あまいの、いくつほしい?

白湯すい

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本編

3.お隣さん

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 引っ越し作業はすぐに終わった。さほど広い家でもないし、東はもともと荷物がかなり少ない方だった。生活に関わるものよりも、キッチン周りのものを片付けるのが一番かかる。

 ご近所へのあいさつなんて、昨今あまりしたこともされたこともない。だから、するつもりはあまりなかった。
 しかし、ちょうど冷蔵庫や洗濯機などの大きな家電を運び入れているときに、ちょうどお隣さんと思しき人が隣の部屋のドア前に来て、鍵を取り出していた。
「こんにちは。すみません、荷解きとか、ちょっと騒がしくするかと思いますが……」
「あ、いえ、お気になさらず……」

 せっかく挨拶するのならにこやかに、さわやかに……メディアに出ているときの癖でついそんな風に気取ろうとしていたのに、どうにも歯切れが悪くなってしまったのは、そのお隣さんの顔を見てどうにも見覚えがあったからだ。お隣さんも、ふと顔を上げてこちらを見た途端、ぴたりと動きを止めた。
「あ、うちのお客さん、ですよね」
「……パティシエさん?」
「そうです、【ジュジュ】の。やっぱりそうだった」
 彼は、先日和山と話していた例の毎週土曜日のお客さんだった。家が近いと、こういう偶然もあるものかと東は思った。

「お隣に越して……ああ、ここ近いですもんね」
「そうなんです! 僕今までちょっと遠いところから通ってて」
 彼はお店に来ているときと変わらず、神経質そうな強面で、東の顔を見た瞬間はわずかに驚いていたようだったが、それからは表情をぴくりとも変えず、不愛想な印象を受けた。それでもなんとなく会話を続けてくれるし、愛想がないからと言って、話しかけられるのが嫌というわけでもなさそうだった。
「仕事柄、朝早くて物音するかもですけど、すみません」
「いえ、私は逆に夜遅いことも多いので……それにこのマンション、防音はかなりしっかりしてるので、あまり気にされなくても大丈夫かと思います」
「そうなんですね、良かった」
「それでは、荷解き頑張ってください。困ったことがあればいつでも」
「あ、ありがとうございます」
 そう言い残して彼は軽く会釈をして部屋に消えていき、ばたんと扉は閉じた。
 話し終わるまでの間、彼は一度も笑わなかったし、声色も低く一定で感情がまるでわからなかった。和山は「楽しくおしゃべりなんてするような人に見えるか?」と言っていたが、事実ちょっとしたおしゃべりはしてくれたと言っていいだろう。あまり楽しそうという風には見えなかったけれど。

 ちっとも笑ってくれない男でも、東にとっては不思議と怖くは感じなかった。彼の選ぶ言葉のひとつひとつがとても丁寧で、優しかったからだろうか。
「東さん、設置完了しましたので、サインいただけますか?」
「はぁい」
 そう、このニコニコと笑顔で対応してくれている引っ越し業者の人と同じくらい、彼を好ましく思った。こんなにもにこやかな人と、口角の一ミリも上がらなかった彼が。

「……不思議な人だな」
 そのことを東は面白いと思ったけれど、それからさらに交流が生まれるとは思えなかった。彼は土曜日にだけ来るお客さんで、自分はその時間にだってほとんど厨房に居る。生活時間帯が合わないようだったし、きっと交わらない。そもそも、一人のお客さんに入り込むのは良くない。
 それでも東は、自分のことをパティシエさんと認識していてくれたことが、なんとなく嬉しかった。
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