後宮化粧師は引く手あまた

七森陽

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もしかしてそれ、無意識だったの?

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「俊熙~、いよいよ梦瑶妃から呼び出しっぽいよ~郎官が慌てて書面持ってきた」
「…そうか」
 流石に水晶も、ここまで来ては主に隠し立て出来なかったらしい。ここで彼女を責めるのはお門違いだ。
「わかった、桔梗殿に行こう。磊飛、ここ頼めるか」
「はいよー」
「雲嵐は太耀様を頼む」
「ほいほい」
 俊熙は持っていた調査書類を磊飛へ手渡し、ばさりと韓服の裾を翻した。向かうは桔梗殿の梦瑶妃の元である。

 ――呉香月が姿を消した。
 郎官からの報告では、まだ夕食が終わったくらいの早い頃合に、東宮へ『紫丁香』が現れたと言う。
 殿下に呼び出されたそうだが、もちろん太耀も俊熙もそんなことはしていない。
 報告があった時は刺客による変装かと思ったが、その時ちょうど郎官の交代の時間で、運良く代わったのが実際七日前に『紫丁香』を通した郎官だった。念の為その郎官の経歴を洗い直したが不審なところはなく、何なら太耀派と言われる楚家の一族だったので信頼は出来た。
 その郎官が、あれは七日前に通した者と同一人物だと言っているのだ。十中八九、呉香月本人だろうと思われた。
 しかしその姿は、郎官が門を通してから誰からも目撃されていない。
 報告を受けてすぐさま雲嵐に探させたが、東宮の何処にもいなかったのである。
 本当に呉香月が来たのであれば、きっと何か火急の用件があって俊熙に会いにきた筈である。何もせず帰殿するとは考えられない。
 夜も深い時間であるが磊飛も叩き起し、周辺の調査を進めていたところの――梦瑶妃からの呼び出しである。
「さて…どうするか」
 暗い廊下を早足で進みながら、俊熙は独りごちる。
 東宮を出て桔梗殿の入口まで向かう道すがら、当たり前だが郎官以外とは誰もすれ違わない。皆寝静まっているのだ。
 ふと見上げると、今夜は満月だった。足元の影は濃くはっきりと浮かび上がり、まるで隠しているすべてを見透かすようだ。自分の利己主義が善良な女官を巻き込んでしまっている事実に、改めて自己嫌悪のため息が漏れる。
 ――だが、もう後戻りは出来ないのだ。
 桔梗殿に着くと、そのまま貴賓室へと向かい、何処よりも重厚な扉の前でひと息つくと三度戸を叩く。
 すぐにその扉が開かれ、顔を出したのは強ばった表情の水晶だった。
「…姫さま、太子少傅殿がお見えです」
「通してちょうだい」
 部屋に入ると、長椅子に座る梦瑶の鋭い視線が俊熙を突き刺した。
「夜分にごめんなさいね、俊熙さま」
「いえ、構いません梦瑶妃」
「…まぁ、そうですわよね、こうなったからには」
 その棘のある言葉で、やはり梦瑶妃が水晶からある程度話は聞いていること、そして呉香月は桔梗殿からも姿を消したのだということが否応なしにわかった。
 勧められるまま、梦瑶の向かいに腰を下ろす。
「わたくしの香月は何処かしら」
「……今、調査中です」
「そちらでも行方がわからないと?」
「ええ」
「……今日、香月は淑妃さまのところへお邪魔していたと聞いたわ。それからの消息はわかっていないんですの?」
 水晶をちらりと見遣ると、小さく首を振る。おそらく水晶の方でも蝋梅殿に探りを入れてみたのだろうが、何も掴めなかったらしい。
「…三点、郎官からの報告があります」
 俊熙が指を三本立ててそう切り出すと、それまで詰めるように言葉を発していた梦瑶が口を噤む。
「ひとつが夕食時、後宮の正門で桔梗殿の女官と話をしたというもの」
 梦瑶も水晶も口を挟む気配は無く、目で続きを促してくるので俊熙はそのまま話を続けた。
「ふたつめが同じく夕食時、東宮門で、私に取り次いで欲しいと嘆願してきた桔梗殿の女官がいた、というもの。そして最後が――」
 ここから先は水晶にももちろん伝えていないことだから、少しだけ俊熙も言い淀む。
 何せ殿下の手解き役として色々頼んでいることなど、きっと香月は梦瑶に知られたく無いことのはずだ。なるべく手解き役とは説明しないでおきたいが、噂が広まればいつかは知られてしまうだろう。
 心の中で何度目かの謝罪を香月にしてから、意を決して俊熙は最後の証言を口にした。
「ふたつめの証言時間から半刻後、同じく東宮門で『紫丁香』を通した、というもの」
「……紫丁香?」
「どなたです、それは」
「…私から依頼をして変装をしてもらっている、呉香月のもうひとつの姿です」
 流石にまだ太耀殿下の手解き役の噂は、後宮内には流れていないらしい。こういった類の話は箝口令を敷いていたって勝手に広まるものだから、いつかここにも辿り着くだろうけれど。
「まぁつまり、呉香月の動きはこうです。まず蝋梅殿を出てから、ある理由で後宮正門まで行く。そこで何かあったのか、そのままの足で私に会いに東宮まで行ったがただの後宮女官ではもちろん通して貰えない。そこで一度通された経験のある『紫丁香』の姿になって再び東宮を訪れた。――そして門を通ってから、姿を消した」
「……つまり香月は、東宮内に入れたのにも関わらず、何処に行ったかわからなくなったということ…?」
 そんな馬鹿なというような表情で、梦瑶はそう漏らす。それはそうだろう、警備のしっかりされた東宮で、人がひとり消えるなんてこと、考えられるはずもない。
「…もしかして香月、自分から?」
「いえ、それは無いでしょう」
 水晶が恐る恐る言った言葉を、俊熙はすぐに打ち消した。
 呉香月が自ら姿を消すなど、利点は何処にもない。何なら彼女は梦瑶妃の傍に仕えていることこそが今の最上の幸せと言っていたのである。そんな彼女が、何も言わず梦瑶に心配や迷惑をかける行動をするとは思えない。
「何せ呉香月は、梦瑶妃至上主義のようですからね」
 俊熙が苦笑すると、梦瑶は驚いた顔をした。
「…? そんなに驚くことですか?」
 なぜ驚かれたか分からず、俊熙は問う。呉香月の梦瑶妃好きは今に始まったことではない。
 しかし梦瑶は一瞬止まったあと、ふふふと意味深長に笑いを零した。
「いえ…今驚いたのは、俊熙さまの表情に、ですわよ」
「え?私?」
「ええ、なんだか…優しい顔をしてらしたから」
「…はい?」
 優しい顔だなんて生まれてこの方一度も言われたことがないため、今度は俊熙の方が驚く番である。
「そんなことはないかと…」
「まぁ、お噂通り真面目な方なのね、俊熙さまって」
 未だクスクス笑う梦瑶に話の腰を折られたが、今は自分が優しいか優しくないかを議論している場合ではない。
 オホン、とひとつ咳払いをして、俊熙は話を元に戻した。
「そこで梦瑶妃、水晶殿。ひとつお聞きしたいことがあるのですが」
 空気を読んで笑いを収めた梦瑶に、俊熙は言葉を続ける。
「はじめの証言で、呉香月が後宮正門に現れたとあったのですが、郎官によると、どうやらある宮女を追っていたようなのです」
「宮女を?」
「ええ」
 俊熙は先程執務室で手にしていた調査報告書類の内容を思い出す。俊熙からも、彼女らに聞きたいことはあったのだ。
「梦瑶妃、水晶殿。どちらか、宮女に外出許可を出した覚えはありますか?」
「外出許可…?」
「いいえ、ここ最近は誰からも希望はあがってきておりませんが」
「…わたくしも、何も聞いていないわ。そういうことは全部水晶に任せてしまっていて」
「なるほど」
 そう、正門を張っていた郎官によると、桔梗殿の許可印を持った宮女を門から通したあとその女を追って桔梗殿の女官が来た、という事だったのである。
 宮女が桔梗殿の印を持っていたと話すと、女官は血相を変えて来た道を戻って行ったらしい。
 つまり、呉香月はその宮女に何か異変を感じていたということ。
 もしこれが本当に知り合いの宮女で、例えば駆け落ちなどを心配したという話であれば、その後東宮に俊熙を訪ねてくるはずはない。きっと水晶の元に行くはずだ。
 つまり、急ぎ俊熙に報告すべき事――あの毒を盛った宮女を見つけた――という事だったのではないだろうか。
 香月の動きが少し見えたと同時に、例の宮女を手助けした者が後宮に確実にいるということも把握出来た。――もしかするとそれが、桔梗殿の者かもしれないということも。
「わかりました、私から聞きたいことは以上です。今は一刻も早く、呉香月の消息を掴まねば」
「え、ええ、そうね」
「我々も鋭意情報収集を進めます。梦瑶妃、水晶殿、何かあればすぐに遣いを寄越してください」
「わかったわ」
「御意に」
 まだこれが継嗣問題絡みの事件なのかもわからない状態のため、これ以上ここで得られることもない。俊熙は立ち上がると、一礼して扉へと向かう。
「っ俊熙さま!」
 扉から出る直前、梦瑶妃に呼び止められて振り返る。
 そこにはとにかく香月の身を案じている、心優しい少女がいた。
「…香月を…はやく見つけてあげて…」
「……最善を尽くします」
 それだけ答えて、俊熙は部屋を後にした。


 東宮に戻ると、俊熙の執務室には後を頼んだ磊飛と、雲嵐、そして太耀の姿もあった。
「殿下!どうしてここに」
「そりゃ雲嵐から話聞いちゃったら、気になって来ちゃうでしょ」
「おい雲嵐」
「だぁって太耀さまに張ってるのバレちゃったんだもん~」
「それでも隠密かよってンだ」
「うっさいなぁ~磊飛は」
 呑気に磊飛と雲嵐が小競り合いを始めるが、それを無視して俊熙は太耀の背を押す。
「殿下、夜も遅いですから寝所にお戻りください」
「えっなんで俺だけ仲間はずれなの?」
「いや仲間はずれとかそういう話では」
「だって心配じゃん、香月ちゃん」
「まぁそれはそうですが、だからと言って貴方が身体を張る必要はないでしょう」
 ぐいぐいと扉の方へ向かわせようとする俊熙と、いやだいやだと留まろうとする太耀の攻防である。と言っても元々の筋力から、ズルズルと扉の方へ押されて行く太耀の身体は止まらない。
「あと、俺は俊熙のことも心配なんだよ!」
「…私?」
 思わぬ言葉に俊熙の腕から力が抜ける。これ幸いと、その隙をついて太耀は執務机の奥側へひらりと逃げ込んだ。
「あっ」
「だって俊熙、好きな子二回も危ない目に合わせちゃって、かなり落ち込んでるんじゃないかなってさぁ!」
 その台詞に、ダラダラと言い合いをしていた磊飛と雲嵐の言葉もピタリと止まる。
「…はっ?」
「え、好きな子?」
「マジ?」
 俊熙の間の抜けた声と、磊飛と雲嵐の驚きが重なる。
「…殿下?何を…」
 意味不明とばかりに俊熙が声を低くすると、磊飛と雲嵐の尋問が太耀へ集中した。
「なんでなんで!?」
「それは確かな話なのか!?」
「えっだって俊熙、香月ちゃんにあげた名前がその通りじゃん」
「名前?」
「…ってェとあの、手解き役の?」
「そう、『紫丁香』」
「???」
 俊熙は繰り出される謎の理論に、疑問符が止まらない。
「えっ!だって俊熙、あの名前指定する前の日、俺と話してたじゃん。西洋の花言葉の書物が面白かったって」
「花言葉?……てなに?」
「さぁ知らねェな」
 そういえば、確かに最近流行っているという話を聞いて、書物を読んだ記憶はある。花にはすべて花言葉というものがあって、それぞれの色や種類によって想いを込めているのだとか。
 ある種のまじないみたいなもので、その発想が面白いなと確かに太耀にポロリと漏らしてはいたが――。
「紫丁香って、西洋の花でしょ?花言葉教えてくれたじゃん、何だっけ?」
 そう、西洋の言葉でライラックとか言うんだったか。紫色の紫丁香の花言葉は確か――
「恋の…芽生え、初恋」
「ッぶわははははは!!!!」
「マジーー!?」
 磊飛と雲嵐に盛大に爆笑されて、自分の無意識の選択に一気に羞恥心が集まる。
「いや違う!そんなつもりは一切ない!」
「なに、もしかしてそれ、無意識だったの?」
「だから殿下違います!そんなつもりでは」
「ギャハハハハまじかよ俊熙、やるねェ!」
「初恋だって~!だっさ~!!」
 本当にそんなつもりは一切無かったのに、無駄に恥を晒されて俊熙は居てもたっても居られなくなる。
「おい!今はそんな場合ではないだろう!?」
「いやそーなんだけどさァ!」
「マジ面白すぎるわ俊熙ィ~」
 夜が明けるまでには何かひとつでも香月の手がかりを見つけたい。それは本当に、善良な女官を巻き込んでしまったことへの罪悪感からでしかないのだが、今それを言うと全く違う意味に捉えられそうで何も言えない。
「クソ!まともな奴はいねぇのかよ!」
「アハハ、俊熙素が出てら!」
「いいぞいいぞ俊熙ィもっと熱く行こうぜ!」
「うるさい!」
 何とかこの場を収めて、早く調査に取り掛からねば。
 ふと呉香月の顔が脳裏に浮かんで、俊熙はやり場のない羞恥を首を振って追い払った。


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