70 / 79
いつか熟して、あまくなる
したごころ
しおりを挟む
和山は従業員みんなに優しい。それはそうしたほうが業務上問題が起こらないからで、真面目で優秀な自分を演じていたほうが楽だからだ。和山も東と似たようなもので、心を許せる人以外には『みんなが思う自分のイメージ』を演じているのだ。
その演じるスキルは店舗運営をして人を雇う立場になってからもとても役に立っているし、事実これまでうまくやってきていた。
「それは、上司としての言葉ですか?」
そりゃそうだろう。和山はそう思う。
卯月は店で雇った従業員のひとりで、和山にとってはみんなと平等に優しく、働きやすいようにしてやる必要のある人だ。困ったことがあれば頼ってもいい、というのは、それ以上でもそれ以下でもない。
和山は頭ではそう思っている。
けれど確かに、言われてみればひどく落ち込んでいそうに見えたからといって、酔った子をいきなり部屋にあげるのは、『みんなと平等に』の範疇は超えているようにも思える。
例えば同じ販売のアルバイトのひとりがひどく酔っていたとて、金を渡してタクシーに乗せるまでが関の山だろうとは思う。
ならどうして? そう考えると、やはりあの卯月の弱弱しい不安そうな姿が、かつての自分と重なったからだ、という理由しか思い当たらない。
「ん? なんだ……」
卯月が返してきた服をしまおうと紙袋をのぞくと、服とは別に小さな包みが入っていることに気づく。
手に取って開けてみると、それは手作りの焼き菓子とそれに添えられた手紙だった。
『先日はありがとうございました。お礼にパウンドケーキを作りました。
事務所の冷蔵庫に入れておいたので傷んでません! ご安心ください。』
小さなメモ帳に几帳面な文字で書かれた手紙がなんだかおかしくて、和山は思わず笑ってしまう。
「律儀なやつ」
傷んでるかもとか、気にするのはそこじゃないだろ。そうは思うけれど、悪い気はしない。
ドライフルーツがぎゅっとつまったパウンドケーキ。包みを開けると甘いフルーツと少しのスパイスの香りがふわりと広がる。
「お、うまそう。流石だな」
こういうスイーツには、すっきりとした浅煎りのエスプレッソと合わせたい。和山は食後の時間が楽しみになった。
一方で、その夜卯月は部屋のベッドの上でひとり悶々としていた。
「めっちゃ失言……和山さん、あれ聞こえてなかったらいいな……」
まだ知り合って間もない自分に優しくしてくれる理由なんて、それは自分が雇われたスタッフだからに他ならない。卯月はそう考えていた。
あの日は、きっとどうかしていた。あんなに楽しくて明るい気持ちになったのは、初めてだったから。大好きな東さんと一緒に仕事ができて、その仲間たちにも認めてもらえて、仕事の話も何気ない会話もすごく楽しくて、穏やかで優しい時間だった。
誰も居ない、がらんとした部屋を見つめる。じっとして耳をすませても、少し離れたキッチンで冷蔵庫が立てるわずかな機械音が聞こえるだけで、ひどく静かだった。
ああ、今までどうして気づかなかったんだろう。こんなに寂しいのに、どうしてひとりでいられたんだろう。
卯月は虚ろな目で誰も居ない空間を見つめながらそう思う。
この家に、誰かが居た記憶があまりない。おばあちゃんが亡くなってからもうずいぶん時間が経って、悲しいけれど幼かったころの記憶はどんどん薄れていった。この家を満たしている空白と静けさでなにもかも塗りつぶされてしまったみたいに、全部が空虚で朧げだ。
東の存在が救いだった。甘い洋菓子が小さい頃からずっと大好きで、その中でも東のケーキに出会って世界が変わった。親の勧めで通っていた大学を辞めて、製菓の世界に飛び込んだ。
そのおかげで今、憧れの人と同じ場所で素敵な人たちと出会うことができた。
そんなキラキラした場所に入れたのに、その生活のなかでこの家だけが異質だ。この家にはなんでもあるけれど、何もない。
「お菓子は、さすがにやりすぎたかなあ……」
初めて自分のことを話して、それでもそっと頭を撫でて抱き締めてくれた和山の体温を、卯月は忘れることができない。ぎゅっと抱き寄せる力は優しくて、驚かせないように痛くないようにと気遣ってくれているのがわかった。
それが嬉しかったから、ただ借りたものを返すのでは気持ちが伝わらないと思ったのだ。
「……引かれてたらどうしよう」
パティシエ見習いなんだから、作ったものを渡したっていいだろうという気持ちもありながら、普通はきっと手作りのお菓子を急に渡されたらちょっと引くものだろう。そういうことは卯月にもわかる。
それに本当は、ケーキに込めたのは感謝の気持ちだけじゃなかった。
抱きしめられて感じたのは優しくされて嬉しい、それだけじゃない。肩に触れた大きな手にドキドキして、顔が近づいた首元からした和山のにおいを感じてどうしてだか唇が震えた。
このときの卯月が自分の頭ではっきりと自覚していたわけではない。でも確かに胸の中に小さく芽生えたものが何か特別なものだということは感じていた。
もっと僕のことを見てほしい。この特別な何かを和山さんと同じにできたらいいのに。
そんな小さな下心入りのケーキだった。
その演じるスキルは店舗運営をして人を雇う立場になってからもとても役に立っているし、事実これまでうまくやってきていた。
「それは、上司としての言葉ですか?」
そりゃそうだろう。和山はそう思う。
卯月は店で雇った従業員のひとりで、和山にとってはみんなと平等に優しく、働きやすいようにしてやる必要のある人だ。困ったことがあれば頼ってもいい、というのは、それ以上でもそれ以下でもない。
和山は頭ではそう思っている。
けれど確かに、言われてみればひどく落ち込んでいそうに見えたからといって、酔った子をいきなり部屋にあげるのは、『みんなと平等に』の範疇は超えているようにも思える。
例えば同じ販売のアルバイトのひとりがひどく酔っていたとて、金を渡してタクシーに乗せるまでが関の山だろうとは思う。
ならどうして? そう考えると、やはりあの卯月の弱弱しい不安そうな姿が、かつての自分と重なったからだ、という理由しか思い当たらない。
「ん? なんだ……」
卯月が返してきた服をしまおうと紙袋をのぞくと、服とは別に小さな包みが入っていることに気づく。
手に取って開けてみると、それは手作りの焼き菓子とそれに添えられた手紙だった。
『先日はありがとうございました。お礼にパウンドケーキを作りました。
事務所の冷蔵庫に入れておいたので傷んでません! ご安心ください。』
小さなメモ帳に几帳面な文字で書かれた手紙がなんだかおかしくて、和山は思わず笑ってしまう。
「律儀なやつ」
傷んでるかもとか、気にするのはそこじゃないだろ。そうは思うけれど、悪い気はしない。
ドライフルーツがぎゅっとつまったパウンドケーキ。包みを開けると甘いフルーツと少しのスパイスの香りがふわりと広がる。
「お、うまそう。流石だな」
こういうスイーツには、すっきりとした浅煎りのエスプレッソと合わせたい。和山は食後の時間が楽しみになった。
一方で、その夜卯月は部屋のベッドの上でひとり悶々としていた。
「めっちゃ失言……和山さん、あれ聞こえてなかったらいいな……」
まだ知り合って間もない自分に優しくしてくれる理由なんて、それは自分が雇われたスタッフだからに他ならない。卯月はそう考えていた。
あの日は、きっとどうかしていた。あんなに楽しくて明るい気持ちになったのは、初めてだったから。大好きな東さんと一緒に仕事ができて、その仲間たちにも認めてもらえて、仕事の話も何気ない会話もすごく楽しくて、穏やかで優しい時間だった。
誰も居ない、がらんとした部屋を見つめる。じっとして耳をすませても、少し離れたキッチンで冷蔵庫が立てるわずかな機械音が聞こえるだけで、ひどく静かだった。
ああ、今までどうして気づかなかったんだろう。こんなに寂しいのに、どうしてひとりでいられたんだろう。
卯月は虚ろな目で誰も居ない空間を見つめながらそう思う。
この家に、誰かが居た記憶があまりない。おばあちゃんが亡くなってからもうずいぶん時間が経って、悲しいけれど幼かったころの記憶はどんどん薄れていった。この家を満たしている空白と静けさでなにもかも塗りつぶされてしまったみたいに、全部が空虚で朧げだ。
東の存在が救いだった。甘い洋菓子が小さい頃からずっと大好きで、その中でも東のケーキに出会って世界が変わった。親の勧めで通っていた大学を辞めて、製菓の世界に飛び込んだ。
そのおかげで今、憧れの人と同じ場所で素敵な人たちと出会うことができた。
そんなキラキラした場所に入れたのに、その生活のなかでこの家だけが異質だ。この家にはなんでもあるけれど、何もない。
「お菓子は、さすがにやりすぎたかなあ……」
初めて自分のことを話して、それでもそっと頭を撫でて抱き締めてくれた和山の体温を、卯月は忘れることができない。ぎゅっと抱き寄せる力は優しくて、驚かせないように痛くないようにと気遣ってくれているのがわかった。
それが嬉しかったから、ただ借りたものを返すのでは気持ちが伝わらないと思ったのだ。
「……引かれてたらどうしよう」
パティシエ見習いなんだから、作ったものを渡したっていいだろうという気持ちもありながら、普通はきっと手作りのお菓子を急に渡されたらちょっと引くものだろう。そういうことは卯月にもわかる。
それに本当は、ケーキに込めたのは感謝の気持ちだけじゃなかった。
抱きしめられて感じたのは優しくされて嬉しい、それだけじゃない。肩に触れた大きな手にドキドキして、顔が近づいた首元からした和山のにおいを感じてどうしてだか唇が震えた。
このときの卯月が自分の頭ではっきりと自覚していたわけではない。でも確かに胸の中に小さく芽生えたものが何か特別なものだということは感じていた。
もっと僕のことを見てほしい。この特別な何かを和山さんと同じにできたらいいのに。
そんな小さな下心入りのケーキだった。
1
あなたにおすすめの小説
真空ベータの最強執事は辞職したい~フェロモン無効体質でアルファの王子様たちの精神安定剤になってしまった結果、執着溺愛されています~
水凪しおん
BL
フェロモンの影響を受けない「ベータ」の執事ルシアンは、前世の記憶を持つ転生者。
アルファ至上主義の荒れた王城で、彼はその特異な「無臭」体質ゆえに、フェロモン過多で情緒不安定な三人の王子たちにとって唯一の「精神安定剤」となってしまう。
氷の第一王子、野獣の第二王子、知略の第三王子――最強のアルファ兄弟から、匂いを嗅がれ、抱きつかれ、執着される日々。
「私はただの執事です。平穏に仕事をさせてください」
辞表を出せば即却下、他国へ逃げれば奪還作戦。
これは、無自覚に王子たちを癒やしてしまった最強執事が、国ぐるみで溺愛され、外堀を埋められていくお仕事&逆ハーレムBLファンタジー!
俺の婚約者は小さな王子さま?!
大和 柊霞
BL
「私の婚約者になってくれますか?」
そう言い放ったのはこの国の王子さま?!
同性婚の認められるパミュロン王国で次期国王候補の第1王子アルミスから婚約を求められたのは、公爵家三男のカイルア。公爵家でありながら、長男のように頭脳明晰でもなければ次男のように多才でもないカイルアは自由気ままに生きてかれこれ22年。
今の暮らしは性に合っているし、何不自由ない!人生は穏やかに過ごすべきだ!と思っていたのに、まさか10歳の王子に婚約を申し込まれてしまったのだ。
「年の差12歳なんてありえない!」
初めはそんな事を考えていたカイルアだったがアルミス王子と過ごすうちに少しづつ考えが変わっていき……。
頑張り屋のアルミス王子と、諦め系自由人のカイルアが織り成す救済BL
路地裏の王子様と秘密のカフェ ―10年ぶりに再会した親友はトップアイドルでした―
たら昆布
BL
大学生の千秋がバイト帰りの路地裏で助けたのは、今をときめくアイドル『GALAXY』のセンター、レオだった。
以来、レオは変装して千秋の働くカフェへ毎日通い詰めるようになる。
「千秋に会うと疲れなんて全部消えちゃうんだ」
トップアイドルとは思えないほど素直に懐いてくるレオに、千秋は戸惑いながらも多忙な彼を支えたいと願うようになる。
しかし、千秋はまだ知らない。
レオが10年前に「また絶対会おう」と約束して別れた泣き虫な親友の玲央本人だということに。
【WEB版】監視が厳しすぎた嫁入り生活から解放されました~冷徹無慈悲と呼ばれた隻眼の伯爵様と呪いの首輪~【BL・オメガバース】
古森きり
BL
【書籍化決定しました!】
詳細が決まりましたら改めてお知らせにあがります!
たくさんの閲覧、お気に入り、しおり、感想ありがとうございました!
アルファポリス様の規約に従い発売日にURL登録に変更、こちらは引き下げ削除させていただきます。
政略結婚で嫁いだ先は、女狂いの伯爵家。
男のΩである僕には一切興味を示さず、しかし不貞をさせまいと常に監視される生活。
自分ではどうすることもできない生活に疲れ果てて諦めた時、夫の不正が暴かれて失脚した。
行く当てがなくなった僕を保護してくれたのは、元夫が口を開けば罵っていた政敵ヘルムート・カウフマン。
冷徹無慈悲と呼び声高い彼だが、共に食事を摂ってくれたりやりたいことを応援してくれたり、決して冷たいだけの人ではなさそうで――。
カクヨムに書き溜め。
小説家になろう、アルファポリス、BLoveにそのうち掲載します。
【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】
彩華
BL
俺の名前は水野圭。年は25。
自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで)
だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。
凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!
凄い! 店員もイケメン!
と、実は穴場? な店を見つけたわけで。
(今度からこの店で弁当を買おう)
浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……?
「胃袋掴みたいなぁ」
その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。
******
そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
たとえ運命じゃなくても、僕は
mimi
BL
「僕は自分の気持ちを信じたい。
たとえ運命から背を背けようとも」
音楽大学に通うΩの青年・相田ひなた。
努力家の先輩αと、
運命の番だと告げられた天才α。
運命か、愛情か――
選ぶのは、僕自身だ。
※直接的な描写はありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる