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大詰
口上〈玖〉
しおりを挟む「そりゃあ、今のおめぇさんは、もう久喜萬字屋の『玉ノ緒』じゃねえからよ」
茶汲み女に茶を所望すると、兵馬は一番奥の小上がりまで歩み、雪駄を脱ぎながら云った。
「すっかり嫁ぎ先の……淡路屋の『若女将』になっちまったな」
すでに小上がりに座していた玉ノ緒——おゆふが、ふふふ…と微笑んだ。
「ええ、おかげさんで」
其れは見世にいた頃の、艶を含んではいるが徒花のごとき何処か虚ろな笑みではなかった。
地に足をつけた仕合わせを手にした者だけができる、穏やかで満ち足りた笑みであった。
「されども、わっちなぞ、まだまだでありんす。お廓の物云いですら抜けずじまいなんし」
だが、淡路屋の若旦那である亭主からはもちろん、舅や姑そしてお店の者たちからですら、無理に町家言葉になおすことはないと云われていた。
淡路屋でのおゆふは、まさに上の物を下へも置かぬ扱いであった。
「今は……お店の仔細を覚えるよりも、この子を産むことが『勤め』と、皆から云われとりんす。わっちも、この子が無事に生まれてきなんしを、ただひたすら願っとりんす」
おゆふは、まだほとんど膨らみのない我が胎を愛おしげに撫でた。
「そうか……そいつぁ、目出度ぇな」
特に、歳晩くなってから跡取り息子をもうけた淡路屋の主人にとっては、こないに早く孫の顔を見られようとは思いもよらぬことであろう。きっと、この世の春に違いない。
「そいじゃあ、おめぇさんが外へ出るってぇなったら、亭主も気が気じゃねえだろよ」
兵馬は外へ向けて壁の方に目を送った。
「此処へ来る道中、やたらと手代を見かけたぜ。……淡路屋の店の者だろ。おめぇの亭主もいたかもな」
そして、ニヤリと笑った。
将来の跡取りになるやもしれぬ子を身籠った若女将に、もしものことがあらば「淡路屋の一大事」だ。できるならば、外になぞ出したくはなかったであろう。
されども、岡っ引きが間に入っての町方与力の「御用向き」である。町家の、しかも商いを稼業とする身とあらば断るわけにはいくまい。
さらにその町方与力とは、巷でおなごたちが黄色い声をあげる「浮世絵与力の倅」であった。
その与力は、若女将に供を付けることも認めず、たった二人きりで会わせろと云う。
まるで「媾曳」ではないか。
おゆふの亭主は、やっとの思いで手に入れた我が「恋女房」に、この与力がいったい何の話があるのか、と真っ青になった。
そこで、店の若衆である手代たちを駆り出させて、たとえ遠巻きにでも見張らせることにした。
そして、我が身もまた店を放っぽりだして、この日は付きっきりで采配することと相成った。
「もしかしたら……この壁の向こうで、だれかが聞き耳を立ててっかもしんねぇな」
その刹那、壁の向こうで、がたりと大きな音がした。すかさず、ざわざわと人の声も聞こえてくる。
「慣れねぇことは、するもんじゃねえな」
兵馬がくくくっ…と笑った。
おゆふも大きく声をたてて笑った。久喜萬字屋では御法度の笑い声だった。
「……それで若さま、本日はどんな御用向きでなんしかえ」
ひとしきり笑ったあと、おゆふが表情を引き締めて問うてきた。
「わっちをこないにまでして呼び出しなんしたからには、是っ非とも聞きたいことがおありでござんしょう」
「あぁ、そいつなんだがな。……おめぇさんは『舞ひつる』が何処へ行っちまったか、知ってるかい」
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