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第七章 つながり
04話
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蒼兄と司先輩が部屋を出てからは、暗闇の中で楓先生と少しだけお話しをした。
点滴をしている手首を先生の手があたためてくれていた。
「学校は楽しい?」
「はい、とても……」
「それは良かった。みんなで夕飯を食べたとき、笑ってる翠葉ちゃんを見てほっとした」
「ふふ、入院してるときは泣いてばかりだったから」
それを思い出すと少し恥ずかしい。でも、思い出すのはそれだけじゃない。
「私は楓先生の笑顔を見るとほっとします。入院していたとき、一緒にお昼ご飯を食べてくれたり、時々中庭に連れ出してくれたでしょう? そのときのことを思い出すんです」
私は病室にいることが嫌だった。でも、人が付き添わないときは中庭にすら出ることができなくて、鬱屈としているときに限って楓先生が来てくれたのだ。「外でサンドイッチでも食べようか」と、にこりと笑って。
そんなときは白衣を脱いで車椅子を押してくれた。
不思議と、病室では食べられなかった固形物もそんなときだけは口にすることができて、あのころは楓先生が魔法使いなんじゃないかと真面目に疑いもした。
「あぁ、俺も覚えてるよ。まだ医者になりたてで、右も左もわからない中、唯一のオアシスが翠葉ちゃんだったからね」
そういえば、中庭にハープを持っていって弾いたこともある。
まだ一年も経っていないのに、ひどく懐かしい。
「オアシスだなんて……。私、泣いてばかりだったのに」
「やっぱりペインの治療は怖い?」
「……怖いです。正直に話すなら、受けなくていいものならもう受けたくないくらいには」
「そっか……。そうだよね、ペインを使わずにこの夏を乗り切れるといいね」
言うと、楓先生の左手が目元に伸びてきた。
「そろそろ目を瞑って寝てごらん。点滴もあと二時間ないくらいだ。痛みが引いているうちに寝ちゃったほうがいい。サイドテーブルには筋弛緩剤が置いてあるから、痛みがひどくなる前に飲んでごらん。姉さんには俺から連絡を入れておくから」
「はい」
答えたあとも、目元から手が離れることはなかった。
「目をあたためると気持ちいいでしょう?」
と、柔らかな声音。
「あたたかさが柔らかくてほっとします」
「寝付くまでこうしてるから寝ていいよ」
高崎さんも若槻さんも蒼兄と似た感じで接することができる。でも、楓先生はより蒼兄に近い存在に思えた。
この手には甘えていい――
そう、自分の中にあるバロメーターが傾くのだ。
出逢ってからの時間がものを言うのか、それとも地の底にいたような自分を見られたことがある人だからそう思えるのか……。
そんなことを考えているうちに、真っ暗な海へ沈み込むように意識を落とした。
翌朝、基礎体温計のアラームで目が覚めた。
目も開けず、手探りでそれを探しあて体温計を咥える。
「あら、器用ねぇ……」
その声にびっくりして目を開けると、ベッドサイドに湊先生がいた。
まじまじと観察中という顔がニヤリと笑い、「おはよう」と声をかけられる。
私は計測中のため、挨拶を返すことができずにいた。
そのままじっと湊先生を見つめると、「くっ」とおかしそうに笑われた。
「はい、うつ伏せになって」
言われるがまま、体温計を咥えたままうつ伏せになる。と、腰、背中、首筋、と触られて「最悪」の一言。
「キスマークって……最悪すぎるわ」
言われた瞬間に計測が終わった。
「どうせ秋斗の仕業でしょ? あんの男、何が婚約するまで手は出さない、よ……。全然忍耐力ないんだから……」
何も言えずにいると、
「翠葉、無理強いされようものならビンタしてやんなさい。もしくはきっぱり振るっ。あんたが無理して秋斗に合わせる必要はこれっぽっちもない。いいっ? 流されるな惑うな放り投げるなっ。自分の身は自分で守りなさい」
「……はい」
勢いに負かされて返事をした感が否めない。でも、言っていることは美鳥さんと同じ気がした。
「で、頭痛は?」
「今のところは大丈夫みたいです。でも、またあの痛みが襲ってくるかと思うと怖い……。頭が割れるんじゃないかと思いました」
「そうね、そういう頭痛だわ。しばらく司のマッサージ受けるのね。そこらのマッサージ師よりも腕はいいわよ。それから、ひとりで起きることができるなら秋斗のところへは行かなくていい」
そうだ、そんな問題も残っていたんだ……。
「来週から学校に復帰することを考えると、一時間起きたら一時間休む、それを繰り返しなさい。無理はだめ。でも、横になってばかりいても起立性低血圧が悪化するわ。それから、できるのなら足のストレッチは再開すること」
「はい」
「今は? 起きてみる?」
「はい、起きてみます」
「手、貸す?」
「いえ、ひとりで……」
少しずつ上体を起こしてみたけれど、際立った吐き気はない。それは低血圧発作が起きていない証拠。
「これくらいならなんとかなるかも……」
「今日は気晴らしにピアノでも弾いていたらいいわ。勉強するならちゃんとカロリー摂りなさいよ?」
「はい……でも、秋斗さんは迎えに来ちゃうでしょうか」
それはどこか後ろめたさと恐怖感が入り混じった感情で、なんとも言いがたい。
「秋斗には私から連絡入れるから心配しなくていい」
これは甘えてもいいところだろうか……。
「翠葉、今回のは秋斗の自業自得ってところよ。あんまり気に病むんじゃないの」
そんな話をしていると栞さんがやってきた。
「朝食の準備ができたわ。翠葉ちゃん、起きられる?」
「はい、大丈夫です」
「じゃ、顔を洗ってからいらっしゃい」
そう言うと、栞さんと湊先生は部屋から出ていった。
その背中を見送りながら、湊先生はいったいどこから情報を仕入れたのだろうか、と不思議に思う。
栞さん? それとも蒼兄? 司先輩……?
まさか秋斗さん本人ということはないだろう。
パジャマからルームウェアに着替えて洗面所へ行くと、蒼兄がいた。
「おはよう。今朝は少しすっきりした顔してるな」
「うん。頭も痛くないし、ひどい吐き気もないの」
「そうか、よかった」
「久しぶりに人間らしく二足歩行ができそう」
言うと、蒼兄はふっと目を細めて柔らかな笑顔になる。
やっぱりその笑顔が一番好き……。
蒼兄は頭を軽くポンと叩くと、入れ替わるようにして洗面所から出ていった。
鏡に映る自分の顔が、ほんの少し血色があるものに見え、
「気の持ちよう、かな……?」
そんなふうに思った。
今日の朝食は炊き込みご飯とお味噌汁と冷奴にほうれん草のお浸し。それからアジの開きだった。
私にもみんなと同じものが並んでいて、ほんの少しだけテーブルを前に身を引く。
「なに後ずさってんのよ。食べられる分だけでも食べる努力はするっ! 目指せ、固形物の経口摂取、でしょ?」
「……はい」
湊先生は朝から元気だ。私の中ではどうしてか朝には弱いイメージがあって、ものすごく意外なものを目にしている気分になる。
そこへクスクスと笑った栞さんがやってきた。
「湊ね、今日は不眠不休の日なのよ。だから朝からハイテンション」
そっか……昨夜は救命救急の応援に行ってたんだ――
それで朝から学校へ出勤……!?
「翠葉、心配しなくても時間見計らって保健室で寝るわよ。あそこ、寝るためのアイテムは全部揃ってるから」
それはベッドとお布団と枕がある、ということだろうか。
「湊さんらしいなぁ……」
言いながら蒼兄がお味噌汁をすすった。
久しぶりに食べた和食は胃にじんわりと吸収される感じがして、とても美味しかった。
「お薬飲んだらまずは横になって消化時間を凌ぎましょう」
栞さんに言われ、食後は薬を飲んでおとなしく横になることにした。
一昨日と比べると格段に調子がいいのがわかる。副作用のつらい時期は抜けた。
けれど、痛みがこないという保証はない。
だめだ――弱気になっちゃだめ。
絶対に守りたいものがあるから、だからがんばれる。
出勤前の湊先生から一言。
「栞のいる時間帯ならひとりでお風呂に入ってかまわないわ。ただし、長湯は厳禁。それが守れるなら入って良し」
びっくりして返事をできずにいると、
「返事っ」
と、頬を引っ張られた。
「はいっ」
「よしっ! さっぱりしてきちゃいなさい」
湊先生は笑顔で蒼兄と家を出ていった。
食後休みで横になっているとき、昨日あったことを思い出すだけで頭痛が起こりそうな気がした。
「……こういうときは寝る、かな?」
苦笑を浮かべつつ、身体も頭も休ませることにした。
点滴をしている手首を先生の手があたためてくれていた。
「学校は楽しい?」
「はい、とても……」
「それは良かった。みんなで夕飯を食べたとき、笑ってる翠葉ちゃんを見てほっとした」
「ふふ、入院してるときは泣いてばかりだったから」
それを思い出すと少し恥ずかしい。でも、思い出すのはそれだけじゃない。
「私は楓先生の笑顔を見るとほっとします。入院していたとき、一緒にお昼ご飯を食べてくれたり、時々中庭に連れ出してくれたでしょう? そのときのことを思い出すんです」
私は病室にいることが嫌だった。でも、人が付き添わないときは中庭にすら出ることができなくて、鬱屈としているときに限って楓先生が来てくれたのだ。「外でサンドイッチでも食べようか」と、にこりと笑って。
そんなときは白衣を脱いで車椅子を押してくれた。
不思議と、病室では食べられなかった固形物もそんなときだけは口にすることができて、あのころは楓先生が魔法使いなんじゃないかと真面目に疑いもした。
「あぁ、俺も覚えてるよ。まだ医者になりたてで、右も左もわからない中、唯一のオアシスが翠葉ちゃんだったからね」
そういえば、中庭にハープを持っていって弾いたこともある。
まだ一年も経っていないのに、ひどく懐かしい。
「オアシスだなんて……。私、泣いてばかりだったのに」
「やっぱりペインの治療は怖い?」
「……怖いです。正直に話すなら、受けなくていいものならもう受けたくないくらいには」
「そっか……。そうだよね、ペインを使わずにこの夏を乗り切れるといいね」
言うと、楓先生の左手が目元に伸びてきた。
「そろそろ目を瞑って寝てごらん。点滴もあと二時間ないくらいだ。痛みが引いているうちに寝ちゃったほうがいい。サイドテーブルには筋弛緩剤が置いてあるから、痛みがひどくなる前に飲んでごらん。姉さんには俺から連絡を入れておくから」
「はい」
答えたあとも、目元から手が離れることはなかった。
「目をあたためると気持ちいいでしょう?」
と、柔らかな声音。
「あたたかさが柔らかくてほっとします」
「寝付くまでこうしてるから寝ていいよ」
高崎さんも若槻さんも蒼兄と似た感じで接することができる。でも、楓先生はより蒼兄に近い存在に思えた。
この手には甘えていい――
そう、自分の中にあるバロメーターが傾くのだ。
出逢ってからの時間がものを言うのか、それとも地の底にいたような自分を見られたことがある人だからそう思えるのか……。
そんなことを考えているうちに、真っ暗な海へ沈み込むように意識を落とした。
翌朝、基礎体温計のアラームで目が覚めた。
目も開けず、手探りでそれを探しあて体温計を咥える。
「あら、器用ねぇ……」
その声にびっくりして目を開けると、ベッドサイドに湊先生がいた。
まじまじと観察中という顔がニヤリと笑い、「おはよう」と声をかけられる。
私は計測中のため、挨拶を返すことができずにいた。
そのままじっと湊先生を見つめると、「くっ」とおかしそうに笑われた。
「はい、うつ伏せになって」
言われるがまま、体温計を咥えたままうつ伏せになる。と、腰、背中、首筋、と触られて「最悪」の一言。
「キスマークって……最悪すぎるわ」
言われた瞬間に計測が終わった。
「どうせ秋斗の仕業でしょ? あんの男、何が婚約するまで手は出さない、よ……。全然忍耐力ないんだから……」
何も言えずにいると、
「翠葉、無理強いされようものならビンタしてやんなさい。もしくはきっぱり振るっ。あんたが無理して秋斗に合わせる必要はこれっぽっちもない。いいっ? 流されるな惑うな放り投げるなっ。自分の身は自分で守りなさい」
「……はい」
勢いに負かされて返事をした感が否めない。でも、言っていることは美鳥さんと同じ気がした。
「で、頭痛は?」
「今のところは大丈夫みたいです。でも、またあの痛みが襲ってくるかと思うと怖い……。頭が割れるんじゃないかと思いました」
「そうね、そういう頭痛だわ。しばらく司のマッサージ受けるのね。そこらのマッサージ師よりも腕はいいわよ。それから、ひとりで起きることができるなら秋斗のところへは行かなくていい」
そうだ、そんな問題も残っていたんだ……。
「来週から学校に復帰することを考えると、一時間起きたら一時間休む、それを繰り返しなさい。無理はだめ。でも、横になってばかりいても起立性低血圧が悪化するわ。それから、できるのなら足のストレッチは再開すること」
「はい」
「今は? 起きてみる?」
「はい、起きてみます」
「手、貸す?」
「いえ、ひとりで……」
少しずつ上体を起こしてみたけれど、際立った吐き気はない。それは低血圧発作が起きていない証拠。
「これくらいならなんとかなるかも……」
「今日は気晴らしにピアノでも弾いていたらいいわ。勉強するならちゃんとカロリー摂りなさいよ?」
「はい……でも、秋斗さんは迎えに来ちゃうでしょうか」
それはどこか後ろめたさと恐怖感が入り混じった感情で、なんとも言いがたい。
「秋斗には私から連絡入れるから心配しなくていい」
これは甘えてもいいところだろうか……。
「翠葉、今回のは秋斗の自業自得ってところよ。あんまり気に病むんじゃないの」
そんな話をしていると栞さんがやってきた。
「朝食の準備ができたわ。翠葉ちゃん、起きられる?」
「はい、大丈夫です」
「じゃ、顔を洗ってからいらっしゃい」
そう言うと、栞さんと湊先生は部屋から出ていった。
その背中を見送りながら、湊先生はいったいどこから情報を仕入れたのだろうか、と不思議に思う。
栞さん? それとも蒼兄? 司先輩……?
まさか秋斗さん本人ということはないだろう。
パジャマからルームウェアに着替えて洗面所へ行くと、蒼兄がいた。
「おはよう。今朝は少しすっきりした顔してるな」
「うん。頭も痛くないし、ひどい吐き気もないの」
「そうか、よかった」
「久しぶりに人間らしく二足歩行ができそう」
言うと、蒼兄はふっと目を細めて柔らかな笑顔になる。
やっぱりその笑顔が一番好き……。
蒼兄は頭を軽くポンと叩くと、入れ替わるようにして洗面所から出ていった。
鏡に映る自分の顔が、ほんの少し血色があるものに見え、
「気の持ちよう、かな……?」
そんなふうに思った。
今日の朝食は炊き込みご飯とお味噌汁と冷奴にほうれん草のお浸し。それからアジの開きだった。
私にもみんなと同じものが並んでいて、ほんの少しだけテーブルを前に身を引く。
「なに後ずさってんのよ。食べられる分だけでも食べる努力はするっ! 目指せ、固形物の経口摂取、でしょ?」
「……はい」
湊先生は朝から元気だ。私の中ではどうしてか朝には弱いイメージがあって、ものすごく意外なものを目にしている気分になる。
そこへクスクスと笑った栞さんがやってきた。
「湊ね、今日は不眠不休の日なのよ。だから朝からハイテンション」
そっか……昨夜は救命救急の応援に行ってたんだ――
それで朝から学校へ出勤……!?
「翠葉、心配しなくても時間見計らって保健室で寝るわよ。あそこ、寝るためのアイテムは全部揃ってるから」
それはベッドとお布団と枕がある、ということだろうか。
「湊さんらしいなぁ……」
言いながら蒼兄がお味噌汁をすすった。
久しぶりに食べた和食は胃にじんわりと吸収される感じがして、とても美味しかった。
「お薬飲んだらまずは横になって消化時間を凌ぎましょう」
栞さんに言われ、食後は薬を飲んでおとなしく横になることにした。
一昨日と比べると格段に調子がいいのがわかる。副作用のつらい時期は抜けた。
けれど、痛みがこないという保証はない。
だめだ――弱気になっちゃだめ。
絶対に守りたいものがあるから、だからがんばれる。
出勤前の湊先生から一言。
「栞のいる時間帯ならひとりでお風呂に入ってかまわないわ。ただし、長湯は厳禁。それが守れるなら入って良し」
びっくりして返事をできずにいると、
「返事っ」
と、頬を引っ張られた。
「はいっ」
「よしっ! さっぱりしてきちゃいなさい」
湊先生は笑顔で蒼兄と家を出ていった。
食後休みで横になっているとき、昨日あったことを思い出すだけで頭痛が起こりそうな気がした。
「……こういうときは寝る、かな?」
苦笑を浮かべつつ、身体も頭も休ませることにした。
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