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九段目
離礁の場〈壱〉
しおりを挟むあの初夜の日以降、美鶴が夫である兵馬の顔を見ることはなかった。
此れよりしばし宿直が続く、と奉行所から一度使いの者を寄越したっきり、屋敷に帰ってこなくなったのだ。
されども、松波家の舅も姑も、そして御家のために忙しなく立ち働く使用人たちも、たとえ陰であろうと美鶴を悪しざまに咎める者は、だれ一人とていなかった。
「……祝言を挙げたばかりと云うに、家にも帰って来ぬとは、いったい兵馬は如何なる了見か。わたくしは兵馬の母として、美鶴殿に申し訳のう思うとともに、情けのうござりまする」
特に、姑の志鶴が怒っていた。口調は武家の妻女らしく静かであったが、すぅーっと細められた「天女の目」が肝を冷やすほど怖い。
どうやら、兵馬が『我が妻にしとうござる』おなごとは添い遂げられず、御家の体裁を慮ってしぶしぶ美鶴を娶った、ということを知らないようであった。
「兵馬が帰ってきた折には、一言申そうと思うて待ち構えてござるというに……」
「姑上様、旦那さまは御役目でござりまするゆえ……わたくしは、とくと心得ておりまする」
美鶴があわてて取りなすと、座敷の入り口で控えていた女中のおせいが、突然がばりとひれ伏した。
「ご、御新造さん、お労しや……」
畳にぺったりと額をつけて土下座したかと思えば、おいおいと泣き始める。
「若さまが……生まれなすったときからお世話さしてきた……あたいのせいで……御新造さんにこんな思いをさしちまって……」
「おせい、幾度もそなたの所為ではあらぬと云うておろうが。すべて……わたくしの育て方が悪かったのじゃ」
志鶴は無念至極とばかりに唇を噛み締めた。
「わたくしはご先祖様に……今は亡き舅上様と姑上様に……あの世へ参っても、到底顔向けできぬ……」
「お、奥様……っ」
おせいは肩を震わせ、ただただ咽び泣く。
「あ、あの……それで、旦那さまの浴衣でござりまするが……」
美鶴は縫いかけの布地を差し出した。
そもそもこの日は、兵馬のために縫っている浴衣を検分してもらうために、姑の部屋を訪れていたのだった。
松波の家では、だれもが美鶴を下にも置かぬ扱いゆえ、今や縦のものを横にもせぬのかと云うほど横着な暮らしぶりだ。
もちろん、美鶴はさような暮らしを望んでいるわけではない。ゆえに、せめて縫い物でもしていないと、毎日間が持てないのだ。
「あぁ、そうであった」
志鶴は差し出された布地を受け取り、隅々まで確かめ始めた。
——なんとか、姑上様の気を逸らすことができて良うござった。
されども、美鶴はやはり縫い物は不得手だ。だからこそ、一針一針、丁寧に刺すことを心がけている。
そうすると、当然のことながら手は遅くなってしまうが、姑からそれを咎められたことはない。
「……縫い目はしかと揃っておりまする。このまま続けてくだされ」
志鶴の言葉に、美鶴はほっと胸を撫で下ろした。
——たとえ、若さまに袖を通してもらえなくとも……
いや、わたくしが縫ったことを伏せて手渡してもらえれば……もしかしたら、袖を通してくれるやも知れぬ。
そして、ふと思い出した。
美鶴は、島村 勘解由にも、浴衣を縫うて渡していた。
されども、それはすぐに控えていた中間の手に渡り、何処へかと持ち去られた。
とりあえず仕立てた浴衣は、今縫っているものよりも、ずっと拙い縫い目であったであろう。次は、単衣の着物でも、と思うていた矢先に此度のことと相成った。
——島村さま……あのお方に、あの浴衣の袖を通してもらえておるであろうか……
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
その後、美鶴の健気にも耐える姿は、おせいによって竈のある土間で、ほかの女中たちに涙ながらに語られた。
それを聞いた女中のうちの一人が、仲良くしている中間に事細かにしゃべった。
やがて、その中間から仲間内で、その些細が口の端に上った。
すると、瞬く間に松波の家人の「御新造さん」への株は、極楽浄土のある天上まで鰻登りした。
その代わり、御家の次代を担う「若旦那さま」の株は地獄谷の底まで真っ逆さまに堕ちた。
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