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鷹の目の猛獣は、手に負えなかった
しおりを挟むそれは青天の霹靂だった。
「納采の儀を、延期…?」
両親に呼び出され、許嫁からの沙汰を聞いた香月は、二の句が告げないでいた。
物心ついた時から許嫁として一番近くにいた存在が、姜秀英(きょうしゅうえい)であった。勤勉な彼に香月は尊敬の念を抱いていたし、愛情もあった。『呉』として研鑽を積み地盤を固め、遠くない未来は姜家の嫁としてその大商家を支えて行くのだと…そう、思っていたのだ。
「香月…お前、何か粗相でもしたのか…?」
そう問うてくる父親に、どうやら両親にとっても青天の霹靂なのだと理解する。
「身に覚えがありません。先日も一緒に都まで行ったのに…」
「まぁ確かに、納采の礼物を見繕っていたものねぇ」
母の言葉にしっかと香月も頷く。
納采の儀とは婚姻に関する六つの儀の始まりで、男性側から礼物を贈り求婚し、その礼物を女性が受け取ることで求婚承諾とする儀のことだ。こののち聞名、納吉、納徴、請期、親迎の儀と進み、結婚が完了する流れである。
その始めの儀を、三日後、香月の十七の誕生日に行うことになっていたのだが。
「ちょ、ちょっと秀英さんに会ってきます」
「待て香月」
思わず立ち上がった香月を、父が引き止めた。
「秀英くんは今は夏蕾に居ないそうだ」
「えっ」
思ってもみない言葉に、変な中腰のまま香月の動きが止まる。
「実は納采延期も、子豪くんから伝え聞いただけなんだよ」
「…ならそれ、子豪の嫌がらせってことは」
「滅多なこと言うもんじゃないよ香月」
思わず胡乱な目をした香月を父がしっとりと宥めてくれて、すぐに冷静になる。確かに何の役にも立たなそうな間接的な嫌がらせなど、子豪がするとも思えない。
「…じゃあ本当に秀英さんが……あ、でも、それなら儀までに夏蕾に戻れないから延期、ってことなんじゃ…」
「それが『無期限で』ってことなのよ」
商家の姜はたまに夏蕾以外の国で商談をしていたため、今回それが長引いているだけなのでは…と期待したのだが、その香月の希望は母の一言で打ち砕かれた。
無期限で結婚を延期だなんて。
「初めて聞いたんですけど」
訳が分からなすぎて思わず口から零れる。
両親も困惑の表情で、どうしていいかわからない。
「でも、もし香月に愛想尽かしちゃったってことなら、無期限延期なんかにしないでいっそ破棄しちゃうわよね?」
「まぁそうだなぁ…。何か事情があるのかもしれんな」
両親のその会話に、確かにと思いつつ、えも言われぬ嫌な予感がこの時の香月の胸には広がっていた。
その一月後、突然子豪に呼び出された香月は、姜家の屋敷を訪ねていた。
あれから秀英は程なくして夏蕾に戻ってきてはいたそうだが、一切香月とは会おうとしてくれず、そのまままた夏蕾外に出ていったらしい。
「おォ、来たか香月」
ひとつ歳上の子豪は、既にいくつか大きな商談も成功させていてかなり活躍しているらしかった。通された子豪の部屋は、書物などはほとんどないが書類があちらこちらに散らばっていた。
勤勉で几帳面な兄とは正反対である。
「もう、また散らかってる」
ひとつ歳上の筈だがなんだか弟を諌めるような気持ちになって、香月は入口近くの床に落ちた書類を拾い上げた。
「あー、いいいい、置いとけって」
執務机の横に居たはずの子豪は、ほとんどひと足で香月まで詰め寄ると、その書類を無造作に取り上げて机へと放る。
「ちょっと、大事な書類じゃないの?秀英さんが見たらまた怒るわよ」
「うっせェなぁ、せっかく今居ねェんだから神経質な奴の話すンなよ」
目の前に立ちはだかる大きな身体のせいで今は部屋の全貌が見えなくなってしまったが、おそらく執務机の周りはもっと散らかっているのだろう。
せっかく商家の息子として成果を出して来ているのに、こういう所が勿体無いんだよなぁと溜息をつくと、珍しく妙に落ち着いた口調で子豪が話し出した。
「その神経質な兄貴から伝言だよ。『一旦白紙に戻すことを検討して欲しい』ってな」
一瞬何のことを言われているかわからず、香月はキョトンと子豪を見上げてしまう。が、すぐにその意味を理解する。
「…え」
子豪と目が合うが、その表情からは何も読み取れない。憐れんでいるのか蔑んでいるのか。それとも滑稽だと内心嘲笑っているのだろうか。
香月はもうずっと、それこそ生まれてからずっと、姜家に輿入れする未来を当たり前のものだと思って過ごしてきていた。
もちろん呉として、玉燕妃の専属化粧師として、誇りを持って仕事をしていたし、結婚したあとも許される限り化粧師として生きていくつもりでもいた。姜家の奥方と化粧師の両立が出来るよう、各方面に根回しだってしてきていたのに。
何より、尊敬する夫と歩む未来を楽しみにしていたのに。
「なん、で……」
思わず視界が滲んだ。
普段あまり涙を流すことのない香月だったが、これまでの人生とこれからの人生が急に無意味になった気がして涙は止まらなかった。
「…そんなに好きか、兄貴のこと」
少し戸惑ったような珍しい子豪の声が頭上から聞こえる。
もちろん好きだと思ったこともあったが、そういった恋心を通り越して、もはや運命共同体のような気持ちでいたのである。振られて悲しいとか、そういう感情ではない。これからの指針を失ったような、そんな感情だった。
しばらくそのまま涙を流していると、頬に少し冷たくて固い皮膚の感触がした。潤んだ視界を凝らすと、その感触の先が子豪の腕に繋がっているとわかって、考える間もなく、慣れない慰めをしてくれているのだと理解した。――理解したらなんだかとてつもなくその不器用な優しさに縋りたくなって、その感触に頬を押し付けた。
おそらくそれは子豪の手のひらだった。
あ、これじゃちょっと変なかんじになってしまうな?と違和感を感じてすぐに頬を離そうとした瞬間―――気づいたら目の前に子豪の顔があった。
力任せに上を向かされているのか、喉が反って苦しい。
……いや、それだけではなく、口を塞がれているから苦しいのだと、追いかけるように気づく。
これが口づけだと理解するのに時間はかからなかったが、しかしそこから抜け出すことは出来なかった。
先程頬にあったはずの手のひらはいつの間にか頭の後ろに回されていて、身動きが一切とれない。
腰も悲鳴をあげるんじゃないかというくらいに反らされていて、ふた周りほど大きな体格の男の体重がそこに掛かってきはじめていて、ミシミシと音すらしそうである。
「……っ」
息が苦しい。
何とか逃げるように顔をわずか逸らしてみたが、その唇で追いかけられてまた大きな手で固定されてしまう。
「…、や…っ」
必死で腰に力を入れ体勢を立て直そうとするが重くて難しい。思わず口を開け声を出した。…ら、その隙を狙ってぬるりと柔らかいものが香月の唇を割った。
「!」
良くない、これは良くない。むしろマズイ。
香月は妙に冷静な頭で冷静な突っ込みを入れる。
すっかり涙は引っ込んでいたが、先程唇の端に流れていたそれが、この口づけの拍子に口内へ入ってきたのかしょっぱい味がした。
しかしそれも、子豪の舌にこねくり回されてすぐに消える。
「……っ」
鼻から息と声が漏れる。こんなのは間違った行為で、一応大事な幼馴染である子豪を止めなければならない。
けれど荒波のような子豪の攻撃に、香月は押し込まれてそれは叶わない。
荒ぶる吐息と微かな声だけが、部屋に充満していた。
いよいよ香月の腰が耐えられなくなって、足の力が抜けた。――と、まだあったのか足元の書類がずるりと滑り、香月の身体が一瞬浮く。
それからは電光石火でほとんど記憶にない。
浮いた身体はまんまと子豪に竦めとられて、そのまま近くの長椅子に押し付けられた。
やめてと言った。
何度も止めた。
しかし鷹の目をこれでもかとギラギラさせた猛獣は、もはや手に負えなかった。
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