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五段目
忍苦の場〈陸〉
しおりを挟む以後、美鶴は左手に綿布、右手に縫い針を持ち、明けても暮れても雑巾を縫うこととなった。
持ち込まれた布は、稽古していたときのような格子柄ではない。絣や縞であらば御の字で、たいていは模様のほとんどない布地である。
かような布は、まだまだ美鶴では手に余り、真っ直ぐ縫い進めることができない。
よって、何度もやり直した。
しかしながら、なんとか十枚ほど仕上げたそのとき、多喜がおさとを伴って姿を見せた。
中に入ってきた多喜は、重ねて積んでいた雑巾のうちの一枚を摘み上げた。無地の物であった。それをじろりと見たかと思いきや、美鶴の目の前に立つ。
正座する美鶴は、立ったままの多喜を見上げた。
すると、そのとき——
雑巾が、美鶴の顔に、はらりと落ちてきた。
「……やり直せ」
一言だけ云い放つと、すぐさま多喜は縁側へ出た。
そして、其処で控えていたおさとに向かって、
「あのような不出来を近所に返せば、我が島村家は末代まで笑われるわ。……恥知らずめが」
吐き捨てるようにそう云い残したかと思うと、瞬く間に去って行った。
「お嬢、御新造さんがあぁ云うてなさるんで、解いて縫い直しておくんなせぇ」
おさともまたそう云うと、立ち上がって多喜のあとを追って行った。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
顔に当たって床に落ちた雑巾を、美鶴は拾う。
「……まだまだ力及ばず、でなんしたか」
手にした雑巾を見ながら、ぽつりと呟くと、縫い目を解くために玉結びを断つべく、握り鋏を手にとった。
吉原で働く者たちを「人間」と思わぬ客は、それこそ山ほど見てきた。
(狼藉を働く客は見世の男衆たちから瀕死の目に遭わされたのち、出入り禁止となっていたが。)
これしきの仕打ち、物の数にも入らぬと思わなくては、これから先やっていけない。
それに……
——初めて舞を習った、あのお師匠さんに較べれば……
同じ芸妓上がりでも、三味線の師である染丸など、かわいいものだった。
幼き頃に師事した今は亡き舞の師匠は、とてつもなく厳しい老女であった。
美鶴がほんの少しでも舞の振りを間違えようものなら、手どころか物差しまでもがぴしゃりと飛んできた。
『あたしゃ、子ども相手に御託を並べるほど、暇じゃねえってんだよ。早いとこ身体で覚えちまいな』
お師匠の口癖であった言葉が溢れ出てきた。
されども……
教え方はともかく、「舞ひつる」が若くして「舞の名手」と吉原でもてはやされたのは、この尋常なく厳しかった師匠によって、きっちりと舞の「形」を身体に叩き込まれたゆえであるのは否めない。
美鶴は唇を、ぐっ、と噛み締めた。
どんなにつらいことがあろうとも、心の支えはやはり——
「吉原の妓」であったという「矜持」だった。
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