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あると思わなかったものがあった時
しおりを挟む子豪が磊飛に連れられて先に東宮を出発していったあと、気づくと磊飛が座っていた場所に雲嵐が現れていて香月は驚いた。
「やーっと降りて来られたぁ」
首をぐるぐる回しながら豪奢な椅子で寛いでいる。
「いざと言う時の隠し玉だからね、雲嵐は。期待してるよ」
「またすぐそんな人ったらしなこと言うんだから、殿下はサ」
太燿の言葉に雲嵐も満更でもない様子だ。
先日芳馨は『目的を同じくした仲間』と言っていたが、その『目的』の中心が黄太燿その人だと言うことがその様子からも良くわかる。
「それより、周囲で怪しい動きは無かった?」
芳馨の一言で議論の雰囲気が戻ってきて、雲嵐も香月も居住まいを正す。
「誰も近寄ってないよ。ただ一回麗孝が来たから、姜子豪が帰ったらまた来てって伝えといた」
「あら何かあったのかしら」
「例の毒について、って言ってた」
「毒?」
俊熙がその一言に反応し、そして香月を見た。
「そうそう、その『蛙毒』だよ」
雲嵐の言葉に香月は思わずごくりと生唾を飲んだ。麗孝は確かあの時に香月を看病してくれた太子侍医だったはずだ。蛙毒とはすなわち、水差しに入っていた、あの。
その時の焼け付く喉の痛みを思い出し、香月は眉を顰めた。二度と味わいたくはない苦しさである。自分もそうであるし、もちろん太燿にだって誰にだって、あんな思いはして欲しくない。
「そうか…雲嵐、麗孝を呼んできてくれ」
「はいさ~」
瞬間、雲嵐の姿は消え、かすかな足音が天井から聞こえる。流石は影の者、いつもながら天晴れである。
「では麗孝が来るまでに、この後の段取りを決めよう。呉香月、すまないが殿下と私に、正体が分からぬような化粧を施してくれ」
「はい、かしこまりました」
「必要なものがあれば芳馨が準備する。お前はしばらく東宮から出ない方がいいだろう」
それはまるで至れり尽くせりのお言葉だったが、香月は少し戸惑った。しばらくってどれくらいだろうか。
「…あの、でも…私この四日ほど、ほとんど桔梗殿の勤めが出来ていなくて…」
四日前は蝋梅殿での化粧師仕事のあと子豪に拉致をされているし、一昨日は暮六つ前に桔梗殿に戻り、梦瑶と水晶に『紫丁香』についてぼやかしつつ説明しただけであるし、昨日は朝から芳馨の元で何故か導引(道家の呼吸法)や姿勢矯正などをさせられ、今日はこうしてまた東宮で場違いな同席をしている。
一応香月には尚服という役職があり、梦瑶の衣装や桔梗殿の衣服の管理などの仕事をする身である。それが四日も行われていないのだ。何人かの宮女が同じ仕事をしているが、女官である香月が最終確認をしなければならないわけで。
「ああ、それは大丈夫よ。既に梦瑶妃にはお伝えしてあるから」
その芳馨の言葉に、ひとまずホッと息をつく。後宮管理長からのお達しならば水晶に咎められる事もないし迷惑をかけることもないだろう。
しかし、香月の直接の上司は水晶であるのに、直接梦瑶妃に許可をとっている、ということに少し違和を感じた香月は素直に問うてみることにした。
「梦瑶さまに…ですか?水晶さまではなく」
「……ええ、そうよ。ワタシが桔梗殿に遣いを出した時、水晶殿がいらっしゃらなかったみたいで。直接梦瑶妃にお伝えしてご許可頂いているわ」
にこりと、何も寄せ付けない笑みでそう言われ、何か聞いてはいけないことだったかと香月も口を噤む。
もちろん今は、太燿や姜家の問題を解決するために力になれる事があれば全力で取り組むつもりであるが、最終的に香月の命は梦瑶の為にあるという決意に変わりはない。
早くまた梦瑶の為に勤められるように、とにかくまずは精一杯目の前のやるべき事に取り組もうと、心を切り替えることにした。
「で、呉香月。何か必要なものはあるか?」
「は、はい!えっと化粧箱が例の『紫丁香の空き部屋』にあるのと、お二人のお召かえのものがひとまず必要かと…」
「その辺の道楽息子みたいな漢服が良いかもね。お金はあるよ~って感じの」
「ふむ、わかったわ。持ってくるから香月、準備しておきなさい」
芳馨は香月と太燿の言を受けてすぐに立ち上がる。
準備と言っても、どんな変装にするか香月の中で方向性を固めるくらいしか出来ないが。
「ありがとうございます」
香月の礼に背を向けたままヒラリと右手を振って、芳馨も部屋から出ていく。
残されたのは太燿と俊熙と香月だけだ。
…なんとなくあの日の閨を思い出して複雑な気持ちになる。そうなっているのは香月だけだろうが。
「あぁ~、そうか、また香月ちゃんに顔触られちゃうのか~!苦手なんだよね~アレ」
太燿が思い出したかのように机に突っ伏す。そう言えば太燿はとてもくすぐったがっていたっけ。
「慣れですよ慣れ、殿下」
「だからなんで俊熙はそんな慣れてんだって話だよ、ずるいなぁ」
「何もずるくはないでしょう」
気軽にそう会話する二人を見ながら、香月は張り詰めていた気持ちを少しだけ緩める。
俊熙はいつも真面目で無愛想な雰囲気だが、太燿と二人で居る時はなんだか物腰が柔らかい気がする。それほど心を許しているんだということが良くわかって、思わず笑みが漏れる。
なんとなくぼーっとやり取りを見ていると、突然、部屋の扉が『コンコン』と叩かれた。
麗孝と雲嵐が戻ったのかと思ったら――
「太燿、ここか?」
知らない、男性の声が扉の向こうから聞こえた。
「っ! お、お待ちください、今お開けします!」
太燿が慌てた様子で立ち上がり、俊熙に目配せする。すると俊熙はあろう事か机の上に飛び乗り、香月の脇の下に両手を入れてぐいと持ち上げてきた。
「っ!?」
「静かに!」
小声でそう言われ、香月はぐっと息を飲み込む。
俊熙は机に香月を立たせると、先程雲嵐が登って行った天井板を外し、……そして香月を脚ごとぐいと持ち上げた。
「っっ」
「登れ」
訳もわからず俊熙に手助けされるがまま、天井へと必死に這い上がる。
「静かにしていろ」
見上げてくる俊熙の顔はいつになく必死で、香月は無言で頷く。
天井板は僅かな隙間だけ残して戻され、俊熙も何事も無かったかのように机を降りた。
それを確認して、太燿は扉をゆっくりと、開く。
この時には既に、訪ねて来たのが誰なのか、香月にも検討がついていた。
第二皇太子を呼び捨てに出来る人なんて、この世に二人しか存在しない。
「…どうされましたか、父上」
開けられた扉から入ってきたのは、香月の予想通り現皇帝・黄昂漼その人であった。
「お前の執務室に行ったらもぬけの殻でな。公務を放って何をしておるのかと思ったのだよ」
「ご心配痛み入ります。波津溝関からの報告について、俊熙に対応策を教授してもらっておりました」
俊熙は部屋の端で平伏している。
ヒリヒリとした空気に、香月は天井裏で息を吸うのも忘れてやり取りを見守る。
こうして皇帝閣下のご尊顔をしっかりと見るのは初めてなので、職業柄、細かく造形を観察してしまう。太燿の実父だけあって顔立ちがとても良く似ているが、雰囲気は人好きのする太燿のものとは真逆に感じられた。どちらかというと発する空気は俊熙の方が近しい。
「…何かコソコソとやっておるまいな?」
「何か、とは? 父上に恥ずような行いは、誓ってしておりません。ただ民の為に政を学んでいるまでです」
「……なら良い」
昂漼帝は何か言いたげだったが、結局それだけを零す。そして平伏している俊熙の方へ視線を遣った。
「命じた通り、きちんと兵法を中心に時間を取るのだぞ。……こ」
「陛下」
昂漼帝の言葉を遮るように、俊熙が平伏のまま声を発した。鋭い声だった。
「私はこの国の為、全てを太燿殿下に尽くす心づもりです」
堅い声はこの部屋の空気をより冷たくさせる。
数瞬の無言が続いたあと、昂漼帝は「フン」と鼻を鳴らして、部屋を去って行った。
それからしばらく三人はその体勢のまま動けなかったが、太燿の「はぁあ~~~」という深いため息でその呪縛は解かれる。
「まじびっくり。こんな所に父上が来られるなんて」
俊熙は立ち上がると、机にひょいと飛び乗り天井板をガガッとずらす。
「すまない、呉香月。流石に陛下に見せる訳にはいかなかった」
「は、はい、大丈夫です…、ありがとうございました」
「降りられるか?」
机までは距離もあり、香月はありがたく伸ばしてくれている俊熙の腕に頼ることにする。
以前は埃で滑って落ちて、俊熙を下敷きにしてしまった。今度は気をつけなければ。
そう思って慎重に脚を投げ出して…
「ねぇ今陛下来てなかった!?」
「ひゃあ!?」
真後ろから雲嵐の大きな声がして、香月の心臓が飛び跳ねる。
と同時に、香月の右手小指が天井の穴へと滑り落ちて体勢が崩れる。
「!!」
今度絶対に、雲嵐に天井裏の掃除をしてもらおう。
そう頭で恨み言を言っていると、気づけばまた、顎の下には温かい文官服の温もりがあった。
「…たた、」
左から俊熙の声が聞こえて、胸元に感じた温もりが少し硬くなる。つまり今、俊熙のお腹の上に、十字の形で香月の身体が覆いかぶさっているということだろう。
瞬時に判断して、慌てて香月は両手に力を入れる。
「すみませっ……」
左手は少し弾力のある硬い感触で、おそらく腹筋のあたりに触れている。右手は机かと思ったが、思ったよりも随分柔らかい。だが、筋肉のような硬さとは違う……ような……。
目を開けると、上半身だけ起こした俊熙と目が合った。目の前に左手があり、触っているのが腹筋だと思ったのは正解だ。
右手は?
思わず訳の分からないまま右手に再度力を入れる。
柔らかいような、そうでないような。なんだ、これ。
「…っおい」
俊熙の表情がよく分からないものになる。
「手を、離してくれ」
手を。
ゆっくりと顔を反対側に向けると、そこには右手があって。その下には。
「……」
多分、股。
股、に、何か、ある。
もう一度右手に力を入れる。
「…っこら!」
後頭部を俊熙にはたかれた。
痛い。右手は、温かい。
――えっ?
――――――えええっ!?
だって、俊熙は後宮に出入りしているから、宦官のはずで、宦官とはその、男性の、それを、排除した存在の、はずで。
「……えええええっ!?」
あると思わなかったものがあった時、人はどうするか。
とりあえず香月の場合は、意味の無い叫び声が口から飛び出した。
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