後宮化粧師は引く手あまた

七森陽

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その瞳の奥に隠したものは重すぎる

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 各々が部屋を辞したあと、俊熙と香月だけが残された。二人きりと意識すると、猛烈に先程の出来事が恥ずかしくなっていたたまれない。
「あの…先程は、大変失礼いたしました…!」
 顔を見ることが出来ないまま頭を下げると、俊熙は少し間を置いてから、
「…いや、私も頭をはたいてしまった、済まなかった」
と神妙な声で言った。
「一先ずは殿下がお戻りになる前に、私の方の支度は終えてしまおう」
 気を取り直すように、俊熙はそう告げて立ち上がった。
「道具は揃っているか?」
「は、はい、確認します」
「ではその間に私は召し替えておこう。……ここで替えるが…いいか?」
「へっ!? あ、はい!すみません!後ろ向いておきます…」
 前回閨で殿下を追い出したことを覚えていたのだろう。妙に配慮された気がして、益々先程の事案を思い起こさせる。
 そうだ、彼は、宦官ではないのだ。――おそらく。いやまぁまだ防具の類という線も無くはないのでそう思っておく。でないと、後宮に気軽に出入り出来ていた理由が説明できない。
 後ろで聴こえる衣擦れの音をなるべく意識しないように、香月は芳馨が持ってきてくれた化粧箱の中身を確認した。
 男性を変装させるというのは前回の入れ替え化粧に続いて二回目だ。今回は見本がある訳ではないので香月の自由。太燿が言うには『その辺の道楽息子』をご所望なので、化粧というよりも、貴族感は失わせずただ少しの隙を見せる漢服の着方などで工夫する方が良さそうである。あとは髪型も、きっちりしたものよりは緩めに結った方が『ぽく』なりそうだ。
 では化粧はどうしようか。俊熙はひとまず目の下の黒子は消して…などと考えていると、俊熙の召し替えが完了したらしい。椅子に座る音がした。
「準備できたぞ」
 振り返ると、机に並行になるよう椅子の向きを変え、こちらに向いている俊熙と目が合った。
「あっハイ、では…失礼します」
 前とは比べものにならない程緊張している。
 それは二人きりだからか、宦官ではないからか…。まぁどちらにしろ、香月の俊熙への気持ちがあの時と大きく変わってしまっている所為に他ならないのだが。
 箱から薔薇水を取り出し、手のひらで温める。粉底を肌に馴染ませる為に必要な水分を補給させる為だが、しかし近くで見ると俊熙の肌は充分にみずみずしい。この部屋は明かり取りの窓も大きく明るい。以前のように篝火越しで見ていた時より、細部まで良く見えてしまい、益々鼓動が早まった。
 まずやっぱり顔が良いのが罪だわ。
 充分に温めた化粧水をゆっくりと俊熙の肌に馴染ませながら、自分勝手な恨み言を心の中で吐いた。
 しばらくお互い無言で作業を進めていたが、粉底を塗り終わったところで俊熙が徐ろに口を開く。
「…先程の件だが」
 香月の心臓がドキリとしたと同時に、指先もピクリと動いた。う、動揺しているのがバレてしまったかもしれない。
「驚かせてしまって済まない。が、ひとまず他言無用で頼みたい…信頼はしているが」
 その睫毛の影を頬に湛えて、俊熙が静かに乞うた。
 ――そう俊熙が言うということはつまり、あれは、防具でもなんでもなく、正真正銘。
「……宦官じゃ、なかったんですね」
 散粉を薄く頬に延ばしながら言うと、ゆっくりとその瞼が開いて、視線がかち合った。
「……ああ」
 じっと瞳を見つめられて、とても大事な事実を打ち明けられる。触れた頬の温もりを感じて不思議な気持ちだ。そうかこの人、本当に男の人、なんだ。
 そして同時に、現実的な疑問が再度浮かび上がる。
 俊熙は男性でありながら、後宮に自由に出入り出来ている。――そこから考えられるのは二つ。一つは、そんな例外を許される程の理由があるから。もう一つは、吏部も誰にも男性と知られない方法で入り込んだから。
 しかし俊熙の性格や現実的なことを考えると後者は無いようにも思う。この人のことだから、騙すとか隠すとかではなく、真正面から論理でねじ伏せて認めさせているような気もしなくもない。
「…このことは、どなたがご存知なんですか」
「先程までこの部屋に居たものは皆」
 先程楽しそうに笑っていた様子からそうだろうとは思っていたがなるほど。後宮管理長も知っていたのであれば、色々と誤魔化すことも容易そうである。
「あとは……」
 香月が納得していると、俊熙はそう続けて、そして少しの間無言になった。とても言い淀んでいる。
 急かすのは違うと思い、香月はその頬に触れたまま、続きを待った。右の方に視線を遣って、俊熙は逡巡する。
 その瞳は悩んではいるが迷ってはいないようだった。相変わらず芯の強い瞳で、こういう所は太燿にも良く似ているなと思う。――あれ、そう言えば他にも、誰か似ていると思った人がいたような――。
 そこまで香月が考えた時、俊熙は意を決したように、再び視線をしっかと合わせて言った。
「あとは、皇帝陛下も、ご存知だ」
 その言葉で、香月の脳内に電撃が走った。
 そうだ、先程天井裏から昂漼帝を盗み見ていた時、『太燿と俊熙に似ている』と――。
 待て、そう言えばあの時、昂漼帝は俊熙に向かって『こ』と呼びかけようとしていた気がする。すぐに俊熙が遮ってしまったけれど。
 いや待て、確か太燿も何か気になることを言っていたような。……そうだ、郭家の話が出た時、『俺らの遠縁』と、そう言っていた。あの時は太燿は『俺や父上の』と言い直していたが、まさか――。
 いや、いやいやそんな訳ない。
 確かにその存在は多くは語られていなくて分からないことも多いし、まだ幼い頃に母上と一緒に何処か遠くへ離宮したという話くらいしか……。
 でも。
 なおも見つめ合う瞳。この目。造りが本当に太燿とおんなじだったのだ。そんなこと、顔に刃を入れないなら、遺伝子の仕業としか考えられない。
「……昊天さま、なんですね」
 小さく、囁くように、香月はそう問うた。いや、それは問いではなくむしろ確認であった。
 香月は思わず親指で俊熙の頬をスリ、と撫でる。
 それに促されるように、俊熙は小さく答えを返した。
「その名で呼ぶ者は、今はもうほとんどいない」
 この国の第一皇太子、黄昊天。現皇帝の側室・静嬪の子であり、渦中の反第二皇太子派に担ぎあげられようとしている、皇子。
 こんな所に、いたなんて。
 香月はぼんやりそう考えて、しかし唐突に『第一皇太子』である事実を実感して手を離した。
「すっ、すみません…!私、ずっと大変な失礼を…っ」
 尊いお方と知らなかったとは言え、出会いの頃は何度も失礼な物言いをした気がする。無礼も甚だしい行いだ、処されても文句は言えない。
「やめてくれ」
 しかし俊熙は香月の離した右手の指先を、サッとその左手で掴み、そのまま自身の左頬へまた添わせてきた。
「!」
 香月の心臓がはち切れそうに鳴る。
「私は、太燿さまに命を捧げると決めた、ただの劉俊熙だ」
 その見上げてくる瞳は、何よりも決意の堅い、真っ直ぐなものだ。それを見つめていると、香月の胸は痛いくらいに軋んだ。
「昊天という名は、捨てたのだ。後悔などは一切無い」
 きっとそれは本心だろう。
 過去に何があったのか、何故科挙を受けたのか、何処で太燿に救われたのか、どんな経緯で劉家と名乗るようになったのか、……何故、そのご身分を捨てることになったのか。
 何も、わからない。
 けれど、目の前の俊熙は、香月の知る俊熙と何も変わらない。真っ直ぐな瞳の、尊敬出来る、素晴らしい人だ。
「……何故お前が泣く」
「…えっ」
 俊熙は空いていた右手を伸ばし、香月の目尻を撫でた。その感触で自分が涙を流していたと、ようやく気づく。
「憐れんでいるのか」
「ちがいます!」
 涙の意味を聞かれても上手く答えられそうにないが、絶対に憐れみとは違う。ただただ胸が痛くて、想いが募って――ただ、貴方の力になりたいと。
「…わたしが今ここに居るのは、貴方の想いと信念に、添いたいと思ったからなんです」
 ぽつりと発する言葉を、俊熙は静かに聞いている。
「……絶対に、太燿さまをお守りしましょうね」
 きっとどんな言葉を並べたって、俊熙への慰めにはならない。そもそも多分慰めなんて求めていない。
 だから、その進もうとする道の助けになるように。
 俊熙はその言葉を聞き、無言のまま香月の目尻から指を離す。そしてそのまま香月の頭にぽすりとその手を置いた。
「……頼りにしている」
 それは今の香月にとって、最高の褒め言葉だ。
 自分が出来ることは些細なことかもしれないが、それでもやれることはあるのだと、俊熙がそう言ってくれている。
 目の前の瞳は真っ直ぐで奥が深い。その瞳の奥に隠したものは重すぎるが、故に揺るぎない。流されることなく目的地に一直線に向かう意思を、香月も守りたいと、そう、心から思った。




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