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本編
4.ゆったりな朝
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ピピピ、と電子音がベッドの少し遠くで響く。東が目を覚ますと、見慣れない天井に少しだけ驚いたし、枕元に置いたスマートフォンの表示する時刻に一瞬どきりとした。
「……ああ、だいじょぶなんだった」
見慣れぬ天井と、いつもより大分遅い起床時間。それらを結び付けて、ああ、そういえば引っ越したんだったと東は寝ぼけた頭で思い至った。
いつもだったらもう家を出てるような時間に起きられる幸せを噛み締めながら、のんびりと身支度をする。
「どうだ? 新居は」
「めちゃめちゃ良いよ、まじで引っ越して良かったあ」
引っ越してからの通勤は、思っていた以上に快適だった。近くて寝坊ができるだけでなく、電車にもタクシーにも乗らなくて済むことが楽だった。和山に近況を聞かれた東は嬉しそうにしながら答える。
「睡眠時間増えたし、健康になりそう」
「そりゃいいことだ。お前は熱中するとすぐ寝るの忘れるからな」
「そういえばさ、この前話してたおじさんのお客さんいるだろ?」
「ああ、あの人がどうした?」
「なんと、お隣さんになったんだよ。荷物入れてるときにたまたま向こうが帰ってきたタイミングで」
「マジか。そんな偶然ある?」
「だよね~。俺も驚いた」
すごいよね~、と話す東は深いことは考えていないようだった。和山はふむ、と少し考える顔をする。
「お前のところ、普通に単身者向けのマンションだろう?」
「そだよ。まあ狭くはないから、カップルで住んでるっぽい人も見かけるけど、基本的には単身向けだな。個室ひとつだし、俺はシェアとか無理だな」
「となると、やっぱりあの人、誰かに買って帰ってるわけでもないのか。てっきり奥さんでも居るのかと思ってたけどな」
「ああ、確かに。まあでも週末だし、彼女に会うのに買ってくとかはあるかもよ」
「それも確かに。うーん、一人の顧客について詮索するのは良くないんだが、男性顧客のニーズもある程度は把握していきたいんだよな。東のアイドル売りもずっと続くわけでもなし、というか俺はさっさとやめたいんだあれを」
和山があのおじさんに興味を持っているのは、あくまでマーケティングとしてである。今は東がメディアに『注目のイケメンパティシエ』なんて扱いで取り上げられ、業界きっての女性人気を獲得しているが、和山にとってそれは一時的な戦略でしかない。そしてそれは東も同意見だった。
「まあ、今はどうしたってそう扱われるし、そのうちメディアも飽きるでしょ」
「飽きるだろうさ。だからこそ飽きられてから……いや、飽きられる前にどう動くのかが大事なんだよ」
和山は『イケメンパティシエ東』を終わらせるつもりはあっても、店の人気や評判を落とす気はさらさらなかった。だからこそ彼は苦手な接客でも、店に来るお客さんとの会話を大事にするのだ。数字上の売れ行きだけではなく、生の声を拾い上げていくことが満足度向上に繋がる。
「お前、次の土曜日、あの人が来たら少し話してみて」
「俺~? 何話すのさ」
「最初はなんでもいいんだよ。あんまりグイグイ行くと引かれちゃって逆に足が遠のくかもしれないし」
「はあ……まあ、わかったよ」
それまでの東なら、こんな頼みは断っていただろう。それでも一度話したあの時、あの強面であの無愛想な態度でさえ、怖いとかそういう風には思えなかったことが、話してみるのも面白いかもしれないと思わせてくれたのかもしれない。
「……ああ、だいじょぶなんだった」
見慣れぬ天井と、いつもより大分遅い起床時間。それらを結び付けて、ああ、そういえば引っ越したんだったと東は寝ぼけた頭で思い至った。
いつもだったらもう家を出てるような時間に起きられる幸せを噛み締めながら、のんびりと身支度をする。
「どうだ? 新居は」
「めちゃめちゃ良いよ、まじで引っ越して良かったあ」
引っ越してからの通勤は、思っていた以上に快適だった。近くて寝坊ができるだけでなく、電車にもタクシーにも乗らなくて済むことが楽だった。和山に近況を聞かれた東は嬉しそうにしながら答える。
「睡眠時間増えたし、健康になりそう」
「そりゃいいことだ。お前は熱中するとすぐ寝るの忘れるからな」
「そういえばさ、この前話してたおじさんのお客さんいるだろ?」
「ああ、あの人がどうした?」
「なんと、お隣さんになったんだよ。荷物入れてるときにたまたま向こうが帰ってきたタイミングで」
「マジか。そんな偶然ある?」
「だよね~。俺も驚いた」
すごいよね~、と話す東は深いことは考えていないようだった。和山はふむ、と少し考える顔をする。
「お前のところ、普通に単身者向けのマンションだろう?」
「そだよ。まあ狭くはないから、カップルで住んでるっぽい人も見かけるけど、基本的には単身向けだな。個室ひとつだし、俺はシェアとか無理だな」
「となると、やっぱりあの人、誰かに買って帰ってるわけでもないのか。てっきり奥さんでも居るのかと思ってたけどな」
「ああ、確かに。まあでも週末だし、彼女に会うのに買ってくとかはあるかもよ」
「それも確かに。うーん、一人の顧客について詮索するのは良くないんだが、男性顧客のニーズもある程度は把握していきたいんだよな。東のアイドル売りもずっと続くわけでもなし、というか俺はさっさとやめたいんだあれを」
和山があのおじさんに興味を持っているのは、あくまでマーケティングとしてである。今は東がメディアに『注目のイケメンパティシエ』なんて扱いで取り上げられ、業界きっての女性人気を獲得しているが、和山にとってそれは一時的な戦略でしかない。そしてそれは東も同意見だった。
「まあ、今はどうしたってそう扱われるし、そのうちメディアも飽きるでしょ」
「飽きるだろうさ。だからこそ飽きられてから……いや、飽きられる前にどう動くのかが大事なんだよ」
和山は『イケメンパティシエ東』を終わらせるつもりはあっても、店の人気や評判を落とす気はさらさらなかった。だからこそ彼は苦手な接客でも、店に来るお客さんとの会話を大事にするのだ。数字上の売れ行きだけではなく、生の声を拾い上げていくことが満足度向上に繋がる。
「お前、次の土曜日、あの人が来たら少し話してみて」
「俺~? 何話すのさ」
「最初はなんでもいいんだよ。あんまりグイグイ行くと引かれちゃって逆に足が遠のくかもしれないし」
「はあ……まあ、わかったよ」
それまでの東なら、こんな頼みは断っていただろう。それでも一度話したあの時、あの強面であの無愛想な態度でさえ、怖いとかそういう風には思えなかったことが、話してみるのも面白いかもしれないと思わせてくれたのかもしれない。
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