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三段目
玉ノ緒の場〈壱〉
しおりを挟むその日の久喜萬字屋は、振袖新造・玉ノ緒が身請けされる話で持ちきりだった。
此度、玉ノ緒を落籍かせることに決まったのは淡路屋という廻船問屋で、江戸府中で知らぬものはいない大店だ。
先頃、其処の跡取り息子が「世間」を知るため、父親である主人に連れられて吉原にやってきたのだが、どうやら玉ノ緒を見初めたらしい。
以来、親の目を盗んで、しばしば通っていたと云う。
淡路屋の主人にとって晩く生まれた念願の一人息子は、まだ二十歳にも満たないと聞く。若さゆえ、初めての「恋」に頭に血が上ったのであろう。
だが、廓通いは大金が掛かる。大事な店の金を持ち出しての所業であった。
ふつうであらば、さような銅鑼息子、勘当して店から叩き出すところである。
ところが、父親としては我が子かわいさ余ってしのびなく、息子がそないに想いを寄せる妓なら、いっそのこと嫁に迎えるか……と、なったに違いない。
また、大店を預かる当代の身としては、我が目の黒いうちに次代を任せる跡取りにしっかりと身を固めさせておきたい、と云う算段なのかもしれない。
実は、「振新」は町家で商売をやっている商家にとっては、なかなかの「掘り出し物」なのだ。
歌舞音曲はもちろん詩歌や和漢籍の教養を叩き込まれている上に、廓の一癖も二癖もある客で鍛えられているため肝の座り具合も半端なく、客遇いなんて、お手の物だ。
にもかかわらず、まだ一度も客を取らぬ生娘ときている。
花街で培われた色気の滲んだ美しい容姿に、客を最上にもてなしても決して媚びは売らない「吉原遊女」の心意気は、町家の娘が束になってかかっても、敵うものではない。
よって、商家が跡取り息子の嫁に振袖新造を請う話は、決して少なくはない。
とは云え、廓の妓を落籍かせるためにはとんでもなく金が掛かる。
「身請」するには、親元に支払った負い目(借金)の残り全額とそれに掛かる金利だけでなく「身代金」も要り、しかも一括で払わねばならない。
身代金は、妓の格とその見世での稼ぎ具合によって決まるため、見世で重宝されているほど高くなる。
時期によっても異なるが、呼出(花魁)ならうんと低く見積もっても千両、部屋待ちの遊女や振袖新造なら五百両、部屋を持たぬ廻しの女郎であっても百両がおおよその相場であった。
宵越しの銭を持たぬ、というより持てない江戸の民にとっては途方もない額である。
淡路屋は、たった一人の跡取り息子のために、五百両もの大金をぽんと出すのだ。
「……そもそも、淡路屋に後妻に入りなんしたお内儀さんが、若い頃久喜萬字屋にいなんしたそうでありんす」
羽おりが、何処ぞで聞きかじったことを得意げに云った。
「えっ、さようでなんしかえ」
羽おとが、団栗眼をさらに大きく見開く。
「なんでも、今の旦那さんが見初めなんして、さんざん通い詰めなんした挙句に、落籍かれなんしたそうでありんす」
「わぁ、わっちもいずれ、そないな主さんに巡り逢いとうなんし」
羽おりも羽おとも夢心地になって、うっとりとしていた。
遊女や女郎にとって、大枚叩いてこの苦界から請け出してくれる「主」は、神様仏様に見えた。
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