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七段目
祝言の場〈参〉
しおりを挟む着付けの女が慌てて、
「うちら町家と違って、お武家さまは公方様んとこの若様の忌引っとかで、せっかくの目出度い晴れの日だってぇのに、派手にゃできず気を遣わにゃならねぇって、難儀なこってすねぇ」
と云う。
その目は、白無垢ではない真っ黒な裲襠に注がれていた。
すると、もう一人の女も、
「そうそう最近じゃ、大名様や羽振りの良い商家では『三襲』云ってさぁ、祝言の最中に白無垢から赤、それから黒と、裲襠を着替えて『色直し』させんだとよ」
と云い添える。
暗に「黒」が別に不祝儀であるとは限らず、祝言でも用いられる色だと教えてくれているのだ。
「へぇ、お大尽ってのは豪勢だねぇ。それに、この裲襠の黒はまるで檳榔子黒みたいに黒々してるじゃないか」
一番無愛想に見えた年嵩の化粧師までもが、口を添えてくれる。
「黒」は黒ければ黒いほど極上品である。中でも檳榔地黒は最高級の黒で、家一軒買えるのではないかと云われるほど高直な染料だ。
されども、美鶴の心持ちは一向に晴れなかった。
なぜなら、刀根の「教え」の中に……
「『純潔の証』であるとともに『死装束』でもあるのが、武家の女子が祝言を挙げる際に纏う『白無垢』でございまする。婚家の 『色』に染まりやすいゆえという意は元より、死せるそのときまでただひたすら純粋無垢な心持ちで嫁いだ御家のために奉公する、と云う覚悟のほどを顕しておりまする」
とあったからだ。
——なのに、よりによって「黒」とは……
またその折には、ちょうど良き機会とばかりに、刀根から武家の女にとって何物にも換え難きものを与えられていた。
美しい桐箱に入ったそれは、美鶴の前にすーっと差し出された。
『開けられよ』
さように云われて、美鶴が封じられていた紐を解き箱を開けると、一口の懐剣が入っていた。
鞘には漆塗りの地に常盤松を背に天高く飛翔しようとする一羽の鶴が色鮮やかに描かれていて、柄や鍔の部分には熟練と思しき職人による見事な細工が施されていた。
『此の剣を、武家に生まれたそなたの「命」と思え』
刀根の凛とした声が、座敷に響く。
『いざと云うときの護りになるのはもちろん、もしも武家の女としての誇りが傷つけられようとした折にも、潔う役立ってくれようぞ。……これより肌身離さず待ち、嫁入る際には必ず持っていかれよ』
本来は、母親が武家の女の心得を説きながら娘に渡すべきものであった。
だが、知らぬ間にいろんな家との養子縁組を経てきた美鶴には、その任にあたるはずの「母親」が曖昧になっていた。
『……刀根さま、ありがたく頂戴し奉りまする』
美鶴は深々と平伏し、懐剣を受け取った。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
おなごたちの手早い働きによって、美鶴はすっかり「花嫁御寮」となった。
最後に、真っ白な錦織の袋に入れた懐剣を帯に差した。そして、真っ白な組紐を整え、その先の二本の房を真っ直ぐに垂らす。
頃合いとばかりに、この屋敷に案内されたときにいたおなごが、また現れた。
美鶴の手を取り、座敷の外へと促す。
まるで美鶴の心のようにずしりと重い真っ黒な裲襠の裾を引き、武家屋敷によくある回廊になった縁側に出る。
すると、其処にはやはり、島村の家とは別格の庭が広がっていた。
吉原の久喜萬字屋にも、江戸でも指折りの植木職人たちが腕を振るい丹精込めて造りあげた、それはそれは見事な庭園があったが、これほどまで年季の入った立派な樹木が植わっていたわけではない。
廓の木々が、まるで芝居の張りぼてに見えるほどだ。
美鶴は空を見上げた。
どんよりとした分厚い雲がかかっていて、今にも雨が降り出しそうなほど薄暗かった。
陰鬱な心持ちが、ますます募る。ため息がせり上がってきそうなのを、必死で堪える。
当主である島村 勘解由は、美鶴の出自を知っているようであるし、その妻である多喜は知らずとしても云わずもがなだ。
体面をなにより重んじる武家が、廓で育ったおなごをすんなりと受け入れられるとは、天地がひっくり返っても思えなかった。
——ゆえに、旦那さまになる広次郎さまには……絶対に知られてはならぬ。
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