後宮化粧師は引く手あまた

七森陽

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知らないうちにじわじわと蝕まれて

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「えっと、とりあえず入っていいかしら?」
 入口から聞こえた芳馨の声に、香月は我に返ってがばりと身体を起こす。もちろん右手は机の上、だ。
 意識がはっきりしてくると、ものすんごく可笑しそうに爆笑する声が頭上から聞こえてきていた。この状態を作り出した元凶である少年。
「雲嵐も、そこで笑ってないでハイ降りて」
「、は、はーい、ひーっ」
 全然笑い止まってなくて草。
 雲嵐がシュタッと降りてくるのと同時に、横たわっていた俊熙も机から降りて服を整え始めた。
「香月さん、此方へ」
「あ、…ありがとうございます」
 横から手を差し伸べられて思わずそれを取る。その腕の持ち主は雲嵐に呼ばれて戻ってきた麗孝だった。優しい眼差しに、香月の心臓はだいぶ落ち着く。
「さて、あとは磊飛が戻るのを待ちましょう。麗孝の話はそれから」
「ハーイ」
 芳馨と雲嵐の言葉を合図に、その場の全員がゆっくりと各々の席に座る。
 ――そして、沈黙。
 その静けさに煽られて、香月の疑問は脳内で一気に膨れ上がった。
 えっ、宦官じゃなかったの?いやまさか。…でも『アレ』はどう考えても…いやでももしかしたら腰に護身用の何かを提げていたとか、いや、何かって何よあんな柔らかい防具あるわけないでしょ…えっ――。
「…………っぶはっ!だめだぁ~~!!」
 脳内でぐるぐると思考を巡らせていると、いよいよ我慢できないといった風に太燿が大きな声をあげた。そしてそのままアハハと笑い出す。
「ちょっと殿下ぁ、やめてよ我慢してたのにさぁ~!」
 それにつられて雲嵐も再びヒーヒー言い出した。
「……まぁ、そうね。まさか最近流行りの恋絵巻みたいな出来事が、こんなに身近で起こるとはね」
 冷静に芳馨にそう言われて、香月はものすごく小さい声で「すみません……」とだけ言う。顔から火が出そうだ。俊熙は何も言わないが、今はその顔を見ることなど出来ようもない。
 しばらく太燿と雲嵐の笑い声をいたたまれない気持ちで聞いていると、ようやく磊飛が戻ってきた。
「姜の坊ちゃんは無事街道まで送ってきたぞォ!……って、どした?」
 異様な室内の雰囲気に、流石の磊飛も戸惑っている。
「いや、何でもない。麗孝から毒について報告があるんだったな?」
 いつもの口振りで俊熙は麗孝に話を促す。何だよオレぁノケモンかよと言いながらも磊飛が大人しく席に着いたところで、麗孝も報告を始めた。
「オホン、では、気を取り直して。例の水差しに残った毒から、ある線が見えてきました」
「ある線?」
「ええ。おそらく蛙の種類はヒキガエル。夏蕾でも南部の農村でごく稀に見かけるようですが、実は最近、このヒキガエルを意図的に繁殖させている国があるんです」
 麗孝は何枚かの書類を広げながら淡々と説明を続ける。そこには蛙の絵が描いてあって、香月はこの粘液が…と想像して、少し気分が悪くなる。
「……冬胡か」
「ええ。……その様子だと、冬胡に何か思い当たることでも?」
「そうだな、ここのところは面白いくらい、冬胡の話題ばかりだ」
「なるほど。…冬胡では近頃、蛙による害虫駆除策が敷かれているようです、西からもたらされたヒキガエルを使用して」
「ヒキガエルってェのはそんなに役に立つ蛙なのか?」
「一応、農作物につく虫を捕食してくれるという名目ですけど…おそらくそれは表向きの理由だと考えます。というのも実はもう一つ、冬胡絡みで不穏な噂が入ってきました」
 麗孝は広げた書類のうちの一枚を指差す。全員がそれを覗き込みしばらく読み進めて…ごくりと誰かが生唾をのむ音が響いた。
「巨大寺院の祈祷師が次々と死亡…。確か冬胡って、政教分離を強く推し進めていたよね」
「ああ。皇帝と寺院が拮抗し牽制し合うことで平等を目指している国だ。だがここで力を持つ祈祷師達が幾人も…となると」
「荒れるなァ」
 隣国の雲行きが何やら怪しいらしい。しかし香月の目に止まったのは、そことは違う部分だった。
「継続的に少量の毒物を投与し、知らず知らずの内に感覚神経疾患・内臓疾患を起こす……」
 祈祷師を解剖した結果が毒殺。それも極めて周到で計画的なものだった、と、そこには記載されているのだ。
「…信憑性は?」
 俊熙が顎に手をあてながら堅い声で問うと、麗孝も緊迫した声で「かなり高いでしょう、信頼の置ける情報です」と返した。
 しかしここで、磊飛が「でもよォ」と、その書類の文字と蛙の絵を同時に差した。
「確かにこの蛙の繁殖と祈祷師の毒殺と、嬢ちゃんの件が繋がってんなら大きな前進だろうが、根拠はあんのかよ? だって嬢ちゃんは、蛙毒で気ィ失っちまったじゃねぇか」
 確かに。
 麗孝の口振りから、『祈祷師の毒』『香月の毒』が全て同じ『ヒキガエルの毒』のような気がしていたが、祈祷師は気づかれないうちにじわじわと殺されていったのだ。それと同じものなら、香月もあんな風に倒れたりはしなかったはずである。しかし、
「もちろん、根拠はありますよ」
待ってましたとばかりに、麗孝は下の方に重なっていた書類を抜き取って差し出した。
「この蛙毒は、火を通すと毒性が弱まることがわかっているんです。火を通す前の毒を経口摂取した場合は、炎症、吐き気、目眩、痺れなど。火を通せば、それらの症状を引き起こす成分は飛ぶが、経口摂取の場合消化はされず、体外には排出されない。静かに蓄積され、内臓を蝕むんです」
 最早、疑問を唱える者は誰もいなかった。
 それらが繋がっているという確たる証拠はないが、状況からすると全てが絡んでいると考えた方が辻褄が合うのだ。
「…そうか、私はあの時、何故確実に殺すことが出来ない弱い蛙毒を使用したのかと疑問に思っていたんだが…それが、祈祷師達のように『じわじわと気付かれずに殿下を殺す』目的だったのなら理解出来るな」
「もしかすると効能はわかっていても、火で飛ばすという注意点を良く知らない者が使用したのかもしれませんね。それでうっかり生のまま、水差しにぶち込んだ、と」
 …それが、もしかするとあの宮女かもしれないし、またはその宮女に指示を出した者かもしれないが、彼女は後宮にいて、しかも桔梗殿の印が入った書状を持っていた。つまり、後宮にも、その冬胡と繋がっている者がいるかもしれない、ということだ。――更に言えば、桔梗殿の印を使えたり、こっそり盗めたりするような権力や自由がそこそこある者である可能性が高い。
 それに気が付いて、香月は思わず「梦瑶さま…」と呟く。
「…芳馨、やはりこの後の密談には、呉香月も連れて行こう」
「そうね、ワタシもそれが良いと思ってたわ。…って言うか、最悪を想定してこうして香月を呼んでたってこと、やっぱり正解だったんじゃない?」
「…………そうだな」
 先程出た、香月も青楼へ帯同するという案がまさかの採用をされるらしい。俊熙が有耶無耶にしてしまったので単なる子豪の冗談として終わったと思っていたのだが。
「姜子豪よりも、今は後宮の方がよっぽど危険だ。芳馨、この後梦瑶妃に遣いを送って、化粧師の講師としてしばらく呉香月を借りると伝えてくれ」
「承知」
「呉香月。詳しくはまた後で話すが、今は桔梗殿にお前を返す訳にはいかなくなった」
「は、はい……」
 話の展開が早くて飲み込めていないが、つまり香月はしばらく桔梗殿には帰れないということらしい。
「あの、梦瑶さまの御身は安全なのでしょうか…」
 香月は別に女官の仕事に執着している訳ではなく、とにかく梦瑶が安全で幸せに暮らせる事だけが願いなのだ。そう問うと、俊熙の代わりに芳馨が答えてくれる。
「大丈夫よ、今のところは。梦瑶妃に手を出したって利は無いでしょうし、管理者たちで見回りも強化するわ」
 すぐに梦瑶に危害が及ぶことはなさそうと聞いて、ひとまずほっとする。
「わかりました。……芳馨さま、梦瑶さまを…よろしくお願いします」
 梦瑶に何かあれば、香月がここで生きている意味はほとんど無くなる。
 ――と、そこまで考えて、『ほとんど』であることに気づく。
 前までは『一切』であった筈だ。それがいつの間に『ほとんど』になってしまったのか。
 香月は無意識に俊熙を見る。
 上から目線で不遜。
 最年少科挙突破記録保持者で次期宰相候補の太子少傅。
 太燿殿下のことを一番に考えていて、何がなんでも守ると豪語していて、作戦に協力すると決めた香月に向かって「恩に着る」と言う。
 出来うる範囲で香月の願いを叶えようとしてくれる優しさや、目的のために真っ直ぐ立ち向かう姿。
 そして、宦官ではないのに後宮へ足を踏み入れられてしまう、謎を持つひと。
 まるで蛙毒のように、知らないうちにじわじわと蝕まれて。
 いつの間にか、香月が生きる理由がまたひとつ、増えてしまっていたみたいだ。
「……じゃあ、ワタシは遣いの準備をしてくるわ」
 しばらく香月の横顔を見ていた芳馨が、そう言う。そして他の面々に次々と指示を出していく。
「麗孝、これから殿下達が作戦に出ちゃうからワタシ達で東宮を固めましょ、説明するから一緒に来て。殿下は残りの執務終わらせて来てくださいな。磊飛、雲嵐は殿下についててちょうだい」
 それは流れるような指示だった。各々、はーいとかへいへいとか返事をして、一旦解散の流れになる。
「俊熙は先に香月に支度してもらって」
 最後に指示された内容で、香月は芳馨の意図に気づく。たぶん、さっきの事もあり、きちんと話す時間をくれようとしているのだ。
 おずおずと俊熙の顔を窺うと、いつもと変わらない表情のまま何かに気づいたように溜息をついた。
「わかった」
 そうしてふたり以外が部屋を辞そうとした時、思いついたように雲嵐がぽつりと零す。
「もしかして姜秀英、この『蛙毒』を夏蕾に持ち込んだ張本人だったりして、武器の代わりに」
 ――その雲嵐の想定に、しかしもうそうとしか考えられなくなってきてしまって困る。
 冬胡のお国事情はわからないが、国を乱している者たちと秀英が繋がっていた場合、かなり――。
「ヤバいかんじ?」
 雲嵐がその場の全員の意図を汲んで、そう零した。
「――姜子豪との密談で、早く糸口を掴まねばならないな」
 どちらにしろ暮六つ以降の時間が勝負だと言うことが香月にも痛いほどわかった。


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