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Kapitel 2

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「い、いきなり……な、なにを言い出すの?」
   ヘッダが、青ざめた顔に唇を震わせて娘を見た。

「おかあさま……私は本気よ」
   リリは、母親をまっすぐ見据えて告げた。

「だって……そんな……結婚式は今月なのよ?」

   グランホルム大尉とリリの挙式は今月末の Midsommar夏至祭の一週前に予定されていて、それはあと二週間後に迫っていた。

「ごめんなさい……でも、どうしても……私には無理なのよ……」

   先ほどまでの穏やかで和やかな雰囲気は、今やすっかり過去のものとなっていた。

「まさか……好きな男でもいるのか?」
   ため息とともに、ラーシュが問うてきた。

「そんなひとなんて、いないわ」
   リリは、即座に否定した。

   そもそも、異性に出会う機会すらないのだ。貴族の子女と違って「社交シーズン」がなく、教会での礼拝や奉仕活動ボランティア以外には街へ出かけることもない。
   日々、やしきの中で本を読んだり縫い物や編み物をしたりして過ごす生活をしている。

「だったら……なぜ……今になって……」
   ヘッダは消え入りそうな声でつぶやいた。

   嫁ぐ前は父親に、嫁いだ後は夫に従って、家族のために生きることに何の疑いも持たぬ彼女には、父親の意向にそむこうとしている娘の「所業」がさっぱり理解できなかった。

「本当の理由はなんだい、リリ?……どうして、グランホルムとでは『無理』だと思うの?」

   今度はなだめるような感じで、ラーシュが尋ねてきた。

「だって……住む世界が違うわ。彼はHedrande貴族の令息だもの」

「『住む世界』って……彼は爵位も継がないし、HedrandeというよりはSoldat軍人だけどねぇ……」

「彼がどういう人なのかなんて、私にはわからないわ。なぜなら、婚約が決まったあとも、ほとんど顔を合わせたことがないのだもの。彼の方こそ、私のような商人の娘などと結婚なんかしたくないのではなくて?」

「確かに、彼は軍功をあげるために、この三年間ほとんど賜暇に目もくれず、軍務に没頭していたことは否めないけれどね」

「だったら……いっそうのこと私なんかより、軍の中でもっと出世できそうな上司の息女とでも結婚なさった方がよろしくて?」

   リリはその翠玉色エメラルドグリーンの瞳をかげらせて、じっと兄を見つめた。

「これは……彼のためでもあるのよ」


「——リリ」

   それまで黙っていたオーケが、口を開いた。

「覚悟はできてるんだな?」

   リリは自分を励まして、父親の方へ向き直った。

「理由はどうあれ、こんな間際になって結婚を取りやめようと言うのだ。しかも、相手は貴族であり軍人でもある。顔を潰すことはもちろん、向こうのプライドも粉々になるだろうな」

   貴族や軍人にとって、自尊心プライドが粉砕されるのは、なににも増して屈辱であろう。

「もちろん考えもなしに、こんな大それたことは言えないわ。おとうさまがこれまでに築き上げてきた信頼を失墜させることも……家族には心配だけでなく、多大なる迷惑をかけることもわかっているつもりよ。エマとの結婚を来月に控えたラーシュのことも気がかりだわ。……それでも」

   そして、リリは父に向かってきっぱりと言い切った。

「私は修道院に入って、イエス様の花嫁としてSister修道女となるわ。そして、その後はグランホルム大尉に日々懺悔をし、また世の中の人たちのために毎日マリア様にお祈りをして、私にできうるかぎりの奉仕活動をしながら生きて行くつもりよ」

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