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大詰
幕引〈弐〉
しおりを挟む「お、奥方様っ、なんと云うことをっ」
慌てふためいた広次郎は、思わず面を上げて叫んだ。
されども、美鶴は一向に臆することなくなおも続ける。
「どうかわたくしの命でもって、島村の御家には御咎めのなきよう、伏してお願い申し上げまする」
そして兵馬の方へ、ずい、と膝を進める。
「旦那さま、どうぞ……わたくしめの此の首を召しませ」
「……云いたいことは済んだか」
夫・兵馬の固い声が辺りに響いた。
美鶴はハッとする。夫の目の前で見苦しくも云い訳をしてしまった。
武家の妻として、恥ずべきことである。
「旦那さま……誠に申し訳ありませぬ」
我が身の命乞いをするつもりは毛頭あらぬが、島村家へと火の粉が飛ばぬよう、ただひたすら平伏して詫びるしかない。
さような決死の姿の妻を、兵馬はじっと見据えていたが、不意に目を逸らした。
「……おい、同心」
そのまま、後ろに控える広次郎の方へ目を遣る。
「はっ」
広次郎は再び目を伏せ、応じた。
「おめぇさん、御役目中に持ち場を抜けて此処に参ったんじゃねぇのか」
広次郎は、同心が御役目の際に纏う着流しに黒羽織姿であった。
「即刻、御役目に戻れ」
同心にとって、上役の与力からの下知は「絶対」である。
その与力が北町の者であろうと南町の者であろうと、同心であらば従わねばならぬ。
広次郎は眼下の地面を見つめながら、唇を噛み締めた。
「……御意」
どんなに口惜しかろうと、応じる以外の道はなかった。
だが——持ち場に戻れ、と云われても、武家の証である刀がないと御役目が果たせぬ。
「……刀を忘れるんじゃねぇぞ」
兵馬はすかさず云い添えた。
「かたじけのうござる」
広次郎は先刻差し出した二本の刀を手に取ると、立ち上がって左腰にそれらを手挟んだ。
「しからば……此れにて御免」
この場に美鶴を一人置いて去って行くのは、無念至極である。
さすれども、立ちはだかる身分の前では如何することもできかった。
後ろ髪を引かれながらも、広次郎はその場をあとにした。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
広次郎が立ち去ると、逸されていた兵馬の目が妻の方に戻った。
「美鶴」
夫から……初めて、名を呼ばれた。
美鶴は吸い寄せられるように、夫の姿を見上げる。
頭は粋な本多髷にその精悍な面立ちは、相も変わらず巷では勝手に浮世絵にされるのではないかと云われるくらい、鯔背な男ぶりであった。
「ようやっと……おめぇさんの『真名』が知れたって云うのによ」
兵馬は苦々しげにつぶやいた。
「……おめぇ、吉原の久喜萬字屋にいた『舞ひつる』なんだろ」
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