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三段目
逢瀬の場〈弐〉
しおりを挟む小堂に叩きつける雨足は、ますます強くなっていく。確かに軒下にいたままでは、今頃すっかりずぶ濡れ鼠だ。
板の間にどかりと座り込んだ兵馬は、踝までの丈の縞の平袴を屈託なく捌いて胡座をかいた。
木で設えられた高台にお祀りした御神体の御鏡を正視せぬよう目を逸らしつつ、舞ひつるは裏の戸に近い処に、黄八丈の着物の裾を崩すことなく、さらには真っ白な前掛けに一本たりとも皺を寄せることもなく、すっ、と腰を下ろした。
そうして、背筋をすらりと伸ばして正座する。
——さすれども……気詰まりでなんし……
兵馬に助けてもらって以来、毎日顔を合わせてはいたが、なにぶん人目を避けて離れて行動していたゆえ、ほとんど話したことはなかった。
さようでなくとも見世の客は年配者ばかりで、かようなおのれと似た歳格好の男とは、生まれてこの方とんと声すら交わした覚えがないのである。
ゆえに、如何ように声をかけていいのか皆目わからず、困った舞ひつるはそれとなく兵馬の容顔を窺うことくらいしかできなかった。
俗に「江戸の三男」と呼ばれる「与力・相撲取り・火消しの鳶」は江戸に住む女人たちの憧れの的であった。
中でも、きりりと精悍な面立ちで頭は粋な本多髷の、南町奉行所の筆頭与力・松波 多聞は、若かりし頃巷では勝手に浮世絵にされるほどの鯔背な男だった。
御用と書かれた提燈を背景に、右手に持った手綱で暴れ馬を難なく操りながら、左手に持った朱房の十手で部下の同心たちを操り、悪党に向かって不敵に微笑む多聞を模した、
「此れぞ、天晴れ大江戸の与力」
という惚れ惚れするほど勇ましい姿の絵が、江戸の女子たちを夢心地にさせ、飛ぶように売れていた。
御公儀から、武家に対して無礼千万と睨まれて、浮世絵師たちに手鎖などの御咎めがあってはならぬので、一応表向きは「歌舞伎役者の何某が演じた与力」という体になってはいたが。
だが、そんなことはするっとお見通しの世間は、多聞のことを「浮世絵与力」と呼んでいた。
一見ぞんざいに座しているかに見えて、決して下劣ではない兵馬の姿を、舞ひつるはさりげなく目の端で捉えた。
——やはり、かの浮世絵与力の父親に「生き写し」と、町家の者が噂をしなんしほどの御尊顔でありんす。
そして、兵馬の整った凛々しい面差しに、改めてしみじみと感じ入った。
吉原に生まれついて以来、日々さまざまな殿方を見てきた身であれども、かように思わざるを得ぬ美丈夫であった。
実は、兵馬はそれこそ母の胎から出たその日から、皐月の節句に向けて刷られた浮世絵の武者人形に模されていたのだ。
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