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イケメン皇太子には興味ありません
しおりを挟む今日も何気ない一日が始まった。
梦瑶(むよう)妃付きの後宮女官である呉香月(ごこうげつ)は、桔梗殿の中庭をいつものように掃除していた。この広い中庭は梦瑶妃の趣味の為に植木によって簡単な迷路のような造りになっていたが、香月は勝手知ったる顔で掃き掃除を進める。もう仕えて一年、ほぼ毎朝この迷路を手入れしているのだから、そうなるのも当然ではある。
「香月!香月はどこ?」
行き止まりの隅に溜まった枯葉と格闘していると、自身を呼ぶ声が殿から聞こえて香月は顔を上げた。
「はい!今参ります!」
迷うことない足取りで迷路を抜け出ると、そこには主である梦瑶が頬を染めてキョロキョロしていた。
「姫様、どうされました?」
「あっ香月、聞いてよ!」
近寄ると梦瑶は興奮の面持ちで詰め寄る。
「今日、太子様が桔梗殿に来られるそうなの!」
まだ背の低い梦瑶は、その小さな身体を何度も弾ませとても嬉しそうである。
「姫、はしたないですからおやめください」
――梦瑶の後ろに侍っていた教育係兼、桔梗殿最高位女官である水晶が嗜めるが、梦瑶の興奮は治まる気配がない。
「だって水晶、あの太耀さまがこの殿にって、もう一大事よ!?」
「ええ、そうですね。だから香月を急ぎ探していたのでしょう」
香月が仕えるこの姫は、まだ齢十一にして現皇帝の妃としてこの後宮に入内しているのだが、そこには政略的な諸々があるせいか未だに皇帝の通いはない。
しかしそんな状況でも、梦瑶は特に気にする様子もなかった。ただ女官達がハラハラしているだけである。
「本当、太耀さまのご尊顔を近くで見れちゃうなんて…どうしよう!」
しかも本人はこんな感じで、皇帝の妃でありながら皇太子にベタ惚れだったりするのである。
「姫さま、良かったですね」
香月も水晶も慣れているため、そんな姫の様子を見て苦笑するに留める。これが後宮管理官に見られた暁には水晶がチクチク説教を食らってしまうのだが、結局女官達は主には甘いのである。
「ええ、だから香月、お願い!」
梦瑶は可愛らしいくりくりした瞳を香月に向ける。なるほど、そういう事かと得心した香月は、
「わかりました、箒置いてきますね」
と言い置き、掃除道具置き場に駆け足で向かっていった。
香月が梦瑶の私室に入ると、姫はもう準備万端で椅子に腰掛けていた。
「姫さま、今日は何の花にいたしますか?」
化粧箱を開けながら問うと、既に決めていたらしい姫は得意げに答える。
「勿忘草がいいわ」
「勿忘草ですか。青いお召し物は、姫さまにしては珍しいですね」
「だって久しぶりにお会いするのだもの、いつもと違うわたくしを見てもらいたいじゃない?」
十一歳とは思えぬその妃らしい逞しさに、香月はふ、と笑みをこぼす。
「私を忘れないで…そんないじらしい姫さまに太子さまもぐっとくるでしょうね」
「やっぱり!?そうなっちゃうかしら!?」
そんな会話をしながらも、香月はその手で梦瑶に化粧を施していく。
四半刻後、化粧も着替えも結髪も全て終えた梦瑶の姿を確認し、香月はにっこりと満足げに頷いた。
「梦瑶さま、大変お綺麗ですよ」
完成の頃合を見計らって部屋に入ってきた水晶も、嬉しそうに姫に声をかける。
「本当、姫さまの可愛らしさと清廉さがより引き立っているわ。さすが香月、素晴らしい化粧師ね」
「いえ、姫さまご自身の持つ美しさがあるからですよ」
そう、香月は珍しい化粧師であった。ひょんなことから、梦瑶にその類まれなる腕を見込まれ宮仕えとなったのである。
「でも、こんな素晴らしい技術があるのに、どうして香月はそんなに地味を装ってるの?」
前々から不思議だったのよ、そう主人に問われ、香月は苦笑いだけを返す。
後宮には、皇帝や皇太子の『お手つき』を狙って参内する女官や宮女も多い。その為休み時間は、流行りの髪飾りや紅の話で盛り上がることがほとんどだ。
しかし香月自身がその輪に入ることはない。おそらく桔梗殿以外の宮女たちは、香月が化粧師であることを知らないだろうし、香月自身も知られないように気をつけていた。
「宮女にも色々あるんですよ」
香月の苦笑に梦瑶は小首をかしげ、水晶はなんとなく察しているのか同じく苦笑を漏らす。
「さぁ姫さま、今は香月のことより、太耀さまですよ!そろそろいらっしゃるのでは?」
「はっ!そうだわ!お迎えにあがらないと!」
機転を利かせた水晶のひと言で、姫は意識を太子へ向けた。
「慌てて転ばないようにしてくださいね」
少しからかいの含んだ声でそう香月が言うと、十一歳の少女はその歳らしく頬を膨らませる。
「わかってるわよぉ」
しかし部屋を出るとその表情は一転して『妃』のものへと変わり、堂々とした振る舞いで廊下を進むもんだから、香月は「さすがだな」と感心するしかない。元々の妃の素質があってこそ、化粧や衣裳は映えるのである。その凛とした後ろ姿に、今日もうまくいってよかったと香月はほっと胸を撫で下ろした。
さて、急な用も終えたことだし、通常業務に戻ろうかと踵を返そうとして、
「あら、どこ行くの香月」
その主の声に引き止められた。
「え、庭の掃除の続きを…」
「やだ、そんなのいいわよ!香月も一緒に参りましょう」
「私もですか!?」
主人の思わぬ声掛けに、咄嗟に水晶を見るが、賛成か反対かも分からない表情を返されどうして良いか分からない。
「いいじゃない、香月もせっかくだし太耀さまにお目にかかりましょ」
「いえ、私なんかは…」
「なんかじゃないわ!」
固辞しようとするが、梦瑶にピシャリと言われて言葉を無くす。
「香月は自慢の女官なの、ぜひ紹介したいわ」
その瞳の色からは本心だと言うことが見て取れる。だからこそ断りづらく、香月は閉口した。
「それに、太耀さまは本当にお美しいのよ!見て損はないわ!」
「姫さま、声が大きい!」
相変わらずの面食い発言に、思わず水晶が嗜める。
香月はどうしたもんかと思案し、数瞬ののち、柔らかく断り文句を述べた。
「とても光栄ですが、遠慮しておきますね。私、いくら美麗であっても歳下の皇太子には興味ないので」
すると、あまり納得がいかないような表情をしている梦瑶の後ろから、この場に似つかわしくない男性の笑い声が聞こえてきた。
「ははは!俊煕(しゅんき)、聞いたか?俺に興味ないんだって!」
「殿下、何故そこで笑えるのかが私にはわかりません」
驚いて後ろを振り返った梦瑶が、廊下の先から現れた声の主を捉えて叫ぶ。
「太耀さま!」
梦瑶越しに香月もその姿を目視し、慌てて平伏した水晶に倣って膝をつく。
「梦瑶妃、しばらくぶりだね」
皇太子は怒った風もなく、梦瑶と会話をしているが、正直言ってさっきの香月は完全なる失言である。この国の皇太子捕まえて興味無いなど、首と胴がさよならすることだって有り得るのだ。
さすがにやばい気がして掲げた腕からそっと皇太子を伺ってみると、ただただ和気藹々といった雰囲気の太耀と梦瑶が居るだけである。
え、本当に気にしてない…?
チラリと斜め前に居る水晶を覗き見るが、いつも以上に頭を深々と下げていて全く表情が読めない。生死がかかっている(かもしれない)香月は、これからどうすべきか助言を乞いたいのに出来ない不安で視線を泳がせる。
そしてもう一度皇太子の様子を見ようとして…その後ろに控える宦官と目が合った。
「!」
めっちゃ、見てる。
ものすごい形相で、こっちを見てる。
香月はガバッと勢いよく頭を下げた。
俊煕と呼ばれていた。つまり彼は皇太子の右腕と呼ばれる官吏である、はずである。科挙を最年少九歳で突破した逸材で、それから十年以上経った今もその記録は破られていない…という噂は、後宮歴の浅い香月ですら耳にしたことがある。
がしかし、まさか皇太子の右腕である優秀な官吏が、宦官だったとは。
後宮に常駐している宦官は、皆なよっとしていて頼りない印象だが、俊煕は違ったように思う。皇太子ほどではないが女官受けしそうな整った顔立ちで、賢そうな雰囲気もある。宦官で無ければ言い寄る女官も多かっただろうに。
そんな無意味な憐れみをこっそり香月が浮かべているとは露知らず、件の宦官は太耀と梦瑶の歓談に口を挟んだ。
「殿下、とりあえず中へ」
「ああ、そうだな。梦瑶妃、座って話をしようか」
「まあわたくしったら!太耀さまとのお話が楽しくって、ごめんなさい!」
応接用の部屋へと足を向けた梦瑶に付いていくべく、水晶が急いで立ち上がった。香月もどうして良いかわからないため同様に立ち上がる。振り返った水晶と目を合わせると、あからさまにほっと一息ついた表情だとわかり、思った以上に自身がやばかったんだなと改めて実感した。
持ち場に戻って良いという意味だろう、水晶が首を静かに横に振ったのを見て、これ幸いと香月は頷き、踵を返そうとしたが…
「そこの、女官」
堅い、高圧的な声で、引き止められた。
「お前も来い」
振り返ると、俊煕が鋭い視線をこちらに送ってきていた。
「えっ」
チラリと水晶を見ると顔を真っ青にして俊煕を見ている。え、やばいやつ?やばいやつなの、これ?
ただひとり梦瑶だけが、この空気を無視するかのように鈴のような声をあげた。
「まぁ!ぜひそうしましょ!香月、こちらに」
主人にも手招きされればもう逃げる術はない。
俊煕の射るような視線に晒されながら、香月(と水晶)は死刑宣告のような気持ちで梦瑶たちの後をついて行くのだった。
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