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Chapter 5

「大奥」の田中さん ⑤

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「小会議室A」の隣にある「小会議室B」に、大地と田中 亜湖が入った。

 田中 亜湖は対面にした方が説明しやすいと思って、パイプ椅子を移動させようとしたら、大地が「いいから、いいから」と言って、彼女の腕を引いて自分の左隣に座らせた。

 いつの間にか大地が、二人が座るパイプ椅子をぴったりくっつくくらい近く設置していた。大地が書くはずの書類は、なぜか田中 亜湖の真正面にある。その書類を大地が書くためには、彼女を背後からすっぽり包むようにして「二人羽織」状態にならなくてはならない。
 実際、田中 亜湖は大地の腕の中にいた。

「あ、あの……上條課長」
 田中 亜湖は後ろへ振り向いた。
 すると、大地が思ったよりずっと近くて、二人の頬がかすかに触れてしまった。

 田中 亜湖はあわてて顔を戻す。
「目、悪いんですか?」
 俯いたままで尋ねる。
「目? ……両目とも一・〇はあると思うが」
 大地が答える。しかも、田中 亜湖の耳元で。彼の声はよく響く低音だった。
「い、いえ……先刻さっきから、距離が近いので。わたしのように、視力が悪いのかと」

 すると、大地が田中 亜湖の左頬を右の手のひらで包み、自分の方へ向かせた。
「おまえ、目が悪いのか?」
 そう言って、彼女の瞳をじーっと覗き込む。今度は鼻と鼻が触れそうだ。

 気がついていてよかった、と大地はホッとした。先刻から、今日がほぼ初対面とは思えぬ距離感で大地が接していたというのに、田中 亜湖の反応が薄かったので、ちょっと焦りかけていたのである。
 ——それにしても、おれの視力が悪いせいかも、と思うとは。
 思わず、顔がほころぶ。

 覗き込んだ田中 亜湖の瞳が、揺れている。見つめられて、ちょっとは動揺してるだろうか?グロスに濡れてぷっくりしたくちびるが、妙に色っぽい。
 いきなり、ついばみたくなる。

 上條課長の顔が近づいてきたような気がして、田中 亜湖はすんでのところで顔を逸らした。そして、そのまま書類の方に向き直る。

「ほんとは眼鏡をかけた方がいいんですけど、なんか面倒で。コンタクトはドライアイが激しくて目の表面を傷つけるので、できなくて……」
 検査の結果、田中 亜湖がまばたきしたときの涙の分泌量は、普通の人の十分の一しかない。なんだかそう言うと、彼女が血も涙もない人間のようだが。

 そのとき、田中 亜湖は、はっ、と気がついた。
 上條課長の視力に問題がないのであれば、現在受けているもろもろのことは、セクハラにあたるのではなかろうか……?

 ——本店内のセクハラ対策は人事課の管轄で、担当者は確か蓉子だったはず。
 田中 亜湖は一刻も早くこの状況から脱するべく、書類と伝票を急いで片付けていく。

 呑気な大地は、田中 亜湖がそんなことを考えているとはつゆ知らず、綺麗な字だな、と思いながら、彼女の頭上から書類を眺めていた。結局、彼がすることは署名と捺印だけになりそうだ。

「……伝票は面倒じゃないのか?」
 と大地が訊く。

 ほぼ他人にさせといて、どの口が言う?と田中 亜湖は思ったが、心地よい低音で耳元で囁かれるとなにも言えない。

「面倒ですよ。課長が会議でおっしゃったように、わたしも電子化してペーパーレスにしてほしいです」 
「おまえ、あの会議にいたのか?」
 大地が驚く。席の配置を思い出そうとするが……

「下っ端ですからね。隅っこの机のさらに端にいました」
 田中 亜湖がふふっ、と笑う。

「意外だな。『大奥』は改革に反対かと思ってた」

「どうして反対なの?」
 田中 亜湖が大地の方に振り向いた。
「業務が軽減されるのに、反対なんてしないわ」
 少し口を尖らせて言う。

 ——そのくちびるがほしい。

 大地は彼女のくちびるにチュッ、と口づけた。

 田中 亜湖は、上條課長のセクハラが確定した、と思った。

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