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Kapitel 2
③
しおりを挟む「おぉ……リリ、だめよ……駄目だわ……そんなの……いけないわ……」
とうとうヘッダの紺碧の瞳から、はらはらと涙が溢れ出した。
「おかあさま、もっと早くに言うべきだったわ。でも、許してちょうだいな。もう、Nunnaにはすっかりお話をして、私をスウェーデン修道会に受け入れてもらう手はずになっているの」
「……そんな……いつの間に……」
ヘッダは崩れるようにテーブルに突っ伏した。ラーシュが駆け寄って、そっと母の背に手を置いた。
「私は、自分のたった一人しかいない娘に、そんな決意をさせるために旧教から新教に改宗しなかったわけでも、今まで修道会に多額の寄付をしてきたわけでもないのだがね」
オーケは苦々しくそう言ったあと、重い息を吐いた。彼らは、スウェーデンではめずらしくカトリックのキリスト教徒である。
贖宥状を購入すれば、教会から犯した罪が赦されるというローマ・カトリックに対し、ドイツのマルティン・ルターが抵抗して始まった宗教改革によって、この国のキリスト教徒の多くが福音ルター派に宗旨替えしたのだが、彼ら一族は相変わらず旧教徒だった。
オーケは若かりし頃、新教徒であるヘッダとの婚姻の際に改宗しようかと、かなり迷った。
だが、彼女の方がすんなり旧教徒になったことと、同じ宗教改革の立役者でもスイスのジャン・カルヴァンのように物を生み出さずに金銭だけを動かして儲ける浅ましい存在として見られてきた商工業者に光を与えてくれる宗派であればいざ知らず、農民のためにドイツ農民戦争を闘ったルターは商工業者に対しては旧教とさほど変わらない見解であったから、彼は結局そのままでいた。
しかし、このときばかりはそれを後悔していた。
新教には修道会がないため、生涯独身であることを義務付けられたMunkもNunnaもいないからだ。現にルター自身、妻に娶ったカタリナが還俗した元修道女だった。
実は、リリがグランホルム大尉との結婚に抗いたい理由の一つに、この宗教上の問題が大きくあった。
男爵・グランホルム家は福音ルター派に属している。そのため、マリア様を信奉する敬虔なカトリック教徒であるリリは、結婚式の直前に改宗することになっていた。
福音派ルターの信徒にとって信仰の指針となるのは「聖書に書かれている」ことのみである。「聖書に書かれていない」聖母マリアを信仰することは「聖書に背く」行為となる。
つまり、リリが改宗した暁には、マリア様への信仰の証であるロザリオを手放さねばならないのだ。
それが——リリにはどうしてもできなかった。
「——そこまでの決意があるならば、大尉に会って自分自身でこのことを申し入れ、その理由を詳らかに説明し、あとはひたすら誠心誠意、謝罪を尽くさねばならない」
オーケは、リリに向かってきっぱりと命じた。
「えっ……?」
リリは言葉を失った。
貴族の慣例により、他家との間でなにかを決める際には、必ず使者を立てて互いの意見を擦り合わせることになっていた。
彼らにとっては、両家が面と向かって子細をあれこれ述べ合うというのは、無粋で非常識ないかにも「庶民的な」所業なのだ。
——親同士ですら、直接話し合うことはないのに、私が自身でグランホルム大尉に申し上げるの?
「そうだね。彼の気性からみても、間に立った使者から聞かされたところで納得しないだろうしね」
ラーシュも父親の意見に賛同した。
「とはいえ、私たちも仕事があるからね。急に言われても都合がつかないよ。だからと言って、いくら断る側といえども、嫁入り前のリリを彼の住むカールスクルーナへ一人で行かせるわけにはいかないからなぁ。彼は結婚式の間際にならないと、イェーテボリには来られないと言っていたけれど、仕方ないね。……それでは、一刻も早くこちらに来るように、と彼に便りを出すよ」
婚約者同士であるはずの大尉とリリには、手紙でのやりとりはほとんどなく、二人が会見する手はずはいつも、兄の手に委ねられていた。
「……そんな……どうして……こんなことに……」
その後は、未だテーブルに突っ伏したままのヘッダのすすり泣く声だけが、ほんの先刻まで家族の団欒の場であったはずのこの部屋に響いた。
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