28 / 73
Chapter 5
「大奥」の田中さん ⑤
しおりを挟む「小会議室A」の隣にある「小会議室B」に、大地と田中 亜湖が入った。
田中 亜湖は対面にした方が説明しやすいと思って、パイプ椅子を移動させようとしたら、大地が「いいから、いいから」と言って、彼女の腕を引いて自分の左隣に座らせた。
いつの間にか大地が、二人が座るパイプ椅子をぴったりくっつくくらい近く設置していた。大地が書くはずの書類は、なぜか田中 亜湖の真正面にある。その書類を大地が書くためには、彼女を背後からすっぽり包むようにして「二人羽織」状態にならなくてはならない。
実際、田中 亜湖は大地の腕の中にいた。
「あ、あの……上條課長」
田中 亜湖は後ろへ振り向いた。
すると、大地が思ったよりずっと近くて、二人の頬がかすかに触れてしまった。
田中 亜湖はあわてて顔を戻す。
「目、悪いんですか?」
俯いたままで尋ねる。
「目? ……両目とも一・〇はあると思うが」
大地が答える。しかも、田中 亜湖の耳元で。彼の声はよく響く低音だった。
「い、いえ……先刻から、距離が近いので。わたしのように、視力が悪いのかと」
すると、大地が田中 亜湖の左頬を右の手のひらで包み、自分の方へ向かせた。
「おまえ、目が悪いのか?」
そう言って、彼女の瞳をじーっと覗き込む。今度は鼻と鼻が触れそうだ。
気がついていてよかった、と大地はホッとした。先刻から、今日がほぼ初対面とは思えぬ距離感で大地が接していたというのに、田中 亜湖の反応が薄かったので、ちょっと焦りかけていたのである。
——それにしても、おれの視力が悪いせいかも、と思うとは。
思わず、顔がほころぶ。
覗き込んだ田中 亜湖の瞳が、揺れている。見つめられて、ちょっとは動揺してるだろうか?グロスに濡れてぷっくりしたくちびるが、妙に色っぽい。
いきなり、啄みたくなる。
上條課長の顔が近づいてきたような気がして、田中 亜湖はすんでのところで顔を逸らした。そして、そのまま書類の方に向き直る。
「ほんとは眼鏡をかけた方がいいんですけど、なんか面倒で。コンタクトはドライアイが激しくて目の表面を傷つけるので、できなくて……」
検査の結果、田中 亜湖が瞬きしたときの涙の分泌量は、普通の人の十分の一しかない。なんだかそう言うと、彼女が血も涙もない人間のようだが。
そのとき、田中 亜湖は、はっ、と気がついた。
上條課長の視力に問題がないのであれば、現在受けているもろもろのことは、セクハラにあたるのではなかろうか……?
——本店内のセクハラ対策は人事課の管轄で、担当者は確か蓉子だったはず。
田中 亜湖は一刻も早くこの状況から脱するべく、書類と伝票を急いで片付けていく。
呑気な大地は、田中 亜湖がそんなことを考えているとはつゆ知らず、綺麗な字だな、と思いながら、彼女の頭上から書類を眺めていた。結局、彼がすることは署名と捺印だけになりそうだ。
「……伝票は面倒じゃないのか?」
と大地が訊く。
ほぼ他人にさせといて、どの口が言う?と田中 亜湖は思ったが、心地よい低音で耳元で囁かれるとなにも言えない。
「面倒ですよ。課長が会議でおっしゃったように、わたしも電子化してペーパーレスにしてほしいです」
「おまえ、あの会議にいたのか?」
大地が驚く。席の配置を思い出そうとするが……
「下っ端ですからね。隅っこの机のさらに端にいました」
田中 亜湖がふふっ、と笑う。
「意外だな。『大奥』は改革に反対かと思ってた」
「どうして反対なの?」
田中 亜湖が大地の方に振り向いた。
「業務が軽減されるのに、反対なんてしないわ」
少し口を尖らせて言う。
——そのくちびるがほしい。
大地は彼女のくちびるにチュッ、と口づけた。
田中 亜湖は、上條課長のセクハラが確定した、と思った。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました
cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。
そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。
双子の妹、澪に縁談を押し付ける。
両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。
「はじめまして」
そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。
なんてカッコイイ人なの……。
戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。
「澪、キミを探していたんだ」
「キミ以外はいらない」
腹黒上司が実は激甘だった件について。
あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。
彼はヤバいです。
サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。
まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。
本当に厳しいんだから。
ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。
マジで?
意味不明なんだけど。
めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。
素直に甘えたいとさえ思った。
だけど、私はその想いに応えられないよ。
どうしたらいいかわからない…。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。
イケメンエリート軍団??何ですかそれ??【イケメンエリートシリーズ第二弾】
便葉
恋愛
国内有数の豪華複合オフィスビルの27階にある
IT関連会社“EARTHonCIRCLE”略して“EOC”
謎多き噂の飛び交う外資系一流企業
日本内外のイケメンエリートが
集まる男のみの会社
そのイケメンエリート軍団の異色男子
ジャスティン・レスターの意外なお話
矢代木の実(23歳)
借金地獄の元カレから身をひそめるため
友達の家に居候のはずが友達に彼氏ができ
今はネットカフェを放浪中
「もしかして、君って、家出少女??」
ある日、ビルの駐車場をうろついてたら
金髪のイケメンの外人さんに
声をかけられました
「寝るとこないないなら、俺ん家に来る?
あ、俺は、ここの27階で働いてる
ジャスティンって言うんだ」
「………あ、でも」
「大丈夫、何も心配ないよ。だって俺は…
女の子には興味はないから」
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜
椿かもめ
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。
【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】
☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆
※ベリーズカフェでも掲載中
※推敲、校正前のものです。ご注意下さい
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる