父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし

佐倉 蘭

文字の大きさ
4 / 12

女房たちの井戸端話

しおりを挟む

「ええっ、そりゃあ本当かい」
「あっ、そいでせがれを置いて出ていったってこったねぇ」
「おすみってさ、何処どこの生まれか知んないけど、男好きのするおなごだったもんねぇ」
「『柳腰』ってのかい、妙に色気ある立ち居でさ。うちの裏店の男連中だけじゃ飽き足らず、両隣の男たちまでもそわそわさせちまってよ」
「そういや、あんたの亭主もご執心だったねぇ」
「なに云ってやがんでぇ。あんたの亭主もだってのよ」
「やだよう、あんたら云い合いなんかすんじゃないよ。みっともねぇったらありゃしない」

「そうだ、ちょいと小耳に挟んだ話があんだけど……」
   女房のうちの一人がふと思い出した。
「なんだってぇ」
はよう教えとくれよ」
「もったいぶって出し惜しみはなしだかんね」
   とたんに他の女房たちがかしましく騒ぎ出す。

「わかってるってのよ。……実はさ、おすみは亭主と縁付くまで、なんと品川だか千住だかの宿しゅくで夜な夜な客を引いてたんだってよ」

   五街道からそれぞれ江戸に入る際の一番初めの宿場町である、品川宿(東海道)・内藤新宿(甲州道中)・板橋宿(中山道)・千住宿(日光道中・奥州道中)には、春をひさぐ「岡場所」が設けられている。されど、御公儀(江戸幕府)からお墨付きをもらっている吉原とは異なり、正式な遊里(遊郭)ではない。

「ええっ、おすみの亭主は御武家だった男だろ。なのに、そないな卑しいおなごを女房にしたってのかい」
「御武家っってもさ、お故郷くにをおん出て江戸にやってきたっう田舎侍なら、おすみみてぇなおなごにっかかるのもしょうがあんめぇ」
「ちょ、ちょっと、もうしなって」
   隣の女房がぐいっと肩を掴んだ。
「なんだよ、濡れた手で触んじゃないよ。それに、あんただって先刻さっき……」
   いきなり掴まれた方はキッと睨むが、次の刹那押し黙らざるをえなくなった。

   女房連中がめいめい好き勝手にくっちゃべりながら洗い物をしている井戸端に、いつの間にか丑丸が近づいてきていたのだ。
   おすみに置き去りにされた倅で、まだよわい八つの子どもだ。

   女房たちは気まずげに顔をしかめたが、すぐに気を持ち直した。
「あっ、そりゃあ汚れ物かい。精が出るやねぇ」
「こっちに寄越しな。うちの子のと一緒に洗ってやるよ」
「そうしなよ。向こうで裏店の餓鬼がきどもが遊んでっからよ、あんたも混ぜてもらいな」

   されども、声をかけてきた女房たちには見向きもせず、丑丸は持ってきたたらいを地べたに置くと、井戸の台板を半分だけ外し釣瓶つるべをするするする…と水の中へ落とした。
   釣瓶で水を汲むと、今度はずるっずるっ…と引き上げる。それから盥の中へ釣瓶の水を張り、しゃがみ込んだかと思えば洗濯板でごしごしと汚れ物を洗い始めた。

「……ほら、ぬかだよ。使いな」
   一人の女房が丑丸に差し出す。おいくと云う名のまだ歳若いおなごで、背中に赤子を負ぶって隅の方で洗い物をしていた。
   おいくは亭主や子のため裏店内で肩身の狭い思いをするのは御免こうむりたかったゆえ、井戸端での浮世話に耳を傾けはすれども、おのれからはあまり話さぬようにしていた。

  さすれども、さようなおいく・・・にも丑丸は洗濯板から目を移すことはなかった。

「力任せに擦ったってさ、井戸の水だけじゃあ汚れは落ちねぇんだ。れどころかいたずらに布を痛めちまって寿命を縮めるだけだよ」  
   丑丸はパッとおもてを上げた。米糠に含まれる油分に汚れが引き寄せられるなんて知るよしもない。そもそもうちにあっただろうか。
「糠がなけりゃ灰汁あくでも米の研ぎ汁でも構わねぇよ」
   おいくは丑丸の手を取って、糠を入れた小袋を握らせた。その手はまだ小さい。

「ねぇ、だれか寸足らずになって着なくなっちまった子の着物ないかえ」
   おいくが女房連中に向かって訊いた。着たきり雀の着物を洗っている丑丸は今、下帯一つのほぼ裸だった。
「あいよ、ちょっくら帰って取ってきてやるよ」
   一人の女房が申し出て家へ戻ろうと振り返ったそのとき——

「あぁ、丑丸……こないなところにいたのか」
   井戸は裏店の入り口から一番奥まった場処ゆえ滅多に来ない者が姿を現した。
「おめぇんとこの表の油障子を何度叩いても出てこなかったから、どうしちまったかと案じてたところさ」 
   裏店の家守である茂三だった。

   女房連中からどよめきが起こる。丑丸は弾かれたように立ち上がった。

「厄介なことになってな。此処ここまで出張ってきたってわけさ。そういや、前んときからもう六年経っちまってたな……」
   『六年』と聞いて、おいくが尋ねた。
「家守さん、もしかすっと……『人別帳』のお改めのことでないかえ」
   茂三が渋い顔をして肯いた。

しおりを挟む
感想 15

あなたにおすすめの小説

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

日本が危機に?第二次日露戦争

歴史・時代
2023年2月24日ロシアのウクライナ侵攻の開始から一年たった。その日ロシアの極東地域で大きな動きがあった。それはロシア海軍太平洋艦隊が黒海艦隊の援助のために主力を引き連れてウラジオストクを離れた。それと同時に日本とアメリカを牽制する為にロシアは3つの種類の新しい極超音速ミサイルの発射実験を行った。そこで事故が起きた。それはこの事故によって発生した戦争の物語である。ただし3発も間違えた方向に飛ぶのは故意だと思われた。実際には事故だったがそもそも飛ばす場所をセッティングした将校は日本に向けて飛ばすようにセッティングをわざとしていた。これは太平洋艦隊の司令官の命令だ。司令官は黒海艦隊を支援するのが不服でこれを企んだのだ。ただ実際に戦争をするとは考えていなかったし過激な思想を持っていた為普通に海の上を進んでいた。 なろう、カクヨムでも連載しています。

とある男の包〇治療体験記

moz34
エッセイ・ノンフィクション
手術の体験記

小日本帝国

ypaaaaaaa
歴史・時代
日露戦争で判定勝ちを得た日本は韓国などを併合することなく独立させ経済的な植民地とした。これは直接的な併合を主張した大日本主義の対局であるから小日本主義と呼称された。 大日本帝国ならぬ小日本帝国はこうして経済を盤石としてさらなる高みを目指していく… 戦線拡大が甚だしいですが、何卒!

処理中です...