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九段目
媾曳の場〈参〉
しおりを挟む美鶴は、袖口で口元を隠して顔を背けた。
それでなくとも袖頭巾を被っている今、美鶴であるとは気づかれぬであろう。
案の定、兵馬も玉ノ緒も、美鶴とおさとの脇をすーっと通り過ぎて行く。
幸か不幸か、おさとが松波家に奉公に入ったときには、すでに兵馬はもう家に帰ってきていなかったゆえ、おさとは兵馬の顔を知らぬ。
兵馬をよく知る弥吉は今、おせいへの土産を買うために駆けて行ったため、此処にはいない。
今頃はきっと、小間物屋あたりで無骨なその手にかわいらしい櫛を取り、あれでもない、これでもない、と思案しているに違いない。
「さ、御新造さん、奥へ行きやしょう」
おさとはにっこりと笑って、いっさいの邪気もなくさように云った。
されども——
「ご、御新造さん……い、一体どうしちまったんでぇ」
一転して、おさとがぎょっとした顔になる。
美鶴の両頬に、つーっと一筋、涙が伝っていた。
あわてて、袖先でその涙を拭う。だが、追い打ちをかけるかのように、両方の目からはまた、ぼたぼたぼた…と涙がこぼれ落ちた。
そして……
いったん堰を切ったその涙は、遠慮会釈することなく止めどなくあふれ出て——美鶴にはもう、どうすることもできなかった。
美鶴の涙は、なかなか止まらなかった。
いきなりあふれ出てきた涙に、一番驚いたのは美鶴であった。
まるで人形のごとく固まり、その場から一歩も動けなくなってしまった。
されども、泣き声をあげることはなかった。ただただ、涙をはらはらと流すばかりであった。
あとについてくる気配がないため、茶汲み娘が後ろを振り返った。美鶴の涙を見て、訝しげな顔になる。
おさとは美鶴にぴったりと付き添い、なるべくその顔を見せないようにしながら、奥の小上がりまで進む。
そして、畳の上に置かれた座布団に美鶴を座らせた。
それから、丸盆を両手で抱えてどうしたものかと様子を窺う茶汲み娘に、あったかいお茶を一つ所望する。
「へぇ、すぐに持ってきやす」と返事して、茶汲み娘は板場へと向かった。
美鶴の向かいに腰を下ろし、おさとはしみじみと云った。
「御新造さんは、ずーっと気を張っていなすったから……きっと、心が疲れ切っちまったんでさ」
おさとにとって、美鶴が泣いている姿を見たのは初めてのことであった。
島村の御家で、主人の妻の多喜からあれだけの仕打ちを受けていたときですら、美鶴の涙どころか泣き言一つ聞いたことがない。
「御新造さん、ちょいとここで待ってておくんなせぇ」
いつでも気丈な美鶴の、かように弱り切った姿を、おさとはとても見ていられなかった。
「これから弥吉さんを探しに行きやすんで、見つけたら志ほせ饅頭の受け取りは弥吉さんに任せっちまって、あたいはそん足で駕籠を呼んで来やす」
そのとき、茶汲み娘が「へぇ、お待っとさんでやんした」と熱いお茶を持って来た。
おさとが熱い湯呑みを受け取って、美鶴に渡す。
湯呑みを両手で包むように持った美鶴は、ひとくち茶を飲んだ。
心にじわぁっと沁み入る、あったかさであった。
美鶴はまるで幼い子どものごとく、こくり、と肯いた。
それを見て、おさともまた一つ肯くと、水茶屋から飛び出るように出て行った。
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