光のもとで2

葉野りるは

文字の大きさ
248 / 271
March

未来の約束 Side 翠葉 03話

しおりを挟む
 温室には、私たちのほかにも数組のお客様がいらした。
 席に着いている男女が二組と、お花を眺めながら歩いている男女が四組。内二組は老夫婦で仲睦まじさを感じる。対して、老夫婦以外の男女には微妙な距離があり、どこかよそよそしいところを見ると、お見合いの最中なのかもしれない。
 私はツカサに誘導されるままに歩き、席に着いている男女とはほどよく距離のあるテーブルへ案内された。
 椅子に座るなり、ツカサは懐から茶色い封筒を取り出す。
 その封筒には「藤倉市役所」と黒インクで印字してあった。
「それ、なあに?」
 たずねると、ツカサは封筒から一枚の用紙を取り出した。
 三つ折にされた白地の紙には茶色の文字や線が目立つ。そこに太字で記された漢字は――
「婚姻届っ!?」
 思わず大きな声をあげてしまい、周囲の視線を集めてしまう。
 恥ずかしさに俯くと、ツカサはそれを丁寧に広げ、私の前に差し出した。
 気が動転した私は、
「入籍は六年後でしょう? どうして婚姻届なんて――」
 広げられた婚姻届に視線を落とすと、ツカサが記入すべき欄はすべて達筆な字で埋められていた。
「本当は婚約指輪を贈りたかったけど、それは六年後の結納のときにって話になっただろ? だから、その代わりになるものが欲しくて」
 ツカサは胸元からペンを取り出し、私の右手に握らせる。
 つまりは私にも記入しろ、ということなのだろう。
 ずっしりとしたサインペンを手に、私はなかなかキャップを外すことはできなくて、初めて見る用紙を前にドキドキしていた。
「安心していい。俺と翠が記入したところでまだこれは完成じゃないから」
「どういうこと……?」
「ここ」
 ツカサが指差したのは、用紙の右側に記載された「証人」の欄。
「ここに成人ふたりの名前が必要。俺が大学を卒業したら、うちの父さんと零樹さんに記入してもらう予定。それまでは未完成の婚姻届」
 なるほど……。
「書くの、抵抗ある?」
「ううん、そういうことじゃないの。ただ、ちょっと緊張してしまっただけ……」
「書き損じても問題はない。予備であと二枚もらってきてるから」
 茶封筒から真新しい婚姻届を覗かされ、私は思わず吹き出した。
 なんというか、どこまでも抜かりないところがとてもツカサらしい。
 私は心を決めてペンのキャップを外した。
 名前から生年月日、住所、あれこれ記入していってすべての欄が埋まる。
「あ……でも、今日は印鑑は持ってないよ?」
「後日捺印すればいい」
 ツカサは私の記入欄をじっと目で追って確認が済むと、婚姻届を封筒へ戻した。
「これ、俺が持っていても?」
「もちろん」
 ツカサは何事もなかったように封筒を懐にしまった。
 そこでふと疑問に思ったことをたずねてみることにした。
「結納のとき、ツカサは婚約指輪をくれるのでしょう? 私は何を返せばいい? 何か欲しいもの、ある?」
 ツカサは少し考え、
「秒針つきの時計、かな……。医者になってからも使えるし」
「じゃ、そのときになったら時計探しに行こうね?」
 そんな話をしているところへ園田さんがやってきた。
「司様、翠葉お嬢様、本日はご婚約おめでとうございます」
 深々と頭を下げられ、先ほどの澤村さんを思い出す。
 でも、今度は恥ずかしがることなく「ありがとうございます」と答えることができた。
「翠葉お嬢様はお料理をあまり召し上がられなかったとうかがったのですが、お身体の調子が優れないなどございますか?」
「あ、いえ、そういうことではなくて、なんだか緊張して食べられなかっただけなんです」
 苦笑しながら答えると、
「それは緊張もなさいますよね」
 園田さんは笑顔で請合ってくれる。そしてメニュー表を広げると、
「こちらのアフタヌーンティーセットが当ホテルのお勧めなのですが、いかがでしょう。サンドイッチにスコーン、一口サイズのケーキが八種、上段にはフルーツの盛り合わせ。こちらにハーブティー、紅茶、コーヒー、またはソフトドリンクがつきます。司様とご一緒に召し上がられてはいかがですか?」
 私とツカサはメニューを覗き込み、それをお願いすることにした。

 アフタヌーンティーセットが運ばれてくると、私たちは「婚約」からは少し離れた会話をし始めた。
「大学の入学式はいつ?」
「四月六日」
「わぁ……またツカサの誕生日なのね?」
「あぁ、そう言われてみれば……」
 言いながら、ツカサはスマホをいじり始めた。
 何をしているのかと思えば、少しして私の携帯がメールの着信を知らせる。
 帯の間に挟んでいたスマホを取り出すと、メールはツカサからだった。
「どうしてメール……?」
 たずねながらメールを開くと、妙に長いアドレスが記載されていた。
「これ、なんのアドレス?」
「いいからアクセスして」
「うん……」
 アドレスをタップしてしばらくすると、カレンダーらしきものが表示された。そこには、ツカサの予定と思しきものが記されている。
「ネット上にある俺のスケジュール帳を共有した。俺の予定は青で表示される。翠はほかの色で予定を書き込んで。そしたら、互いの予定をその都度伝えたり確認する必要はなくなるだろ?」
 なるほど……それは便利だ。
「ミュージックルームの使用時間も入れておいてもらえると助かる。そしたら、時間合わせて会いに行けるし」
 思わずツカサの顔をまじまじと見てしまう。
 それに気づいたツカサが、「何」と訝しげに眉をひそめた。
「なんか……卒業式の日からものすごく優しい気がして……」
 そう、あの日からことあるごとに私を安心させるようなことを言ってくれるのだ。
 もともと優しい人ではあるけれど、それはいつだってわかりづらい優しさで、私が気づくまでにはタイムラグが生じることがしばしばだった。でもここ最近は、目に見えて優しい気がする。それはどうして……?
 ツカサは、「あぁ」といった感じで、
「翠が意外と泣き虫だってことが発覚したから?」
 これはたぶん、卒業式の日のことを言われているのだろう。
 確かにあの日は泣きすぎた……。自覚があるだけに頭を抱えたくなってしまう。
「何、俺が優しいと困るわけ?」
 困る……かな? 困る、のかな……?
 うーん……たぶん困りはしないのだけど、優しくされると嬉しくなっちゃって、顔が緩みっぱなしになってちょっと困る、かも……?
 でもそれは、本当に困っているわけではなくて――
「嬉しくなっちゃって顔が緩みっぱなしでも笑わない?」
 そんなふうにたずねると、ツカサは意表をつかれたような顔から一転、「くっ」と喉の奥で笑いを噛み殺した。
「もうっ、笑わないでってお願いだったのにっ!」
「いや、相変わらず単純だなと思っただけ」
「単純じゃないものっ! 好きな人に優しくされたら誰だって嬉しいでしょうっ!?」
 むきになって同意を求めると、ツカサはとても穏やかな表情になり、
「翠がそうしてくれたように、これからは、翠の不安は俺が取り除く。ま、できることとできないことはあると思うけど……。基本的には善処する意向」
「……だから、どうしてそんなに優しいの?」
 優しくされすぎると、逆に少し不安になってしまうのだけど……。
「翠だって、今まで俺の不安を取り除こうとしてくれてただろ?」
 ……それは、秋斗さんのことを言っているの?
 じっとツカサを見つめると、
「……俺が優しいと何か問題でも?」
 問題はない……けど――
 面と向かって思いもしないことを言われて嬉しいのと恥ずかしいのが半々で、私は自分がどんな表情をしているのかすらわからなくなっていた。
 そしたら、
「その顔、おかしすぎるから」
 ツカサは顔をくしゃりと崩し、身を震わせて笑いだした。
「ツカサ、ひどいっ!」
 そんなやり取りをしているときだった。
「涼さん、司が笑ってます……」
「本当ですね。どうやらうちの息子は、翠葉さんの前では笑うようですよ」
 のんびりとした会話に振り返る。と、そこにはうちの家族とツカサの家族が揃っていた。
 意味がわからずに目を白黒させていると、
「翠葉たちが部屋を出てから一時間が経っているのよ? なかなか戻ってこないから、澤村さんに居場所を聞いて迎えに来たの」
 お母さんの言葉にびっくりして懐中時計を確認すると、個室を出てから一時間ちょっとの時間が過ぎていた。
「わぁ……ごめんなさい」
「何、謝ることはないさ。私たちも楽しく歓談させてもらっていたからね」
 静さんはそう言ってくれるけど、後方にいる唯兄は辟易とした顔をしている。
 なんというか、申し訳なさでいっぱいだ……。
 唯兄に「ごめんなさい」の視線を送ると、それに気づいた蒼兄が、
「これから記念撮影をしようって」
「記念撮影……?」
「そう。翠葉ちゃんがかわいい振袖を着ているし、両家の家族が全員揃うことはそうそうないだろうからね」
 静さんに言われてなるほど、と思った。思ったけれど、写真は苦手……。
 しかも、ここで写真を撮るのなら、間違いなくスタジオを押さえられているのだろうし、プロのカメラマンがいてセルフタイマーを使わせてもらえることなどあり得ない。
 これは覚悟を決めなくて挑まなくては……。
 黙々と考えていると、
「翠葉ちゃん、カメラマンは久遠だ」
 静さんにそう言われて反射的に顔を上げる。
 写真を撮られるのは苦手。それは相手が久遠さんであっても変わることはないのだけど、それでも久遠さんは――久先輩は別っ!
「途端に目が輝いたわね」
 湊先生に突っ込まれてちょっと恥ずかしく思い、私は苦笑いを返した。
 温室からスタジオへ向かう途中、チャペルの前を通った。高らかに鐘の音が鳴り響き、チャペルから花嫁さんと花婿さんが出てくる。
 その姿を見たら、なんだか幸せを分けてもらえた気がして、胸がじんわりとあたたかくなるのを感じた。
「六年後、翠葉ちゃんの花嫁姿を楽しみにしているわね」
 真白さんにそう言われ、私は恥ずかしさに照れ笑いを返したけれど、その場の参列者に仙波先生と慧くんがいることには気づけなかったし、ふたりにじっと見られていることなど気づきもしなかった。
 そして後日、「あの日ホテルにいた?」とたずねられてものすごく驚くことになるのだ――
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

光のもとで1

葉野りるは
青春
一年間の療養期間を経て、新たに高校へ通いだした翠葉。 小さいころから学校を休みがちだった翠葉は人と話すことが苦手。 自分の身体にコンプレックスを抱え、人に迷惑をかけることを恐れ、人の中に踏み込んでいくことができない。 そんな翠葉が、一歩一歩ゆっくりと歩きだす。 初めて心から信頼できる友達に出逢い、初めての恋をする―― (全15章の長編小説(挿絵あり)。恋愛風味は第三章から出てきます) 10万文字を1冊として、文庫本40冊ほどの長さです。

居酒屋で記憶をなくしてから、大学の美少女からやたらと飲みに誘われるようになった件について

古野ジョン
青春
記憶をなくすほど飲み過ぎた翌日、俺は二日酔いで慌てて駅を駆けていた。 すると、たまたまコンコースでぶつかった相手が――大学でも有名な美少女!? 「また飲みに誘ってくれれば」って……何の話だ? 俺、君と話したことも無いんだけど……? カクヨム・小説家になろう・ハーメルンにも投稿しています。

美人生徒会長は、俺の料理の虜です!~二人きりで過ごす美味しい時間~

root-M
青春
高校一年生の三ツ瀬豪は、入学早々ぼっちになってしまい、昼休みは空き教室で一人寂しく弁当を食べる日々を過ごしていた。 そんなある日、豪の前に目を見張るほどの美人生徒が現れる。彼女は、生徒会長の巴あきら。豪のぼっちを察したあきらは、「一緒に昼食を食べよう」と豪を生徒会室へ誘う。 すると、あきらは豪の手作り弁当に強い興味を示し、卵焼きを食べたことで豪の料理にハマってしまう。一方の豪も、自分の料理を絶賛してもらえたことが嬉しくて仕方ない。 それから二人は、毎日生徒会室でお昼ご飯を食べながら、互いのことを語り合い、ゆっくり親交を深めていく。家庭の味に飢えているあきらは、豪の作るおかずを実に幸せそうに食べてくれるのだった。 やがて、あきらの要求はどんどん過激(?)になっていく。「わたしにもお弁当を作って欲しい」「お弁当以外の料理も食べてみたい」「ゴウくんのおうちに行ってもいい?」 美人生徒会長の頼み、断れるわけがない! でも、この生徒会、なにかちょっとおかしいような……。 ※時代設定は2018年頃。お米も卵も今よりずっと安価です。 ※他のサイトにも投稿しています。 イラスト:siroma様

キャバ嬢(ハイスペック)との同棲が、僕の高校生活を色々と変えていく。

たかなしポン太
青春
   僕のアパートの前で、巨乳美人のお姉さんが倒れていた。  助けたそのお姉さんは一流大卒だが内定取り消しとなり、就職浪人中のキャバ嬢だった。  でもまさかそのお姉さんと、同棲することになるとは…。 「今日のパンツってどんなんだっけ? ああ、これか。」 「ちょっと、確認しなくていいですから!」 「これ、可愛いでしょ? 色違いでピンクもあるんだけどね。綿なんだけど生地がサラサラで、この上の部分のリボンが」 「もういいです! いいですから、パンツの説明は!」    天然高学歴キャバ嬢と、心優しいDT高校生。  異色の2人が繰り広げる、水色パンツから始まる日常系ラブコメディー! ※小説家になろうとカクヨムにも同時掲載中です。 ※本作品はフィクションであり、実在の人物や団体、製品とは一切関係ありません。

(学園 + アイドル ÷ 未成年)× オッサン ≠ いちゃらぶ生活

まみ夜
キャラ文芸
年の差ラブコメ X 学園モノ X オッサン頭脳 様々な分野の専門家、様々な年齢を集め、それぞれ一芸をもっている学生が講師も務めて教え合う教育特区の学園へ出向した五十歳オッサンが、十七歳現役アイドルと同級生に。 子役出身の女優、芸能事務所社長、元セクシー女優なども登場し、学園の日常はハーレム展開? 第二巻は、ホラー風味です。 【ご注意ください】 ※物語のキーワードとして、摂食障害が出てきます ※ヒロインの少女には、ストーカー気質があります ※主人公はいい年してるくせに、ぐちぐち悩みます 第二巻「夏は、夜」の改定版が完結いたしました。 この後、第三巻へ続くかはわかりませんが、万が一開始したときのために、「お気に入り」登録すると忘れたころに始まって、通知が意外とウザいと思われます。 表紙イラストはAI作成です。 (セミロング女性アイドルが彼氏の腕を抱く 茶色ブレザー制服 アニメ) 題名が「(同級生+アイドル÷未成年)×オッサン≠いちゃらぶ」から変更されております

【完結】イケメンが邪魔して本命に告白できません

竹柏凪紗
青春
高校の入学式、芸能コースに通うアイドルでイケメンの如月風磨が普通科で目立たない最上碧衣の教室にやってきた。女子たちがキャーキャー騒ぐなか、風磨は碧衣の肩を抱き寄せ「お前、今日から俺の女な」と宣言する。その真意とウソつきたちによって複雑になっていく2人の結末とは──

フラレたばかりのダメヒロインを応援したら修羅場が発生してしまった件

遊馬友仁
青春
校内ぼっちの立花宗重は、クラス委員の上坂部葉月が幼馴染にフラれる場面を目撃してしまう。さらに、葉月の恋敵である転校生・名和リッカの思惑を知った宗重は、葉月に想いを諦めるな、と助言し、叔母のワカ姉やクラスメートの大島睦月たちの協力を得ながら、葉月と幼馴染との仲を取りもつべく行動しはじめる。 一方、宗重と葉月の行動に気付いたリッカは、「私から彼を奪えるもの奪ってみれば?」と、挑発してきた! 宗重の前では、態度を豹変させる転校生の真意は、はたして―――!? ※本作は、2024年に投稿した『負けヒロインに花束を』を大幅にリニューアルした作品です。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

処理中です...