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第八章 自己との対峙
03話
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期末考査前ということもあり、部活動は全面休止。今日から午前授業が始まり、帰りは海斗くんと司先輩と一緒に帰ることになった。
大勢の人が下校する中、三人並んで坂道を登る。
雨は降っていないものの、じめっとした空気の中、私はまるで酸欠の魚のようだ。
息が上がって少し苦しい……。
「翠葉、かばん持ってやるから」
海斗くんは私の答えを待つ前にかばんを取り上げた。
「翠、手……」
二歩くらい前を歩く先輩が手を差し伸べてくれる。
「さすがに引っ張ってもらわなくても大丈夫です」
そうは言ったけど、「いいから」と強引に手を取られた。次の瞬間、いつかのように車のクラクションが鳴らされる。歩道に寄せられた車は見たことのない車だけど、運転手は知っている人だった。
「蔵元さん……?」
助手席の窓が開き、
「どうぞお乗りください」
「ラッキー」
すばやく車に乗り込んだ海斗くんに引っ張り込まれるようにして車に乗った。司先輩は助手席。
車の中は涼しく、馴染みのない香りがした。少し苦みを感じる匂い。
もしかしたら、蔵元さんはタバコを吸う人なのかもしれない。
そんなことを考えているうちにマンションのロータリーに着き、そこで車を降りた。
エントランスを通ると、
「おかえりなさいませ」とコンシェルジュに出迎えられる。
これにもだいぶ慣れたけれど、未だにコンシェルジュが何人いるのはかわからないし、顔と名前が一致している人は少ない。
エレベーターに乗ると、
「俺ら、着替えてからゲストルームに行くから」
海斗くんの言葉に頷き、私はひとり先に九階で降りた。
栞さんがいない今、このドアの内側から出迎えてくれるのは唯兄しかいない。
ドアを開け「ただいま」と声を発すると、キッチンから唯兄が出てきた。
だし汁のいい香りがする。
「おかえり……って顔色悪いなぁ……」
「ん、でも大丈夫。着替えて手洗いうがい済ませたら、ご飯の用意手伝うね」
それだけ伝えて、玄関脇の自分の部屋に入った。
唯兄の作るお昼ご飯は麺類が多い。夕飯も麺類が多いものの、夕飯に関してはイタリアンでパスタ。逆に、昼食は和食のお蕎麦かおうどん。
唯兄の作るご飯はびっくりするくらい美味しくて、しかも意外と栄養バランスが良かったりする。意外すぎて蒼兄と顔を見合わせるばかりだ。
司先輩は隠し味に何を使っているのかを当てるのが日課になっているし、湊先生も驚くほどの腕前だった。
唯兄は、「家庭の域を出ませんよ」なんて言うけれど、それは謙遜だと思う。
制服は着替えたけれど、身体がだるい。だるいというよりは眠い……。
手洗いうがいをすませてキッチンへ行くと、
「リィは座ってな」
キッチンに入って早々追い出された。でも、今キッチンに入ったところで足手まといにしかならない気もして、その言葉に甘えることにする。
私の定位置。ラグに座ってテーブルに身体を倒す。と、頬にテーブルのひんやり感が伝わる。
玄関から音が聞こえると、海斗くんと司先輩が入ってきた。司先輩はキッチンに直行で、海斗くんは真っ直ぐリビングへやってくる。
「やっぱ具合悪いの?」
「うーんと……眠いの」
テーブルから海斗くんの顔を見上げながら答える。と、
「翠、丼置くからどいて」
司先輩に言われて身体を起こす。
「今日はきのこと豚肉の味噌汁風煮込みうどん!」
美味しそうだけど眠い……。
「リィ、ちょっとでいいから食べて薬飲んで寝ちゃいな。二、三時間もしたら起こしてあげるから」
「……うん」
「だめだな。翠葉、もう頭回ってないっぽい」
「……このまま寝かせたらどうですか?」
海斗くんと司先輩の言葉に、「それはだめ」と唯兄が言いきった。
「湊さんから薬は定時に飲ませるように言われてるから」
「うん。食べて飲んで寝る」
うとうとしながらお味噌汁をすすり、おうどんを何本か食べた。 きし麺好き……。なめこもしいたけもしめじもまいたけも美味しい。
「リィ、そこまででいいよ。スープ自体はまだ残ってるから、あとでおなかがすいたら麺だけ茹でればいいし。ほら、薬」
目の前にお水と薬を出されて、それを飲んだら身体が浮いた。
いや、何かおかしい……。普通、身体は浮かない……。
何が起っているのかと顔を上げると、司先輩の顔が近くにあった。
「部屋まで運ばせろ。このまま歩かせたら壁に激突するだろ」
「あ……」
抱っこされていた。自分で歩くと言いたいけど眠い……。
ベッドに下ろされると、 「ここのリビングで勉強してるから、起きたら勉強に加わるもひとりで勉強するもご自由に」
「……うん」
瞼が重くてあまりはっきりと見えないのだけど、司先輩がものすごく優しい顔をした気がした。
優しい顔をしている先輩と何かを話したくて、「明日は晴れるかな」と訊いたら、「そうだといいな」という返事があり、部屋のドアが閉まる音がした。
唯兄に起こされると、寝てから三時間も経っていた。
「一度起こしにきたんだけど、ぐっすり寝てて起きなかった」
「ごめん。でも、ありがとう。なんとなく頭がすっきりした気がする」
寝ようと思えば何時間でも眠れそうな気はしたけれど、さっきよりは頭がはっきりとしていて、今なら少しは試験勉強ができる気がした。
「俺は夕方まで十階で仕事してるから」
唯兄は部屋を出ると、そのまま玄関を出ていった。
そういえば、最近は唯兄があまり死にそうな顔をして仕事をしていない。
忙しい時期は終わったのだろうか。でも、秋斗さんがマンションに帰ってきたという話は聞かないし、唯兄がいつホテルに戻るという話も聞かない。
「……私の、せい?」
頭をよぎったのは自分という存在。
誰かから、首の擦過傷の話を聞いたとか……?
口止めをしたのは海斗くんだけで、司先輩にも湊先生にも楓先生にも美波さんにも、誰にも言わないでほしいとはお願いしなかった。だから、誰かが話していてもおかしくなくて、でも、言わないでくれると思っている自分もいて――
普通ではないことは何? 本来あるべき姿は何?
マンションにいるはずの人は秋斗さんと栞さんで、いないはずなのは私と蒼兄と唯兄。
それが意味するものは何――?
コンコンコンコン――
「翠、起きてるって聞いたけど……?」
ドア口に司先輩が立っていた。
「つ、かさ、先輩……」
「まだ寝ぼけてる?」
少し呆れたような声でベッドに近づいてきた。
「何考えてた?」
「え?」
「……ろくでもないこと考えてただろ」
ろくでもないこと……。
「あぁ、違った。俺にはろくでもないことでも、翠にとっては大切なこと、だったか?」
先輩はベッド脇に膝をつくと、私の目に手をかざし、
「十秒だ」
「え……?」
「十秒数えたら起きて勉強」
そう言って、低く落ち着いた声でゆっくりと数を数え始めた。
その声を聞いていると、ざわざわとした心が静かになっていく。まるで魔法のよう。一から十までの単なる数字なのに、何かの呪文のように思えた。
「……八、九、十――」
瞼の向こうが明るくなる。
「ハーブティー淹れて待ってる。最初に数学でもやって頭の回転率上げろ」
部屋を出て行く先輩の背中をじっと見る。
決して体格がいいわけじゃない。ぱっと見なら華奢に見えるくらい細身だ。でも、頼りになる背中だった。
それを認めるということは、自分が周りに甘えているということ――
今の自分は周りに支えてくれる人がいるからここにいることができる。だとしたら、私は本当は自分の足では立ってなどいないのではないだろうか。
自分だけの力だったら、本当はどこに立っているのだろう……。
耳に残る司先輩の声でもう一度十秒を数える。それでリセットできる気がした。
けれども、それは気がしただけ。
本当は少し横に置いておいて、今は勉強、とただ考えるのを少し先送りにしたに過ぎなかった。
大勢の人が下校する中、三人並んで坂道を登る。
雨は降っていないものの、じめっとした空気の中、私はまるで酸欠の魚のようだ。
息が上がって少し苦しい……。
「翠葉、かばん持ってやるから」
海斗くんは私の答えを待つ前にかばんを取り上げた。
「翠、手……」
二歩くらい前を歩く先輩が手を差し伸べてくれる。
「さすがに引っ張ってもらわなくても大丈夫です」
そうは言ったけど、「いいから」と強引に手を取られた。次の瞬間、いつかのように車のクラクションが鳴らされる。歩道に寄せられた車は見たことのない車だけど、運転手は知っている人だった。
「蔵元さん……?」
助手席の窓が開き、
「どうぞお乗りください」
「ラッキー」
すばやく車に乗り込んだ海斗くんに引っ張り込まれるようにして車に乗った。司先輩は助手席。
車の中は涼しく、馴染みのない香りがした。少し苦みを感じる匂い。
もしかしたら、蔵元さんはタバコを吸う人なのかもしれない。
そんなことを考えているうちにマンションのロータリーに着き、そこで車を降りた。
エントランスを通ると、
「おかえりなさいませ」とコンシェルジュに出迎えられる。
これにもだいぶ慣れたけれど、未だにコンシェルジュが何人いるのはかわからないし、顔と名前が一致している人は少ない。
エレベーターに乗ると、
「俺ら、着替えてからゲストルームに行くから」
海斗くんの言葉に頷き、私はひとり先に九階で降りた。
栞さんがいない今、このドアの内側から出迎えてくれるのは唯兄しかいない。
ドアを開け「ただいま」と声を発すると、キッチンから唯兄が出てきた。
だし汁のいい香りがする。
「おかえり……って顔色悪いなぁ……」
「ん、でも大丈夫。着替えて手洗いうがい済ませたら、ご飯の用意手伝うね」
それだけ伝えて、玄関脇の自分の部屋に入った。
唯兄の作るお昼ご飯は麺類が多い。夕飯も麺類が多いものの、夕飯に関してはイタリアンでパスタ。逆に、昼食は和食のお蕎麦かおうどん。
唯兄の作るご飯はびっくりするくらい美味しくて、しかも意外と栄養バランスが良かったりする。意外すぎて蒼兄と顔を見合わせるばかりだ。
司先輩は隠し味に何を使っているのかを当てるのが日課になっているし、湊先生も驚くほどの腕前だった。
唯兄は、「家庭の域を出ませんよ」なんて言うけれど、それは謙遜だと思う。
制服は着替えたけれど、身体がだるい。だるいというよりは眠い……。
手洗いうがいをすませてキッチンへ行くと、
「リィは座ってな」
キッチンに入って早々追い出された。でも、今キッチンに入ったところで足手まといにしかならない気もして、その言葉に甘えることにする。
私の定位置。ラグに座ってテーブルに身体を倒す。と、頬にテーブルのひんやり感が伝わる。
玄関から音が聞こえると、海斗くんと司先輩が入ってきた。司先輩はキッチンに直行で、海斗くんは真っ直ぐリビングへやってくる。
「やっぱ具合悪いの?」
「うーんと……眠いの」
テーブルから海斗くんの顔を見上げながら答える。と、
「翠、丼置くからどいて」
司先輩に言われて身体を起こす。
「今日はきのこと豚肉の味噌汁風煮込みうどん!」
美味しそうだけど眠い……。
「リィ、ちょっとでいいから食べて薬飲んで寝ちゃいな。二、三時間もしたら起こしてあげるから」
「……うん」
「だめだな。翠葉、もう頭回ってないっぽい」
「……このまま寝かせたらどうですか?」
海斗くんと司先輩の言葉に、「それはだめ」と唯兄が言いきった。
「湊さんから薬は定時に飲ませるように言われてるから」
「うん。食べて飲んで寝る」
うとうとしながらお味噌汁をすすり、おうどんを何本か食べた。 きし麺好き……。なめこもしいたけもしめじもまいたけも美味しい。
「リィ、そこまででいいよ。スープ自体はまだ残ってるから、あとでおなかがすいたら麺だけ茹でればいいし。ほら、薬」
目の前にお水と薬を出されて、それを飲んだら身体が浮いた。
いや、何かおかしい……。普通、身体は浮かない……。
何が起っているのかと顔を上げると、司先輩の顔が近くにあった。
「部屋まで運ばせろ。このまま歩かせたら壁に激突するだろ」
「あ……」
抱っこされていた。自分で歩くと言いたいけど眠い……。
ベッドに下ろされると、 「ここのリビングで勉強してるから、起きたら勉強に加わるもひとりで勉強するもご自由に」
「……うん」
瞼が重くてあまりはっきりと見えないのだけど、司先輩がものすごく優しい顔をした気がした。
優しい顔をしている先輩と何かを話したくて、「明日は晴れるかな」と訊いたら、「そうだといいな」という返事があり、部屋のドアが閉まる音がした。
唯兄に起こされると、寝てから三時間も経っていた。
「一度起こしにきたんだけど、ぐっすり寝てて起きなかった」
「ごめん。でも、ありがとう。なんとなく頭がすっきりした気がする」
寝ようと思えば何時間でも眠れそうな気はしたけれど、さっきよりは頭がはっきりとしていて、今なら少しは試験勉強ができる気がした。
「俺は夕方まで十階で仕事してるから」
唯兄は部屋を出ると、そのまま玄関を出ていった。
そういえば、最近は唯兄があまり死にそうな顔をして仕事をしていない。
忙しい時期は終わったのだろうか。でも、秋斗さんがマンションに帰ってきたという話は聞かないし、唯兄がいつホテルに戻るという話も聞かない。
「……私の、せい?」
頭をよぎったのは自分という存在。
誰かから、首の擦過傷の話を聞いたとか……?
口止めをしたのは海斗くんだけで、司先輩にも湊先生にも楓先生にも美波さんにも、誰にも言わないでほしいとはお願いしなかった。だから、誰かが話していてもおかしくなくて、でも、言わないでくれると思っている自分もいて――
普通ではないことは何? 本来あるべき姿は何?
マンションにいるはずの人は秋斗さんと栞さんで、いないはずなのは私と蒼兄と唯兄。
それが意味するものは何――?
コンコンコンコン――
「翠、起きてるって聞いたけど……?」
ドア口に司先輩が立っていた。
「つ、かさ、先輩……」
「まだ寝ぼけてる?」
少し呆れたような声でベッドに近づいてきた。
「何考えてた?」
「え?」
「……ろくでもないこと考えてただろ」
ろくでもないこと……。
「あぁ、違った。俺にはろくでもないことでも、翠にとっては大切なこと、だったか?」
先輩はベッド脇に膝をつくと、私の目に手をかざし、
「十秒だ」
「え……?」
「十秒数えたら起きて勉強」
そう言って、低く落ち着いた声でゆっくりと数を数え始めた。
その声を聞いていると、ざわざわとした心が静かになっていく。まるで魔法のよう。一から十までの単なる数字なのに、何かの呪文のように思えた。
「……八、九、十――」
瞼の向こうが明るくなる。
「ハーブティー淹れて待ってる。最初に数学でもやって頭の回転率上げろ」
部屋を出て行く先輩の背中をじっと見る。
決して体格がいいわけじゃない。ぱっと見なら華奢に見えるくらい細身だ。でも、頼りになる背中だった。
それを認めるということは、自分が周りに甘えているということ――
今の自分は周りに支えてくれる人がいるからここにいることができる。だとしたら、私は本当は自分の足では立ってなどいないのではないだろうか。
自分だけの力だったら、本当はどこに立っているのだろう……。
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