せないものの、「人から逃げていて居場所がバレてしまったのでもうここでは働くことが難しい」と話したのだ。
マネージャーは私がストーカーから逃げていると思ったらしく、理解を示してくれると、「またいつでも戻ってきていいから」と言ってくれたのだった。
(本当にいい人に恵まれていたな。カタリーナやアンドレイ、ジェームズさん、渡瀬さん、ノヴァコバ議員夫妻などにもお世話になったから挨拶したかったけど‥‥)
プラハで出会った人々の顔を思い浮かべると、寂しくて胸が締め付けられるようだった。
最後に智くんに抱いて欲しいと言ったのは、婚約者役としてではなく、ただの秋月環菜として、少しでも幸せな記憶がほしかったからだ。
私の気持ちを素直に話して、智くんが困ったとしても、ただ最後に抱いてくれるだけでも良かった。
なのに、まさか智くんも私を好きでいてくれたなんて予想外だったのだけど、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
気持ちが通じ合った触れ合いはすごく甘く幸せで、もうこのままどうなってもいいと思った。
一瞬決意が鈍りそうになったけど、でも逆にこんなに大切な人を巻き込みたくない、迷惑をかけたくないとも強く感じた。
智くんは明日からしばらく日本だ。
日本で忙しくしている間に私のことも忘れてくれるだろう。
それにもしかすると智くんが日本にいる間にあの記者の記事が出れば、私の過去のスキャンダルについても彼の目や耳に入ることになるかもしれないと思った。
そうなればきっと幻滅されるに違いない。
もうあんなふうに私を好きだと言ってくれるはずがないのだ。
だって彼の周りには魅力的な女性が常に溢れているわけで、わざわざ私みたいな面倒なスキャンダル持ちの終わった女を選ぶわけがないから。
私は演じることくらいでしか彼の役に立てないし、それができなくなった今、面倒をかけるだけの存在で、もうそばにいる資格もないと思うのだ。
そう思うと胸を鷲掴みされるような苦しみを感じた。
せめて彼との思い出に浸っていたい、そう思った私は、クリスマスに一緒に行こうと約束したフランスのストラスブールに向かうことにしたのだ。
しばらくはそこで今後どうするかを考えながら静かに暮らそうと思っている。
プラハから電車を何度か乗り継ぎ、数時間かけてようやくストラスブールに到着する。
ストラスブールは、フランスの北東部に位置し、ドイツとの国境沿いにある都市だ。
かわいらしい木骨組みの家々が並ぶメルヘンチックな風景で知られる古都だそうだ。
私は駅から外に出ると、予約しておいたホテルへ向かう。
ここストラスブールもプラハと同じようにトラムが人々の足になっているようだ。
私は停留所にある券売機でチケットを買うと、トラムに乗って、街並みを眺めた。
プラハとはまた違った雰囲気の可愛らしい街並みで、思わず目を奪われる。
すでに町中がクリスマス一色になっているようで、至る所でデコレーションやライトアップされているのを見かけた。
予約していたホテルに着くと、チェックインを済ませて部屋に入る。
シングルルームのシンプルで小さな部屋だ。
安めのホテルを選んだので、とりあえず今後のことを決めるまではここを拠点に動こうと思っている。
移動で疲れてしまった私は、そのまま部屋でシャワーを浴びるとベッドの中に潜り込み、幸せな昨夜から逃げるようにすぐ眠ってしまった。
翌日は、身支度を整えて、街をぶらぶらと一人で歩いてみる。
クリスマスシーズンで観光客が多く街は活気ずいているが、日本人は多くないようなので一安心だ。
旧市街は世界遺産に登録されているらしく、さすがの美しさだった。
(今頃、智くんは日本に向かっているのかな。これからしばらくは国際会議で大忙しなんだろうなぁ。身体を壊さないといいけど)
木骨組みの建物が並ぶ川沿いを散策しながら、
思い出すのは智くんのことばかり。
智くんのもとを去った私が心配してもしょうがないのだけどと自嘲気味な笑みが浮かぶ。
気を紛らわすように偶然目に入ったカフェになんとなく足を踏み入れ、コーヒーを注文した。
外の刺すような冷たい空気が嘘のように店内は温かい。
こじんまりとした昔ながらのカフェという雰囲気のお店は、年配のおばあさんが営んでいるようだった。
フランス語で話しかけられ、私がフランス語は分からない旨を英語で返すと、英語に切り替えて話してくれた。
『これ、注文されたものではないけど、良かったら食べてちょうだい』
そう言ってコーヒーと一緒に提供されたのは、洋菓子のカヌレだった。
『いいんですか?』
『なんだかこの世の終わりみたいな顔してるじゃない。甘いものでも食べて落ち着いたらいいわよ。甘いものは人を幸せにしてくれるからね』
おばあさんはそう言って優しく微笑む。
その笑顔と優しい言葉に亡くなった祖母が重なり、思わず目頭が熱くなった。
どうやら私の顔はひどいものだったらしい。
私は心遣いに感謝しながら、カヌレを手に取り、かじりついた。
外はカリッと、中はしっとりとした食感で、程よい甘さが心を癒してくれるようだ。
『なにがあったか知らないけど、せっかくの美人が台無しだよ。良かったら話してごらん。見ず知らずの相手の方が吐き出しやすいこともあるだろう?』
そう言われ、一人で抱えるのが辛くなっていた私は、祖母と重ねていたこともあり、そのおばあさんにポツリポツリとこれまでを話し出した。
1年前に日本で辛いことがあったこと、逃げるようにやってきたプラハで智くんと出会ったこと、彼に頼まれて婚約者役をやっていたこと、いつの間か好きになっていたこと、気持ちか通じ合ったこと、でも事情があってもう一緒にいるのが難しいこと‥‥。
差し支えない範囲で、ここまでの全部を話した。
おばあさんはゆっくり頷きながら、口を挟まずに私の話に耳を傾けてくれる。
人に話したことで私の気持ちは少し軽くなっていた。
『そうかい、それでその好きな人と一緒に行くことを約束していたストラスブールにやってきたのかい』
『はい、そうなんです。一緒に来れなくても、せめて今は思い出に浸かっていたくて』
『この後のことはまだ考えていないと言ったね。このカフェは住居も併設されているんだけど、次が決まるまでもし良かったらここに住まないかい?』
『えっ?』
その申し出に驚いて、少し俯いていた顔をガバッと上げる。
見ず知らずの私になぜこんなふうに言ってくれるのだろうか。
『本当は働かないかと言えればいいのだけど、フランスでの就労許可は持ってないんだろう?だから部屋が余っているからしばらくここに滞在すればいいさ』
『でも、私なんて見ず知らずの人間ですよ?どうして‥‥?』
『私も最近主人を亡くしてね。今は一人になってしまったんだよ。子供も孫も遠くに住んでいるから本当に一人さ。一人もの同士、慰め合うのはどうかと思ってね』
そうチャーミングに話すおばあさんは、たぶん私を慰めてくれているのだろう。
演技に夢中で亡くした祖母に何も孫孝行してあげられなかった後悔のある私は、時間がある今、代わりにこのおばあさんに孫孝行するのも悪くないかもしれないと思った。
どうせこの後のことは何も決まっていないノープランなのだ。
なにより私の話を聞いてくれて、優しく接してくれるこのおばあさんにも感謝していた。
こうして、おばあさんの家にしばらく住まわせてもらうことになり、ストラスブールでのおばあさんとの傷を癒すような優しい時間が始まった。
◇◇◇
『環菜、今日はどうするんだい?せっかくだから、クレベール広場のクリスマスマーケットに行っておいでよ。あそこのツリーは見応えあるよ』
12月24日、クリスマスイヴの日、おばあさんにそう言われた。
おばあさんのところにお世話になるようになり、私は穏やかな日々を送っている。
私が日本食を振る舞えばとても喜ばれたし、カフェも少しだけ手伝ったりした。
もちろん金銭はもらっていないので、アルバイトではない。
ちなみに、あの記者の記事はあのあと数日後に公開されたようだった。
【元清純派女優・神奈月亜希のその後!今度は海外で男漁り!?】という見出しのネットニュースが流れていた。
だが、幸いにも前の時のように炎上することはなく、ただの1つのネットニュースとして消費されただけのようだ。
最初のスキャンダルはメディア露出が多く人気上昇中の最中だったからあんなに炎上したが、もう旬の過ぎた元女優の話なんて、誰も気に留めないのだろう。
私はホッとするような寂しいような気持ちになったのだった。
『やっぱりまだ約束のことを気にしてるのかい?クリスマスイヴなんだから、クレベール広場には行ってみるべきだと思うよ』
私が黙っていると悩んでいると思ったのか、おばあさんは言葉を重ねた。
おばあさんの家にいる間に、私はストラスブールの街も色々と散策したのだが、町の中心にあるクレベール広場のクリスマスマーケットにだけはまだ足を運んでいなかった。
フランス最古と言われ、最も古い歴史のあるクレベール広場のマーケットは、まさにストラスブールのクリスマスマーケットのメインどころだ。
智くんとクリスマスに一緒に行こうと約束していたこともあり、なんとなくクリスマスまでは避けていたのだった。
気付けば24日だし、あの約束が果たされることもないだろうからもういいのかもしれない。
『今日行ってみようかな』
『そうしな。聖なる夜にツリーを見るときっと幸せなことが訪れるさ。寒いから厚着していくんだよ』
『ふふっ、分かった!』
おばあさんがロマンチックなことを言うのが可愛くて、思わず笑みが漏れてしまった。
昼間も夜もどちらも綺麗だと聞いたので、私はそれぞれの時間帯に見に行ってみることにした。
トラムに乗って、クレベール広場に近い停留所で降りる。
さすがにクリスマスイヴとあって、多くの人で賑わっていた。
広場にはたくさんのお店がひしめき合っていて、見ているだけでクリスマス気分が高まるような雑貨や温かい飲み物などが売られている。
出店がたくさん出ている日本のお祭りのヨーロッパバージョンみたいな雰囲気だ。
広場の中心には、シンボルマークのように、非常に大きなクリスマスツリーが設置され、その前には多くの人が集まっていた。
(ここに智くんと一緒に来たかったな‥‥。智くんは今頃どうしてるかな?もうプラハに帰ってきているのかな?)
考えるのは智くんのことばかりだ。
今さらどうしようもないと思考を断ち切り、私はまた夜にもう一度来ようと思って、一旦その場を離れる。
そして近くのノートルダム大聖堂の方へ向かった。
ノートルダム大聖堂は142mという圧倒的な高さを誇る街のシンボルだ。
大聖堂前の広場にもクリスマスマーケットが並んでいるし、周囲のお店がデコレーションされていて、クリスマスムード一色だ。
私がここに来たのは、せっかくのクリスマスイヴだから、教会で参拝しようと思ったからだった。
先行き未確定の不安定な人生を歩む私だからこそ、神に祈ってみようと思い立ったのだ。
おばあさんが、「聖なる夜にクリスマスツリーでも見れば幸せが訪れるわよ」とロマンチックなことを言っていたが、教会で祈ろうとしている私も大概かもしれない。
中に入ると、外の賑わいが嘘のように、静かで厳かな空気が訪れる。
私は椅子に座ると、手を合わせ、俯いて祈りを捧げる。
(どうか私の未来に明るい導きを。大好きな演技をまた楽しめるようになりたいです。そして大好きな人が幸せでいてくれますように)
勝手に智くんの幸せまで祈り、満足するとその場をあとにした。
しばらく街中をぶらぶらして、暗くなってきた頃に、再度クレベール広場に戻る。
クリスマスツリーはライトアップされ、広場全体も美しく輝くイルミネーションに包まれ、昼間とはまるで違う雰囲気だ。
そのロマンチックな美しさに思わず息を呑んだ。
夜は家族と家で過ごす人が多いのか、昼間よりも人が少なくなっていて、落ち着いた雰囲気が漂っている。
私はせっかくだから今度はクリスマスツリーを間近で眺めようと近づく。
クリスマスツリーの前に立つと、首が痛くなるくらい上を向いてもその先端が見えなくて、改めてその高さに圧倒された。
夢中になってツリーを隅々まで見入っていたその時だ。
ふいに腕を掴まれる感触がして、私は驚いて身構える。
掴まれた方を振り返って、思わず腰を抜かしそうになるほどさらに驚いた。
だってそこには、ここにいるはずのない智くんの姿があったのだからーー。
電車に揺られ外の景色を眺めながら、私はポツリとつぶやく。
何も言わないで突然消えて心配をかけているかもしれない。
でも私にはこうするしかなかったのだ。
(最後にあんなふうに抱いてもらえて幸せだったな‥‥)
私はあの甘い一夜を思い出し、あの幸せにはもう戻れないと思うと目に涙が浮かんだ。
あの日、私は智くんに素直な気持ちを伝え、偽りの婚約者役を終わらせる決意をしていた。
それは元会長夫人の言葉を聞いて、いつまでもこのままじゃいけないと思ったからだ。
いつ一緒にいられなくなるか分からないのだから、ちゃんと伝えないと後悔すると思った。
そして同時に、智くんの元から去る決意も固めていた。
それはあの記者が私の居場所を突き止めて現れたからだった。
あの記事は遅かれ早かれ近日中に公開されることになるだろう。
そうなれば、智くんにも迷惑がかかってしまう可能性が高い。
その記事の後追い取材として別の記者がまた来るかもしれないし、もし智くんと一緒に住んでいることがバレれば、男漁りされた可哀想な人として智くんも悪く言われるかもしれない。
そんなこと絶対避けたかったし、居場所が露見した以上はあの場にはもういられないだろう。
そう思って、カフェのマネージャーにもあの日辞める旨を話してきた。
詳しいことは話せないものの、「人から逃げていて居場所がバレてしまったのでもうここでは働くことが難しい」と話したのだ。
マネージャーは私がストーカーから逃げていると思ったらしく、理解を示してくれると、「またいつでも戻ってきていいから」と言ってくれたのだった。
(本当にいい人に恵まれていたな。カタリーナやアンドレイ、ジェームズさん、渡瀬さん、ノヴァコバ議員夫妻などにもお世話になったから挨拶したかったけど‥‥)
プラハで出会った人々の顔を思い浮かべると、寂しくて胸が締め付けられるようだった。
最後に智くんに抱いて欲しいと言ったのは、婚約者役としてではなく、ただの秋月環菜として、少しでも幸せな記憶がほしかったからだ。
私の気持ちを素直に話して、智くんが困ったとしても、ただ最後に抱いてくれるだけでも良かった。
なのに、まさか智くんも私を好きでいてくれたなんて予想外だったのだけど、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
気持ちが通じ合った触れ合いはすごく甘く幸せで、もうこのままどうなってもいいと思った。
一瞬決意が鈍りそうになったけど、でも逆にこんなに大切な人を巻き込みたくない、迷惑をかけたくないとも強く感じた。
智くんは明日からしばらく日本だ。
日本で忙しくしている間に私のことも忘れてくれるだろう。
それにもしかすると智くんが日本にいる間にあの記者の記事が出れば、私の過去のスキャンダルについても彼の目や耳に入ることになるかもしれないと思った。
そうなればきっと幻滅されるに違いない。
もうあんなふうに私を好きだと言ってくれるはずがないのだ。
だって彼の周りには魅力的な女性が常に溢れているわけで、わざわざ私みたいな面倒なスキャンダル持ちの終わった女を選ぶわけがないから。
私は演じることくらいでしか彼の役に立てないし、それができなくなった今、面倒をかけるだけの存在で、もうそばにいる資格もないと思うのだ。
そう思うと胸を鷲掴みされるような苦しみを感じた。
せめて彼との思い出に浸っていたい、そう思った私は、クリスマスに一緒に行こうと約束したフランスのストラスブールに向かうことにしたのだ。
しばらくはそこで今後どうするかを考えながら静かに暮らそうと思っている。
プラハから電車を何度か乗り継ぎ、数時間かけてようやくストラスブールに到着する。
ストラスブールは、フランスの北東部に位置し、ドイツとの国境沿いにある都市だ。
かわいらしい木骨組みの家々が並ぶメルヘンチックな風景で知られる古都だそうだ。
私は駅から外に出ると、予約しておいたホテルへ向かう。
ここストラスブールもプラハと同じようにトラムが人々の足になっているようだ。
私は停留所にある券売機でチケットを買うと、トラムに乗って、街並みを眺めた。
プラハとはまた違った雰囲気の可愛らしい街並みで、思わず目を奪われる。
すでに町中がクリスマス一色になっているようで、至る所でデコレーションやライトアップされているのを見かけた。
予約していたホテルに着くと、チェックインを済ませて部屋に入る。
シングルルームのシンプルで小さな部屋だ。
安めのホテルを選んだので、とりあえず今後のことを決めるまではここを拠点に動こうと思っている。
移動で疲れてしまった私は、そのまま部屋でシャワーを浴びるとベッドの中に潜り込み、幸せな昨夜から逃げるようにすぐ眠ってしまった。
翌日は、身支度を整えて、街をぶらぶらと一人で歩いてみる。
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思い出すのは智くんのことばかり。
智くんのもとを去った私が心配してもしょうがないのだけどと自嘲気味な笑みが浮かぶ。
気を紛らわすように偶然目に入ったカフェになんとなく足を踏み入れ、コーヒーを注文した。
外の刺すような冷たい空気が嘘のように店内は温かい。
こじんまりとした昔ながらのカフェという雰囲気のお店は、年配のおばあさんが営んでいるようだった。
フランス語で話しかけられ、私がフランス語は分からない旨を英語で返すと、英語に切り替えて話してくれた。
『これ、注文されたものではないけど、良かったら食べてちょうだい』
そう言ってコーヒーと一緒に提供されたのは、洋菓子のカヌレだった。
『いいんですか?』
『なんだかこの世の終わりみたいな顔してるじゃない。甘いものでも食べて落ち着いたらいいわよ。甘いものは人を幸せにしてくれるからね』
おばあさんはそう言って優しく微笑む。
その笑顔と優しい言葉に亡くなった祖母が重なり、思わず目頭が熱くなった。
どうやら私の顔はひどいものだったらしい。
私は心遣いに感謝しながら、カヌレを手に取り、かじりついた。
外はカリッと、中はしっとりとした食感で、程よい甘さが心を癒してくれるようだ。
『なにがあったか知らないけど、せっかくの美人が台無しだよ。良かったら話してごらん。見ず知らずの相手の方が吐き出しやすいこともあるだろう?』
そう言われ、一人で抱えるのが辛くなっていた私は、祖母と重ねていたこともあり、そのおばあさんにポツリポツリとこれまでを話し出した。
1年前に日本で辛いことがあったこと、逃げるようにやってきたプラハで智くんと出会ったこと、彼に頼まれて婚約者役をやっていたこと、いつの間か好きになっていたこと、気持ちか通じ合ったこと、でも事情があってもう一緒にいるのが難しいこと‥‥。
差し支えない範囲で、ここまでの全部を話した。
おばあさんはゆっくり頷きながら、口を挟まずに私の話に耳を傾けてくれる。
人に話したことで私の気持ちは少し軽くなっていた。
『そうかい、それでその好きな人と一緒に行くことを約束していたストラスブールにやってきたのかい』
『はい、そうなんです。一緒に来れなくても、せめて今は思い出に浸かっていたくて』
『この後のことはまだ考えていないと言ったね。このカフェは住居も併設されているんだけど、次が決まるまでもし良かったらここに住まないかい?』
『えっ?』
その申し出に驚いて、少し俯いていた顔をガバッと上げる。
見ず知らずの私になぜこんなふうに言ってくれるのだろうか。
『本当は働かないかと言えればいいのだけど、フランスでの就労許可は持ってないんだろう?だから部屋が余っているからしばらくここに滞在すればいいさ』
『でも、私なんて見ず知らずの人間ですよ?どうして‥‥?』
『私も最近主人を亡くしてね。今は一人になってしまったんだよ。子供も孫も遠くに住んでいるから本当に一人さ。一人もの同士、慰め合うのはどうかと思ってね』
そうチャーミングに話すおばあさんは、たぶん私を慰めてくれているのだろう。
演技に夢中で亡くした祖母に何も孫孝行してあげられなかった後悔のある私は、時間がある今、代わりにこのおばあさんに孫孝行するのも悪くないかもしれないと思った。
どうせこの後のことは何も決まっていないノープランなのだ。
なにより私の話を聞いてくれて、優しく接してくれるこのおばあさんにも感謝していた。
こうして、おばあさんの家にしばらく住まわせてもらうことになり、ストラスブールでのおばあさんとの傷を癒すような優しい時間が始まった。
◇◇◇
『環菜、今日はどうするんだい?せっかくだから、クレベール広場のクリスマスマーケットに行っておいでよ。あそこのツリーは見応えあるよ』
12月24日、クリスマスイヴの日、おばあさんにそう言われた。
おばあさんのところにお世話になるようになり、私は穏やかな日々を送っている。
私が日本食を振る舞えばとても喜ばれたし、カフェも少しだけ手伝ったりした。
もちろん金銭はもらっていないので、アルバイトではない。
ちなみに、あの記者の記事はあのあと数日後に公開されたようだった。
【元清純派女優・神奈月亜希のその後!今度は海外で男漁り!?】という見出しのネットニュースが流れていた。
だが、幸いにも前の時のように炎上することはなく、ただの1つのネットニュースとして消費されただけのようだ。
最初のスキャンダルはメディア露出が多く人気上昇中の最中だったからあんなに炎上したが、もう旬の過ぎた元女優の話なんて、誰も気に留めないのだろう。
私はホッとするような寂しいような気持ちになったのだった。
『やっぱりまだ約束のことを気にしてるのかい?クリスマスイヴなんだから、クレベール広場には行ってみるべきだと思うよ』
私が黙っていると悩んでいると思ったのか、おばあさんは言葉を重ねた。
おばあさんの家にいる間に、私はストラスブールの街も色々と散策したのだが、町の中心にあるクレベール広場のクリスマスマーケットにだけはまだ足を運んでいなかった。
フランス最古と言われ、最も古い歴史のあるクレベール広場のマーケットは、まさにストラスブールのクリスマスマーケットのメインどころだ。
智くんとクリスマスに一緒に行こうと約束していたこともあり、なんとなくクリスマスまでは避けていたのだった。
気付けば24日だし、あの約束が果たされることもないだろうからもういいのかもしれない。
『今日行ってみようかな』
『そうしな。聖なる夜にツリーを見るときっと幸せなことが訪れるさ。寒いから厚着していくんだよ』
『ふふっ、分かった!』
おばあさんがロマンチックなことを言うのが可愛くて、思わず笑みが漏れてしまった。
昼間も夜もどちらも綺麗だと聞いたので、私はそれぞれの時間帯に見に行ってみることにした。
トラムに乗って、クレベール広場に近い停留所で降りる。
さすがにクリスマスイヴとあって、多くの人で賑わっていた。
広場にはたくさんのお店がひしめき合っていて、見ているだけでクリスマス気分が高まるような雑貨や温かい飲み物などが売られている。
出店がたくさん出ている日本のお祭りのヨーロッパバージョンみたいな雰囲気だ。
広場の中心には、シンボルマークのように、非常に大きなクリスマスツリーが設置され、その前には多くの人が集まっていた。
(ここに智くんと一緒に来たかったな‥‥。智くんは今頃どうしてるかな?もうプラハに帰ってきているのかな?)
考えるのは智くんのことばかりだ。
今さらどうしようもないと思考を断ち切り、私はまた夜にもう一度来ようと思って、一旦その場を離れる。
そして近くのノートルダム大聖堂の方へ向かった。
ノートルダム大聖堂は142mという圧倒的な高さを誇る街のシンボルだ。
大聖堂前の広場にもクリスマスマーケットが並んでいるし、周囲のお店がデコレーションされていて、クリスマスムード一色だ。
私がここに来たのは、せっかくのクリスマスイヴだから、教会で参拝しようと思ったからだった。
先行き未確定の不安定な人生を歩む私だからこそ、神に祈ってみようと思い立ったのだ。
おばあさんが、「聖なる夜にクリスマスツリーでも見れば幸せが訪れるわよ」とロマンチックなことを言っていたが、教会で祈ろうとしている私も大概かもしれない。
中に入ると、外の賑わいが嘘のように、静かで厳かな空気が訪れる。
私は椅子に座ると、手を合わせ、俯いて祈りを捧げる。
(どうか私の未来に明るい導きを。大好きな演技をまた楽しめるようになりたいです。そして大好きな人が幸せでいてくれますように)
勝手に智くんの幸せまで祈り、満足するとその場をあとにした。
しばらく街中をぶらぶらして、暗くなってきた頃に、再度クレベール広場に戻る。
クリスマスツリーはライトアップされ、広場全体も美しく輝くイルミネーションに包まれ、昼間とはまるで違う雰囲気だ。
そのロマンチックな美しさに思わず息を呑んだ。
夜は家族と家で過ごす人が多いのか、昼間よりも人が少なくなっていて、落ち着いた雰囲気が漂っている。
私はせっかくだから今度はクリスマスツリーを間近で眺めようと近づく。
クリスマスツリーの前に立つと、首が痛くなるくらい上を向いてもその先端が見えなくて、改めてその高さに圧倒された。
夢中になってツリーを隅々まで見入っていたその時だ。
ふいに腕を掴まれる感触がして、私は驚いて身構える。
掴まれた方を振り返って、思わず腰を抜かしそうになるほどさらに驚いた。
だってそこには、ここにいるはずのない智くんの姿があったのだからーー。
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