後宮化粧師は引く手あまた

七森陽

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これがかつて栄華を極めた者の末路

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「姜さん、この女知ってるんすか?」
 慎重派の男が問うと、姜子豪はそのニヤついた笑みをより深めた。
「ああ、そらぁもう長い付き合いだよなァ」
「……」
 目が合うが、香月はようやく息がつけたような気がして、急いで目線を横にずらす。
 長い付き合い。確かにそうだけれど。
 じとりとした視線を右頬に感じながら、香月は無意識に自身を抱きしめる。嫌な記憶が湧き上がってきそうで、その感覚と身体の震えを押しとどめるので精一杯だ。
「えっと…この女、第二皇子のお気に入りらしいんスけど…」
「へぇ」
 香月がちらりと見遣ると、子豪は興味深そうに目を細めていた。ぎくりと更に身体が強ばる。
 あの目を、あの狩りをする鷹のような目を、香月はよく知っていた。
「お前がなァ…」
 ざり、と砂利を踏むような音がして、大男がこちらへ近付いて来たのがわかる。
「…俺のおかげ、だったりしてなァ?」
 男のゴツゴツした手がヌッと伸びてきて、香月の顎を乱暴に掴んだ。強引に目線を合わされて、先程よりももっと近くにその鷹の目が現れる。
 その目は少し赤の混ざった茶色の瞳で、幼い香月はこの色に憧れを抱いていたことをふと思い出す。
 なぜ今そんな昔のことを思い出したのか分からないが、幾分身体の震えが止まったような気がした。
「懐かしいな、香月…二年ぶりくらい、か?」
「………そうね」
 喉が張り付いてうまく声が出ない。子豪はそれすらも面白いことのように、その口角をニヤリと引き上げた。
「流石、化粧師一族『呉』の後継者だなァ。よく映えてら」
 クックッと息を殺すような笑い方は、かつて香月を組み敷いて楽しんでいた時と全く同じで、無意識のうちに涙腺が緩むのがわかった。
「ハハ…その目」
「……」
「俺ァ結構好きだったんだよなァ、その目」
 満足そうな表情の子豪を、これでもかと香月は睨みつけた。
 しばらくそのまま睨み合いが続くが、それを終わらせたのは子豪だった。香月の顎から手を離すと、踵を返して扉の方へと向かう。
「とりあえず今日はやる事残ってっから、また明日来るわ。おいお前ら、見張り頼んだぞ」
 ササッと男たちに指示を出すと、竜巻のように現れた大男は、また竜巻のようにその部屋を去っていった。
「……お前、『呉』なのか?」
 慎重派の男がじとりと睨みをきかせて問いかける。
 一応格好は『紫丁香』のものだが、先程子豪が盛大にバラしてくれやがったので認める他ない。こくりと頷くと、慎重派の男はその睨みに憎しみのような色を込めた。
「なるほど……。なら、容赦はいらねぇよな」
「……な、何よ」
 男はガツガツと靴音を立てながら近寄ってきて、香月の右腕を乱暴に掴み引き上げた。
「ッ!ちょ、痛い!」
 目の端に、先程香月に布を押し付けていたもう一人の男が戸惑っているのが見える。
「何するのよ、離して、」
「うっせぇな!」
 慎重派の男は香月を引き上げると、目線を合わせて覗き込んでくる。その憎しみの瞳は、何処かで見たことがあるような――。
「…お前、本当に呉香月なんだな」
 しばらくじっと睨んでいた男が、そう、零した。
「…だから何だって言うのよ」
「お前っ…!覚えてねぇのかよ!?」
「え……?」
 憤慨したような表情で見つめられて、何処かで会ったことがあっただろうかと香月は記憶を辿る。
 何かを思い出そうとしている風の香月の様子に、男はさらに怒りを顕にして、小さく叫んだ。
「高浩宇!」
「…え?」
「高浩宇(こうこうう)だよ!忘れたとは言わせねぇぞ!」
 香月の脳裏に浮かんだ幼い頃の従兄の顔と、今目の前にいる青年の顔が――一致した。
「…えっ!?」
 あれから十年以上経っているが、その面影は確かにまだ、そこにあった。



 呉家は、この夏蕾国(カライこく)でも随一の化粧師であった。
 香月がまだ八歳の頃、定期的に宮廷に派遣され化粧師の仕事をしていた両親から、一緒に参内するように言われた時のことだ。
 香月はまだ事の重大さに気がついていなかったが、五つ歳上の従兄・高浩宇はその話を聞きつけて香月のいる部屋へ飛び込んできた。
 高家は呉家の分家のひとつで、定期的に化粧師の修行として本家までやって来ていたのである。
「おい…香月、お前宮廷に行くのか?」
「うん、そうみたい。一人、お姫さまのお化粧させてくれるんだって!」
 香月としては修行の一環であり、当然他の親戚達も皆これを経験しているものと思っていたのだが、実際はそうでは無かったらしい。まだ幼い頃から参内し皇族の支度を任されることなど、この数十年は無かった事であった。
 そんな誉れを、五つも歳下の香月が受けたのである。
「……」
 その時の浩宇の瞳は、憎しみをめいっぱい湛えていた。
 後から知ったことだが、高家は呉家の分家である事に強い劣等感を感じていたそうで、どんなに努力しても本家を越えることなど出来ないと、恨みがましく語り継いでいたらしい。
「浩くん…?」
 香月が浩宇に会ったのは、これが最後だった。
 それからしばらくして高家の当主が亡くなり、何処か遠くへ家移りしたと、香月は両親から聞かされただけだった。

「浩くん…」
「その名前で呼ぶんじゃねぇよ、鬱陶しい」
 浩宇はまるで投げ捨てるみたいに香月の腕から手を離した。支えを失った香月の身体は、再び硬い長椅子へと落とされる。
「ぁだっ」
「今は梁豪宇(りょうごうう)って名乗ってる。二度と昔の名前で呼ぶなよ、香月」
 自分は昔の呼び方のくせに、香月にはそれを許していない。浩宇が『呉家の分家・高』であった過去を捨てたということを、香月はまざまざと思い知らされた。
 彼は、何人かいる従兄弟の中でも、一番仲良くしてくれた人だった。
 遠い記憶に思いを馳せて、香月はそっと瞼を閉じる。
「孟、とりあえず一刻見張っててくれ」
「え、はい、わかりました」
 浩宇…いや、豪宇はもう一人の男にそう告げると、靴音を荒らげながら部屋を出ていった。
「……」
「……」
 目を開け、孟と呼ばれた男を見ると、用の無くなった白い布を仕舞っている所だった。
 目を覚ましてからの怒涛の展開に色々考えたいことはあるが、しかしまずこの状況を把握することが先決だと香月は気持ちを切り替える。とりあえず比較的話が出来そうな目の前の男から情報を得ることにした。
「あの…」
「あん?何だよ」
 子豪や豪宇には頭の上がらなそうな様子であったのに、香月とふたりとなったからか、その態度はあからさまに横柄なものとなった。
 こういう人には、とりあえず下手に出ておけば良い。
「私、どうして連れてこられたんでしょうか…」
「教えるわけねぇだろ、そんなこと」
「そう…ですよね…。でも私、突然のことで…とても不安で…」
 そういえば今は『紫丁香』の様相のままである。もしかすると、東宮の郎官にやってみた作戦が通用するかもしれない。
「あの…ここ…寒くないですか…?」
 か弱い風に自身の肩を抱きしめ、胸元を腕で寄せてみる。残念なことにたいした大きさは無いのだが、まぁ仕草だけでもそれっぽくなるだろう。
「何か羽織れるもの…ありません…?」
 必死で上目遣いをしてみると、孟は一瞬固まって、すぐに我に返ったように辺りを見回した。
「あっ?ああ、羽織りか…?」
 ――もしやこれはいけてしまうのでは。
 生まれて初めての色仕掛けというやつを、まさか今日だけで二回もすることになるとは。――いや、もう日を跨いでいそうなので、二日連続と言った方が正しいか。
 とにかく、どうにか少しでも情報を集めなければならない。
 ここは何処なのか、なぜ自分が拉致されたのか。継嗣問題に関係のある出来事なのか。
 先程子豪が漏らしていた「使えそうな女」という言葉が手がかりになりそうだが、それだけでは足りない。
「ねぇなぁ羽織り。まぁ今夜は暑くなるらしいし我慢しろよ」
「…そう、残念…」
 しかし色仕掛けってこれ以上どうしたら良いのだろうか。
 しなっとした仕草と声音、そして上目遣いしか思いつかない香月は既に打つ手が無くなってしまっていた。こんなことなら後宮の煌びやかな宮女達に、色々な手練手管を教わっておけばよかった。
 香月が打つ手をこまねいていると、男がジリ、と、近付いて来たのがわかった。
「…それとも…」
 見上げた先の目は何やら爛々としていて、香月の背筋にぞくりと悪寒が走る。
「俺が、あっためてやろうか」
 下卑た笑みが男の顔に浮かぶ。
 そうか、色仕掛けってこういう危険があるのか。
 悪人に対して打つ手として間違っていたのだと今更ながら悟るが、もう遅い。
 孟の手が肩に掛かって身体が強ばる。
「ちょ、あの、大丈夫なので…っ」
「まぁ、良いじゃねぇか折角だし。どうせ第二皇子とよろしくする予定だったんだろ?」
 その台詞に、『紫丁香』が咄嗟についた嘘が知られているということがわかった。郎官にそう言って東宮に入り込んでから拉致されるまで、はっきり言ってたいした時間は経っていない。
 つまり、郎官との会話を聞かれていたか、郎官から情報が回されたかのどちらかである。
 ――東宮付きの郎官が悪人と繋がってるなんて、考えたくもないけど。
 ただ、この可能性については、絶対に俊熙に共有すべき事項だ。
「ちょっ、と…触らないで」
 そんな事を考えながら男と攻防を繰り広げていたが、相手の力は当たり前だが強く、じわじわと身体が長椅子に押し付けられてゆく。
「観念しなって。どうせ誰も助けになんて来ねぇよ」
 ――その言葉に、香月は唐突に自分が一人ぼっちなのだと思い知った。
 先程ちらりと俊熙を思い出したからか、その仏頂面が脳裏に浮かんで離れない。
 二度と会いたくないと思っていた男との再会、おそらくずっと憎まれていただろう従兄との再会。
 この一年、平凡に幸せに、ただただ慎ましく過ごしていたはずなのに、この数日の目まぐるしい変化に不本意ながら涙が滲んできてしまう。
 その涙が怯えの涙だと思ったのか、孟は香月を覗き込み、その瞳に興奮の色を浮かべて笑った。
「怖いのか?ハハッ」
 いや、こんなことは怖くない。
 あの鷹の目の大男に比べたらこんな奴なんて。
 そう思うが、何故か身体は小さく震えていた。
「大丈夫大丈夫、じきに良くなる」
 孟の手が腰紐に掛かって、香月はヒュっと息を飲む。
 脳裏にあるのは、ただただ無愛想で真面目な、右目の下に小さな黒子をたたえた宦官の顔。
 認めたくはなかったけれど、こんな時にその顔を思い出してしまうということは、多分、きっと。
 色々な諦めを感じて、香月はそっと瞼を閉じた。
「――っガぁッ!」
 しかし視界が暗くなった瞬間、潰れた蛙のような声がして香月の上にあった重みが無くなる。
「えっ」
 目を開けると長椅子の傍には、今の今まで香月を組み敷こうとしていた孟が落ちていた。
「孟、おめぇいい加減にしろよ!俺は見張ってろっつったんだよ!」
「ぐぁッ」
 ガツンと音がして、孟の背中が踏み潰される。
 その脚を辿ると、先程出ていったはずの豪宇がそこにいて、香月は驚く。
「浩…」
「だからその名前で呼ぶなっつの!」
 豪宇はそう叫んで香月を睨むが、そのこめかみに浮かぶ血管ははち切れそうだ。思わず香月は閉口する。
「オイ香月、こんな状況でも楽しめちまうのか?流石、殿下の手解き役は違うねぇ」
 見下すような、蔑むような視線に、香月は身体が急激に冷えていくのを感じる。
 ここまで人に憎まれ、その憎悪をあからさまに受けた経験は無いからか、違うと反論しようにも言葉がひとつも出てこない。
「限りなく皇族と対等に近かったあの『呉』の跡継ぎが、まさか後宮で殿下の筆おろしとはねぇ」
「……っ」
 折角、俊熙が作ってくれた『紫丁香』という武装も、今となっては虚勢にもならない。
「これがかつて栄華を極めた者の末路かよ」
 血が繋がっているからこそ、余計にその言葉が香月の胸をぐさりと突き刺した。

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