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七段目
往古の場〈壱〉
しおりを挟む「吉原」は御公儀(江戸幕府)がお墨付きを与えた、たった一つの「廓」である。
よって、同じ春を鬻ぐ処であっても、品川や新宿などは「岡場所」としか名乗れない。
その吉原に入る唯一の入り口である大門は、朱色に彩られた二本の柱に黒い屋根を乗せた鏑木門だ。
そこを潜れば、右手には隙をついて吉原を出て行こうとする命知らずな遊女や女郎たちを 見世の者が見張る四郎兵衛会所、左手には御公儀に仕える同心や岡っ引き・下っ引きが諍いごとに備えて詰める面番所があった。
此処のところ、厄介な上役から身を変装す御役目を命じられておらぬ隠密廻り同心・島村 尚之介は、本日も面番所にいた。
そもそもの隠密同心の御役目は、吉原の取り締まりである。
生家は代々続く内与力の御家にもかかわらず……
御納戸色の着物の上に裾を捲って角帯に手挟んだ紋付の黒羽織、裏白の紺足袋に雪駄履き、腰には二本、水平に差された大小の刀……
——今やすっかり養家の「同心」の出で立ちが身に付きつつあった。
「……島村の旦那、いいんですかい」
くたくたに着古した木綿の着物を尻っ端折りに絡げた岡っ引き・辰吉が、ため息混じりに訊く。
「御新造さんが待つ八丁堀へ帰んねえで。祝言を挙げたばっかでござんしょう」
「あぁっ、旦那、そいつぁいけねえや。きっと早晩、御新造さんから愛想尽かされちまいやすぜ」
湯呑みに茶を淹れて持ってきた、下っ引きの伊作が口を挟む。
尚之介の切れ長の鋭い目が、辰吉と伊作を射抜いた。とても、一介の同心が放つ眼差しではない。
二十歳そこそこで、辰吉の手下の仕事をしている伊作はもちろん、すでに初老に差しかかり、今までさんざん酸いも甘いも噛み分けてきた辰吉ですら、ぶるりと震えるくらいだ。
「……ちょいとその辺を見回ってくる」
尚之介はかように告げるとすっと立ち上がり、表の通りに通じる油障子をがらりと開いた。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
「同心」は、与力の配下で手足となって働くのが御役目だ。
特に町の者たちに直に関わる「町方同心」に就いた暁には、町家で厄介ごとが起こった際には、真っ先に現場に駆けつけ御役目を果たさねばならない。
また、それらを無事に果たすためには、常日頃より岡っ引きや下っ引きなどの「手下」を自腹で雇って町家の情報を集めておかなければならない。
岡っ引きなぞになるヤツらは脛に傷を持つ身であることが多いから、腹を探り合いながら付き合わねばならぬので、骨が折れた。
つまり、与力がせぬ「汚れ仕事」を同心が一手に担っているのである。
生家の「御奉行様の側仕え」である内与力のような「綺麗」な御役目とは雲泥の差であった。
にもかかわらず、禄米が少ないのはもちろん、組屋敷も三百坪を超える与力の家に対して、同心の家は百坪あれば御の字だ。また、与力が認められている江戸府内での馬への騎乗は同心には許されていない。
さらに、同心は御公儀(江戸幕府)が直轄する町奉行所の役人なのに——「士分」ではなかった。
同心は武家である「士分」と「町人」の間に属する身分であった。ゆえに、如何に手柄を立てようとも、決して、同心が与力に取り立てられることはない。
それゆえ、跡取りのいない親戚筋から是っ非にと尚之介を所望されても、父親は我が次男を同心にさせるのを頑なに拒んだ。
また、尚之介自身にも、同心にはなりとうない理由があった。
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