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あの時捨てた筈だったのにどうして
しおりを挟むおそらく朝だ。
香月は瞼の向こうから鋭く差してくる朝日に気づき、うっすらと目を開けた。
数刻前に孟が言っていた通り、気温は上がり蒸し暑い。汗で少しベタベタする腕を撫でながら、香月は長椅子から起き上がった。
「湯浴みしたいなあ」
この状況に全くそぐわない、呑気な声が口から漏れた。
昨晩は結局、たいした情報も得られないまま孟も豪宇も部屋から出て行き、外からしっかりと錠を掛けられてしまった。
こんな危険で得体の知れない場所で寝られる筈は無いと思っていたのだが、気がついたら意識を失うように眠りについていたらしい。
もうすっかり陽は昇っていて、いつもなら朝の掃除が始まっている時間である。きっと水晶を始め桔梗殿の女官には、香月の不在は気づかれていて何かしらの手は打たれている…筈である。
それか、(東宮の郎官が双方とも悪人と通じている説は無いと仮定すれば)おそらく『紫丁香』が東宮に現れたことは俊熙に伝わっているはずだろうから、そこでも何か動いてくれている…筈である。
…筈、としか言えないくらいには、状況は何も掴めていないのが辛いところだ。
さてどうしたものかと思案していると、扉の向こうから数人の声が聞こえてくる。
「……子豪だわ」
きっと死ぬまで忘れないだろう男の声が、一際大きく聞こえる。条件反射で動悸がしてくるのだから、身体は正直だ。
錠前が外れる音がして、ギィィと扉が開かれた。
案の定そこに居たのは鷹のような目をした大男だった。
「オイ香月、……何だよもう起きてンのかよ」
「……」
「ったく、お目覚めの接吻でもしてやろーかと思ったのによ」
「は?」
何をおぞましいことを言っているのだコイツは。
想像して悪寒が走ったが、そんな香月の様子は気にもせずに、子豪はドカドカと近寄ってくる。
「とりあえず風呂用意したから、湯浴みして来い」
「っちょ、きゃ!」
豪快に香月の腕は引っ張られ、その勢いのまま身体を抱えあげられた。まるで米俵を肩に担ぐようにされて、香月は思わず身動ぎする。
「ちょっと離してよっ、自分で歩くわ!」
「ピーピーうっせェっつーの、黙って運ばれてろ」
香月が少し暴れたくらいでは大男にとっては屁でもないらしい。
過去の色々を思い出して無駄だと悟った香月は、すぐに抵抗するのを諦めた。
「そうそう、はじめっから従順にしとけってこった」
部屋を出て右に行くとすぐに建物の出口だったらしく、進行方向とは反対を向いている香月の目には立派な屋敷の離れのような建物が映った。窓枠は少し古いが確かにきちんとした装飾があったことを思い出す。
気になって子豪の肩に手をかけ、ぐいと身体を起こして後ろを振り返る。
「え」
「おい暴れんな」
咎められるが、そんな言葉は耳に入らないくらいに香月は驚いていた。
子豪が向かっている先には、東宮と同じくらいの、いや何なら東宮よりも大きいかもしれない程の、豪邸がそびえていたのである。
「ちょっと…ここ…何処なのよ…」
こんな豪邸は、確か都には無かったはずである。
「何処って…姜の家に決まってンだろが」
「えっ!?姜の家って…」
驚くのも無理はない、香月の知る姜家の屋敷は、こんなに大きくはなかったのだ。と言ってもそれは二年前の記憶であるのだが。
「ああそうか、呉が没落してからは会ってねェもんなァ」
そう、二年前に呉家が落ちぶれてからは、香月に姜家の情報は一切入って来ていないのだ。
「……ねぇ、もしかして秀英さんも…」
「んァ?兄貴?兄貴ならいねェよ、『隣』行ってる」
恐る恐る香月が尋ねると、子豪はあっけらかんとそう答えて思わずホッとする。
「つぅかよ、ずっと気になってンだが、なんで兄貴には『さん』で、俺ンこたァ呼び捨てなんだよ?俺もお前より歳上だろうが」
「え」
香月も無意識だったことを突然突っ込まれて、『隣』ってもしかして隣国の冬胡国のことだろうかなどと考えていた思考が止まる。
「俺ンことも敬えよなァ」
「…そんなこと言われても」
確かに秀英は香月の三つ歳上で子豪も一つ歳上であるが、もはや昔から定着しているので今更変えるのも難しい。それに、理由はおそらく幼少期に秀英の呼び方を真似していたせいだと思われるため、敬う敬わない等は関係なく、もうどうしようもない。
姜家は伝統ある商家の一族で、秀英は幼い頃から経営学や経済学を学んでいた。
所謂お家同士の色々で、香月はほぼ産まれた時から秀英の許嫁であったが、それとは関係なしに真面目で勤勉な秀英の事をただただ尊敬していた。大変優秀な兄と粗忽者の弟はいつも比べられていたのだが、別にそれが理由で子豪を呼び捨てにしている訳では無い。
「別に子豪を軽んじてる訳じゃないわ」
担がれたまま豪邸に入ってしまったが、どうすることも出来ないのでなすがままにされている。湯浴み出来るならそれはそれで有難いし、かなり因縁があるとは言え知らない仲では無い。どうしようも無いのだから足掻くより大人しくして油断させた方が得策である。
「ま、どーでもいいけどよ」
フンと鼻を鳴らしながらドカドカ歩く子豪に、香月はそろりと兄の事を聞いてみる。
「ねぇ、『隣』って、冬胡国(トウコこく)のこと?」
「あ?…あー、まぁそうだな」
少し歯切れが悪いのが気になるが、まぁ嘘では無いだろう。
二年前、香月が知る限りでは姜家はここまで栄えていなかった。こんな豪邸を構えるまでとなると、この二年で相当な利益があった筈である。
もし、それと冬胡国が関係しているとなると――かなり、厄介な話かもしれない。
香月は、今は長考して子豪に怪しまれる訳にはいかないと一旦話題を切り替えることにした。
「それはそうと子豪、ここは都じゃないわよね?こんな大きな土地、都に余ってなんかないもの」
「んあーそうだな。…何処かは教えるわけねェけどな」
「…わかってるわよ。どうせ私を拉致した理由も、教えてくれないんでしょ」
その問いには、子豪はハンと鼻で笑っただけで返答は無かったが、それが肯定の合図ということはわかる。
返事の代わりに、子豪はようやく香月を床へと降ろした。
「ほら、風呂入れ」
浴室に到着したらしい。
拉致した割にはきちんと本邸の浴室に入れてくれるのだから、おそらく物理的な酷い目に合わせるつもりは無いらしい。もっとも、『使えそうな女』らしいので何かに利用する気は満々だろうが。
興味無さそうに去っていく子豪の背中をちらりと見てから、香月は使用人の手伝いを固辞して浴室へ入った。
誰も見ていないことを確認して、香月は顎に手を当てて思案する。
これ程までに姜家が大きくなった理由のひとつに、おそらく冬胡国が絡んでいるはずだ。
隣国である冬胡は、歴史的に見て気の遠くなるほど長い間、この夏蕾国と敵対関係にあった。前皇帝の顕威帝が即位した時、一旦の同盟を結び冷戦状態となってはいたが、それでも両国の間にあるわだかまりは一切解けていない。
そんな一触即発な隣国に、いち商人である姜家の長男坊が赴いているとなると……。
「もしかして『使える』って…」
姜家は、国家単位の何かを動かそうとしているのかもしれない。
その為に第一継承権のある太耀殿下を引き入れる策を探しているとしたら――。
「確かに『私』は何かに使えるのかもしれない」
まだ若い第二皇子の手解き役、紫丁香。
やりようによっては何とでもなりそうな駒ではある。
「……冗談じゃないわ」
確かにあれよあれよと皇族の問題に片足を踏み込んでしまってはいるが、それはあくまでも梦瑶という大切な人を守る為の選択である。
昔縁を切った筈の男共に、好き勝手利用される為に『紫丁香』が存在する訳ではないのだ。
ふと、俊熙の顔が脳裏に浮かぶ。
『恩に着る。あの方を救うことを選んでくれて』
――そう、大切な人を守る為だ。
ならば香月のすべき事は、一刻も早くここから去ることではなく、少しでも多くの情報を得ることである。
「よし、覚悟決めよう」
香月はパンッと頬を叩くと、手際よく衣装を脱ぎ湯浴みに取り掛かった。
二度と会いたくないと思っていた人達を、油断させて欺いていくのである。何をされようと、少しくらい怖くても、どうということは無い。
――俊熙たちは、今頃どうしているだろうか。
温かい湯を肩からかけながら、そっと想いを馳せる。
こんな風に、誰かを恋しく思う気持ちなんて、あの時捨てた筈だったのになぁ。
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