谷間の姫百合 〜もうすぐ結婚式ですが、あなたのために婚約破棄したいのです〜

佐倉 蘭

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Sista Kapitel

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    確かに、大広間ホールにいるときの大尉は、知人たちと出会っても会話に興じることなく、リリを婚約者だと紹介して簡単な挨拶をするだけで、ずっと彼女のそばから離れなかった。

   その後、ウルラ=ブリッド令嬢に誘われて庭園に出て、外れにある四阿あずまやにいると、わざわざ迎えにきてくれた。
   そういえばその際に、グランホルムアンドレ氏が『ビョルンが見当をつけて探していたから見つけられた』と言っていたではないか。

「あなたはどうやらダンスが得意のようだったな。私にとって……あんなにリードしやすいパートナーは、初めてだったよ」

   大尉は遠くを見る目でそう言った。そのときの様子を思い浮かべているようだ。

——大尉はあの一度きりの私との円舞曲ワルツを、そんなふうに思って踊っていらしたの?

   実は、リリにとってもあんなに踊りやすくリードしてもらえるパートナーは初めてだった。
   不機嫌そうな表情は相変わらずだったが、リリに触れるその手はやさしく、つ洗練されていて、まさしく英国仕込みの「紳士ジェントルマン」だった。
   それでいて、彼女を大胆にリードしつつ、ダンスフロアを優雅な足捌きステップで自由自在に動いた。

   無骨に見える軍人の彼だが、さすがは幼い頃から貴族として育てられてきた「貴公子」だ、とリリは大尉と初めてダンスをする緊張も忘れて、夢見るようなうっとりした気分で踊ることができた。
   だから、たった一曲きりで、あっという間に終わってしまったダンスを、リリは名残惜しくて……寂しくて……哀しく感じていた。

「私のような者は、錚々たる貴族方がお集りの舞踏会などへは、もう二度と御免こうむりたくてよ」

   リリはそう答えて肩をすくめた。

「でも……あなたとのダンスは楽しかった。だから、私……あなたともう一度、舞踏会で踊ってみたかったの」

   大尉の、ミルクのたっぷり入った珈琲フィーカの色をした瞳が、かっと見開かれた。

「リリコンヴァーリェ嬢……それは……」

    しかし、次の瞬間、彼は気まずそうに目線を落とした。

「だが、私は……あなたをまた舞踏会に誘うどころか、ようやくあなたと会える機会が与えられても……あなたを避けるようになってしまっていた」

「グランホルム大尉……」
   リリは目線を落とした彼と、なんとか視線を合わせようとして彼の顔を見た。

   すると、不意に彼の視線が上がった。二人の目が合う。

「リリコンヴァーリェ嬢、すまない。実は私は、あなたのような美しい女性とは……なにを話していいのか、皆目わからないんだ」

   彼の表情は、苦痛に耐えるがごとく歪んではいたが、心なしか、その耳が朱に染まったように見える。

「あなたとの縁談が持ち上がり、あなたの写真が送られてきたとき……私はあなたを、なんて美しい女性ひとなんだろうと思った」

   大尉には、画家に描かせたリリの肖像画ではなく、技師に最新の写真機で撮ってもらったリリの写真を送っていた。肖像画では、どうしても画家が「親切心」から「欠点を抑えて」美しく描いてしまうからだ。
  リリは「夫」になるかもしれない男性ひとには、最初からできるだけありのままの容姿を見てもらいたかった。

「顔合わせで初めて会ったときには、写真以上に美しい女性だとびっくりしたよ。だから、実際に話してみて、あなたに……『つまらない男』だとは失望されたくなかった。私には……アンドレみたいに、女性が喜ぶような気の利いた話題は提供できないからだ。そして……」

   大尉はそこで一瞬、言い淀んだ。

「グランホルム大尉……?」

   しかし、意を決して彼は告げた。

「あなたに……結婚相手がなぜ、男爵家の嫡男の方ではないのか。海軍の軍人というだけの男と結婚しても、男爵の令夫人に——貴族にはなれないではないか。『ビョルン』よりも『アンドレ』の方がよかったのに、と思われたくなかったんだ」

   突然、対面の長椅子ソファから立ち上がった大尉が、リリの前にやってきた。

「……リリコンヴァーリェ嬢」

   そして、その場で片膝をついてひざまずく。

「グランホルム大尉、いったいなにを……?」

    驚きのあまり口を覆おうとしたリリの手を、大尉がすかさず取る。
   今まで大尉は、リリとの挨拶の際には、必ず彼女の手の甲にぎりぎり触れないところで形だけの口づけをしていた。

   だが、今は違った。リリの手の甲に、彼がしっかりと自分の唇ををつけたのだ。
   しかも——手袋をつけていない素肌に……

   その瞬間、リリの手の甲が燃えるようにカッと熱くなった。

「……グ、グランホルム大尉⁉︎」

   大尉がソファに座るリリを見上げた。ミルクをたっぷり含んだ珈琲フィーカのような瞳の色だ。

   なぜかそのとき、リリの心臓がどくり、と音を立てたような気がした。
   とたんに、彼女の頬がカーッと火照ほてった。
   
「私がもし、プロテスタントに改宗などせずにカトリックのままでいいと言えば、あなたは修道院に入って神の花嫁になることを諦めて、もう一度私の妻になることを考えてくれるだろうか?」

   やや目尻の上がった、アーモンドのように大きな瞳が、リリをまっすぐに見据える。
   あまりにも眼光が鋭すぎて、彼女はたじろいだ。

「……グランホルム大尉……そ、それは……」


——まるで……プロポーズではないの?

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