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第三部「運命(さだめ)の愛」
第四話
夕餉は終えたという兵部少輔を座敷に通したあと、初音は茶を供しながら尋ねた。
「勝手なことをなされて……今頃、御屋敷では大騒ぎになってござらぬか」
「今日はそれどころではないからな。だれにも気づかれぬままに出てこられて良うござった」
兵部少輔は茶を受け取りながら、悪びれもせずに答えた。
「ご自分のお子がお生まれになるというときなのに……」
初音は呆れてしまった。
——鍋二郎さまはお子がお生まれになるのが、楽しみではないのか。あれだけ、長いこと待たれたはずのお子なのに。
「……初音」
兵部少輔が初音をじっと見て、問うた。
「おまえは……なにゆえに嫁にいかぬのだ」
「……鍋二郎さまには、関わりのないことでござりまする」
初音は顔を曇らせて俯いた。
「もう、二十二であろう」
兵部少輔とはちょうど十歳違った。おなごの二十二は立派な嫁き遅れだ。
「初音」
そう自分を呼ぶ声が、なにやら近いな、と思って顔を上げると、いつの間にか目の前に兵部少輔がいた。
「な…鍋二郎さま?」
兵部少輔は初音を抱き寄せて、すっぽりと自分の腕の中に入れた。
「な…なにをなされまするっ。お放しくだされっ」
初音は兵部少輔の腕の中でもがいた。
しかし、幼き頃より剣術で鍛えた身体はびくともしない。それどころか、抱きしめる腕の力がますます強くなる。
「……もう、我慢がならぬ。あれほど情の通わぬ女を『奥』とは呼びとうない」
兵部少輔の声は震えていた。初音は顔を上げた。
「……頼む、初音……おれの側室になって、屋敷に入ってくれ……おれの支えになってくれ……」
見上げた兵部少輔の瞳は揺れていた。
初音はその瞳を見つめ返す。
兵部少輔はゆっくりと、初音を三畳ほどの小上がりの、畳の上に沈めた。
「あの頃、たまの部屋へよく様子を見に参ったのは、たまを見るためでない……初音、おまえの顔を見とうなったから……おまえに逢いとうなったから参っておったのだ」
兵部少輔は妹の碧姫を「たま」と呼んでいた。
初音の両頬を、兵部少輔は両手のひらで包んだ。
「あの頃のおれは、おまえが早く一人前のおなごに育つのを、心待ちにしておった」
初音はしきりに顔を背けようとするが、両頬にある兵部少輔の手のひらが、それを許すわけがなかった。
「だが……おれには決められた相手がおるゆえ、おまえを側室にしかできぬ……おまえが早く他家へ嫁入りさえすれば、忘れられたかもしれぬのに、おまえは一向に嫁ぐ気配がない」
兵部少輔は、苦しげに呟くと共に、初音に引き寄せられるように近づいていく。
そして、とうとう、二人のくちびるが合わさった。
兵部少輔は合わさったくちびるを重ねるだけではなく、しだいに強く深く吸っていく。
「ん……ぅんっ」
すると、それまでの初音の強張りが瞬く間にほどけて、思わず甘い吐息が漏れでた。
少し驚いた兵部少輔が、くちびるを離して初音を見る。
初音の方が自分の思わず漏れ出た声に、もっと驚いていた。顔じゅう真っ赤に染まっている。知らず識らずのうちに、息も上がっていた。
「もう、我慢はせぬからな、初音。……今から、おまえをもらうぞ」
兵部少輔も荒い息になっていた。
初音が嫁にいかぬ本当の理由は、父親のためではなかった。
「幼き頃より初音には……鍋二郎さましか見えておりませぬ」
初めて明かした、初音の心の声であった。
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