大江戸シンデレラ

佐倉 蘭

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三段目

逢瀬の場〈参〉

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   ふと思い出した舞ひつるは、あわててたもとから折り畳んだ漆喰紙を取り出した。

【士爲知己者死 女爲悅己者容】

と、流れるがごときしたためられていた。舞ひつるの手による写しだった。

——うなんした。いささか湿っとりんすが、ひどう濡れておらでなんし。それに、手も滲んでおらでなんし。

   舞ひつるは安堵の息をいた。

   漆喰紙は手習いの稽古で使う廉価な和紙であるが、されども吉原のおんなごとき風情ふぜいが潤沢に使えるものではない。

「へぇ……きれぇな手だな。『士は己を知る者のために死し、女は己をよろこぶ者のためにかたちつくる』か」

  いつの間にか、兵馬が膝で進み寄り、舞ひつるの手許の漆喰紙を覗き込んでいた。

「吉原でも最高峰の妓は、御大尽を相手にして如何いかなる話にも付いていかにゃあ商売しょうべぇにならねぇって聞くけどよ。おめぇさんたちはなんとまぁ、司馬遷の『史記』の一節までも学んでるってか。武家のもんでも、学問吟味を受ける奴ぁ別だけどよ、そうはいやしねぇぜ」

   学問吟味とは、先達せんだって御公儀幕府が旗本・御家人の中で学問に秀でた子弟を役人に登用するために昌平坂学問所に設けられた試験で、時の老中首座・松平越中守(定信)がおこなった御改め(寛政の改革)の一環である。

「……確かに史記にも出てきなんしが、の方は『戰國策』にてありんす。わっちは白文原文ではのうて訓読の林羅山の書で習っとりんすが……」

   いにしえの昔、もろこしの国で、当時すでに古書であった戰國策を司馬遷が読み、そののち自らの著書である史記に用いたと云われている。
   ちなみに、我が身をよく知る人という意の「知己」なる古事成語は、これより生まれた。

   この日、舞ひつるは昼から漢籍の講書を受ける手はずになっていた。
   講ずるのは今は隠居となって一線を引いた儒学者であるが、やはり歌舞音曲の師匠たちと同じく、かの道では名を知らぬ者はいないらしい。

「漢籍のお師匠っしょさまより、次までに己なりに言葉の意を考えよ、と云われてなんし」

「確か……男はおのれを信じて任を与えてくれる者のためなら死を賭して忠義を尽くし、女はおのれを慈しんでくれる者のためなら美しくなろうとする、っていう意味じゃなかったか」

   兵馬は懐手ふところでをして、ぼそりとつぶやいた。そのとき、舞ひつるは覗き込まれている兵馬の顔が、我が身のすぐ脇にあることに気づいた。
   ゆえに、そーっと身を引く。

   すると、兵馬は思案顔のまま、その場にどかりと座り込んでしまった。
   しかも、また近づいているような……

「『』のことが事の本意ほいで、『女』はただ対で使つこうてなんしは承知しとりんす」
   舞ひつるはとまどいを隠しつつ、言葉を返した。


   劉向によって編纂された「戰國策」には、かように記されている。

   もろこしの国が戦乱に明け暮れていた春秋戦国時代、普の国で生まれた豫譲は、いろんな武将の下を渡り歩くもなかなか思うように取り立ててくれる者がなかったが、とうとう自分に任を与え重用してくれる主君に出会った。国の重臣・智伯である。

   ところが、その智伯が政敵・趙襄子とのいくさで命を落としてしまう。その際に豫譲が復讐を誓って放った言葉の一節が『士爲知己者死,女爲悅己者容』である。

   されども、自ら刺客となり我が身を犠牲にしてまでさまざまな策を講じたにもかかわらず、豫譲は敢えなく趙襄子に捕えられ、結局のところ復讐を果たすことなく自死してしまうのだが……


「『士』の方の意味はそのまんまじゃねぇのか。特に、おれら武家のもんにとっちゃあ、物心ついた頃から耳に胼胝たこができちまうってくれぇ聞かされてるってのよ」

   元禄の頃の「假名手本忠臣藏」 にもあるように、主君の仇討あだうちのために命を差し出すのは、武家のかがみである。

   また、戰國策の挿話からかんがみても、豫譲の心持ちがそのままあらわれているとしか思えぬ。

「だが、『女』の方はどうだろな。……まぁ、おれは男だからなぁ。おなごの気持ちは理解わかりっこねぇけどよ」

   漢籍のお師匠っしょさまも男だが、飄々としてなかなか掴みどころのない雲のごときお方だった。
  とは云え、くるわおんなに講じている以上、より答えを望まれているのは「女」の方に違いない。


「なぁ、おめぇも……好いた男でもできりゃあ、ちったぁわかるようになるんじゃねぇのかい」

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