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第九章 化学反応
02話
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「んじゃ、診察とまいりましょうか」
「え?」
「しーんーさーつ。俺、医者。君、患者。OK?」
「……はぁ」
主治医とはわかっているものの、どうもお医者様には見えなくて、何を言われたのかが一瞬わからなかった。
「適当に触るから、痛いと思ったら言えよ?」
「はい」
先生は親指で左右対称に身体のところどころを押していく。さして強くは押されていないにもかかわらず、どこを押されても痛かった。
カルテには人間型のはスタンプが押されてあり、先生は事細かにチェックを入れていく。そこにPHSが鳴った。
「はい、神崎。――あー、持ってきてください」
会話は以上。元通り、白衣のポケットにPHSをおさめる。
「今からひとつ検査をする」
「……何をするんですか?」
それは痛い……?
「安心しな。採血よりも痛くない」
先生は口元に笑みを浮かべた。
「ペインビジョンっていう知覚、痛覚定量分析装置だ。小難しい説明をすっとだな……電流知覚闘値を計測して、痛みと同等となる電気刺激を計測する。つまるところ、君がどのくらいの痛みを感じているのか数値にして教えてくれるものだ」
……そんな検査、今まで受けたことがない。
病室のドアを軽くノックする音が聞こえ、「こちらに置いておきます」という声だけが聞こえた。人が入ってくる気配はなかった。
部屋の入り口に置かれたであろう検査機器を先生が取りにいくと、私に見える場所へと持ってきてくれた。
「この機械を導入している病院はまだ少ない。今回は紫さんに頼んで緊急で取り寄せてもらったんだ。これで、君がどのくらい痛い思いをしているのかがわかる」
機械を起動させると検査が始まった。
腕に電極をつけ、電流を流し始める。いつも感じている痛みよりも強いと感じたらハンドスイッチを押すように言われていたので、これ以上は耐えられないと思ったところでスイッチを押した。
先生はパソコンのモニターを見たまま何も言わない。
「……先生?」
「あぁ、悪い……。少しびっくりしたんだ」
先生は曖昧な笑みを浮かべ、すぐにデータをプリントアウトした。
検査自体はさほど痛いと感じるものではなかったけれど……。
「あの、検査結果は……?」
「数値で言うなら一六一五だ」
初めての検査で数値だけを言われても要領を得ない。
「リウマチの患者が平均して四〇〇。健康な人間なら数値は出ない。つまり、君は相当な痛みに耐えているわけだ」
先生はひどく真剣な眼差しでまじまじと私を見ている。
何を言われるわけでもない。けれども怒っているような、責めるような視線に見えるのは気のせいだろうか。
「こんな痛みをどうしてひとりで耐えようとする?」
なんだ、そんなこと……。
「……だって、誰かに代わってもらえるものではないし、誰に言っても理解してもらえるものでもなかった。どれだけ痛いと訴えたところで炎症値が出なければ処置すらしてくれない病院だってある。今じゃ薬すら効かなくなってきていて――そんな状況で誰に何を言えって言うのっ!? 誰かに言ったら楽にしてくれたっ!?」
だめだ、涙が止まらない。沸々と湧きだす感情にも歯止めがかけられない。
最近、こういう話をすると冷静になれない。どうしても感情的になってしまう。
「悪かった……。確かに、今までがそうだったから諦めるしかなかったんだろうな」
先生はサイドテーブルに置いてあったティッシュを私の手に押し付け、頭にポン、と手を乗せる。
「君は、たぶん線維筋痛症という病気なんだ。俺はこの手の分野は専門外でね。相馬の受け売りなんだが――」
と、私の身体の状態を少しずつ話してくれた。
「通常、痛みを感じれば脳が痛みに対してブレーキをかける。それでバランスを保って痛みを緩和するんだが、君の場合は痛みだけが加速して、ブレーキが壊れていてきかない。だから、痛みだけがどんどん加速して膨れ上がる。それがこの病気の特徴だな。痛みが続けばメンタルにも影響を与えるし、そうすれば必然的に自律神経も乱れる。今の君の状態は正にそれだ」
「……それは、治る?」
「繊維筋痛症に劇的に効く薬はない。そして、外科処置でどうにかなるものでもない。それから、自律神経失調症においては君も知っているとおり。基本は規則正しい生活とバランスの取れた食生活、ほか自律神経訓練法くらいしかバランスを整える方法はない。……だが、そんなことはもう実践済みだと栞から聞いている」
「……治らないの?」
「それをどうにかできる医者が来月帰国する。相馬一樹――ヤツが帰ってくるまでは、俺が責任を持って痛みには対処する」
少し前の私ならそれだけでも喜べただろう。でも今は、奈落の底に突き落とされた気分だ。
病名がわかったら、もう少し気持ちが楽になるものだと思っていた。でも、手の打ちようがないのなら、意味はない。病名がわかっても治らないのなら、意味はない。
「翠葉ちゃん、この病気は日本では学会が立ち上がったばかりだが、アメリカではもっと前から知られている病気なんだ。相馬はアメリカに長いこといた。だから――」
「だから何? ……先生、ひとりになりたい……。ひとりに、してください」
気持ちの折り合いをつけるのに時間がかかりそうだ。こんなことを言われて、どう受け止めたらいいのかがまるでわからない。
「最近になって、この病気に有効な薬も出てきた。君がまだ試していない薬がある。だから、まだ諦めるな」
そんなことを言われても――
「これまで色んな病院をたらいまわしにされてきたって聞いてる。でも、君は詐病じゃない。普通の人が感じたら失神してしまうような痛みと闘ってきたんだ。それは今の検査で証明された」
「そんなのっっっ、なんの救いにもならないっ。出ていってっっっ」
「……一気に色んなことを話しすぎて悪かった。でも、君には知る権利があるし、知ったほうがいいと思ったから話した。自棄にはなるな。……廊下にいる。何かあればすぐに呼べ」
先生はそう言うと、検査機器と一緒に部屋を出ていった。
この痛みと共存していかなくてはいけないのなら、もう生きていたくない。
それに、これ以上こんな自分に家族を付き合わせるのも申し訳なさすぎる。
これを飲んだら死ねるという薬が目の前にあったなら、何を考えることなく飲み下すのに――
ひとりになって少し冷静になると、情報が欲しくなった。「線維筋痛症」という病気の詳細が知りたくなった。でも、誰に訊いたらいいのだろう。
……ううん、訊くよりも調べたい。どんなことが書かれていようとも、オブラートに包まれた曖昧な表現ではなく、明確な情報を得たい。
「誰を頼ればいいのかな……」
真っ先に司先輩が頭に浮かんだ。でも、先輩はインターハイ前だ。ほかに――
蒼兄や唯兄とも思ったけれど、まだ家族には知らせたくない。
神崎先生はさっきの触診と検査で病名を特定したのだろう。ならば、まだ家族には連絡が行っていないはず。
「……神崎先生」
今はこの人以外誰も頼れない。
先生はすぐに姿を現した。
「痛みじゃなさそうだな」
「……その病気のことを知りたいです。先生は専門家ではないのでしょう? なら、ネットで拾える情報でもいいです。なんでもいいから、知りたい……」
「ここに、ネットで調べたもののコピーがある。読むか?」
紙の束を見せられ、コクリと頷いた。
「泣いたり感情的になったり――かと思えば、冷静に現実を見る」
「……すみません」
「謝らなくていい。どんな状況でも現況を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ、建設的だ」
私はそんなふうに考えて動いているわけではない。きっと、向き合うために資料を読むわけでもない。ただ、もうどうやっても這い上がれないところまで自分を突き落とすために読むのだ。
読めば読むほどに合致する自分との身体症状。文字を目で追っては呆然とするしかなかった。
治療方法は確立されていない。普通の血液検査やCT、MRIなどの検査では異常が見つからない。そして、この病気は医療従事者の三割の人にしか認知されていないらしい。
この病院にたどり着くまで、何件の病院を回っただろう。そして、何度同じような検査をしてきただろうか。
病院に行っては診察待ち、検査をするのに予約を取り、その日のうちに検査ができたとしても何時間ともわからない順番待ち。結果的には異常なしで片付けられ、精神科へと回される。
子どもである自分ですら、病院に対して不信感を抱いていた。それを思えば、私に付き添ってくれていた両親はどれほどのストレスを抱えていたことだろう。
そんなことを思い出していると、低い声が上から降ってくる。
「相馬からはトリガーポイントブロックという治療をするように指示されている」
「トリガーポイント……?」
聞いたことのない言葉だった。
「痛みを引き起こす、誘引する場所に局部麻酔より浅い部分に細い針の注射器で、少量の麻酔を入れていく」
局部麻酔という言葉に身体がビクリとした。
「君が怖がってる注射とは別物だ。あんな、神経の中枢に刺すようなものじゃないし、分量ももっと少ない。ただ、場所にして数十箇所に刺すことになる。それもほぼ毎日。君が運ばれてきたときにもひととおり処置はした。今はどうだ?」
そう言われてみれば、目覚めたときにも不思議に思った。痛みが軽いと……。
「……耐えられる痛みです」
「これからは耐えなくていい。知覚神経が覚えている痛みが君の最大の敵だと思ってくれ。これからはその神経に痛みを忘れてもらう。そういう治療だ」
身体の記憶を消す、ということ?
「その治療をこれから毎日続ける」
治療法は確立されていないと書かれていたけど、何かしら手立てがあるの……?
「先生……相馬先生はどこにいるんですか?」
「今はまだアメリカだ」
「電話でお話することはできますか?」
「……できるが、最っ高に柄が悪いぞ? 腕はいいんだがな」
この際、柄や性格はどうでもいい。
「話せるのなら、話したいです」
「わかった」
先生はPHSから発信すると、流暢な英語を話し始めた。
「あ、俺だ。うっせーな。かわいいお姫様がおまえにご用だとよ。――あ? あぁ、多分間違いない。ペインビジョンの数値は一六一五。圧痛点もほぼ全箇所ヒットだ。――じゃ、代わるけど、少しくらいは紳士ぶれよ」
大きな手にPHSを渡された。
「……お忙しいところすみません。御園生翠葉と申します」
『おぉ、俺の患者一号さんな?』
「あの……私の痛み、治りますか?」
それだけが知りたい。それ以外はどうでもいい。
『完治は難しいかもな。何せ、治療法が確立されてないんだ』
……やっぱり。
『でも、痛みを軽減することや防衛策は練れなくもねぇ。こっちの後片付けと入国に手間取りそうだから、しばらくは昇の治療を受けててくれ』
「……はい。お忙しいところ失礼しました」
やっぱり、「治る」なんて言葉は期待するだけ無駄だった。
ズン、と肩に重いものが乗って、そのまま地中深くに押し込まれるような感覚を得る。けれども、肩に置かれたのは先生の手だった。
「君のここ」
先生は私の頭をツンツン、とつつく。
「長らく飢餓状態にあってホルモンバランスが崩れてるんだ。脳内ホルモン――ドーパミン、ノルアドレナリン、セレトニンの三つが脳を司る主要ホルモン。それらが崩れると躁鬱になったり抑鬱になったりする。気持ちの浮き沈みが激しかったり涙が止まらなくなるのはそのせいだ」
先生はわけのわからない横文字を日常会話のように話しだす。
「あまりにもひどければ薬を使うという手もあるが、君の場合はエネルギーや必要な栄養が足りてない状況っていうのがわかってるから、薬の処方はしない。痛みはこっちで引き受けてやる。だから、経口摂取くらいは自分でできるようにしろ。そうすりゃ自然と治る」
そんなのっ、できたらしてるっっっ。
思い切り睨みつけたけど、そんなことはものともせずに訊いてくる。
「匂いがだめだと聞いた。具体的には何がだめだった?」
顔の筋力がふと緩む。
何、が――?
ひとつひとつゆっくりと思い出す。
「洗剤や柔軟剤の香り。それから香水、アイソトニック飲料の香り。栞さんの手作りのスープもだめで、お水しか飲めなくて……」
ほかには――
「ハーブティー……。ハーブティーは飲めました」
「なるほどね。一時的なものかもしれないけど、化学物質過敏症っぽい症状だな。人工的な香りが全般的にだめってことだ。じゃ、まずは重湯から試してみるかね」
先生は自然な動作でスツールに腰掛けた。
……いったいいつまでこの部屋にいるつもりなのだろう。
太陽はまだ高い位置にあり、外は先生が言うように三十五度くらいあるのだろう。
空調管理されている病室からは想像でしかわからない外の世界。手をかざし、その手を通り抜けてくる光に目を細める。
アスファルトの上はもっと熱いんだろうな……。
「閉めてやろうか?」
「え……?」
「カーテン」
「だめっっっ」
「……眩しいんじゃないのか?」
「あのっ、本当にいいので――」
光を遮られたら、何を道標にしたらいいのかわからなくなってしまう。
もう、とっくに心の中なんて真っ黒だし真っ暗だ。でも、あの太陽の光だけはまだ見える気がするから……。小さな点でもいいから、それだけは遮っちゃいけない気がした――
※ このお話を書き始めたのは2009年です。
そして、日本の線維筋痛症学会は2009年にできました。
今ではこの病気に対する認知度、研究も進み、治療薬も認可されています。
「え?」
「しーんーさーつ。俺、医者。君、患者。OK?」
「……はぁ」
主治医とはわかっているものの、どうもお医者様には見えなくて、何を言われたのかが一瞬わからなかった。
「適当に触るから、痛いと思ったら言えよ?」
「はい」
先生は親指で左右対称に身体のところどころを押していく。さして強くは押されていないにもかかわらず、どこを押されても痛かった。
カルテには人間型のはスタンプが押されてあり、先生は事細かにチェックを入れていく。そこにPHSが鳴った。
「はい、神崎。――あー、持ってきてください」
会話は以上。元通り、白衣のポケットにPHSをおさめる。
「今からひとつ検査をする」
「……何をするんですか?」
それは痛い……?
「安心しな。採血よりも痛くない」
先生は口元に笑みを浮かべた。
「ペインビジョンっていう知覚、痛覚定量分析装置だ。小難しい説明をすっとだな……電流知覚闘値を計測して、痛みと同等となる電気刺激を計測する。つまるところ、君がどのくらいの痛みを感じているのか数値にして教えてくれるものだ」
……そんな検査、今まで受けたことがない。
病室のドアを軽くノックする音が聞こえ、「こちらに置いておきます」という声だけが聞こえた。人が入ってくる気配はなかった。
部屋の入り口に置かれたであろう検査機器を先生が取りにいくと、私に見える場所へと持ってきてくれた。
「この機械を導入している病院はまだ少ない。今回は紫さんに頼んで緊急で取り寄せてもらったんだ。これで、君がどのくらい痛い思いをしているのかがわかる」
機械を起動させると検査が始まった。
腕に電極をつけ、電流を流し始める。いつも感じている痛みよりも強いと感じたらハンドスイッチを押すように言われていたので、これ以上は耐えられないと思ったところでスイッチを押した。
先生はパソコンのモニターを見たまま何も言わない。
「……先生?」
「あぁ、悪い……。少しびっくりしたんだ」
先生は曖昧な笑みを浮かべ、すぐにデータをプリントアウトした。
検査自体はさほど痛いと感じるものではなかったけれど……。
「あの、検査結果は……?」
「数値で言うなら一六一五だ」
初めての検査で数値だけを言われても要領を得ない。
「リウマチの患者が平均して四〇〇。健康な人間なら数値は出ない。つまり、君は相当な痛みに耐えているわけだ」
先生はひどく真剣な眼差しでまじまじと私を見ている。
何を言われるわけでもない。けれども怒っているような、責めるような視線に見えるのは気のせいだろうか。
「こんな痛みをどうしてひとりで耐えようとする?」
なんだ、そんなこと……。
「……だって、誰かに代わってもらえるものではないし、誰に言っても理解してもらえるものでもなかった。どれだけ痛いと訴えたところで炎症値が出なければ処置すらしてくれない病院だってある。今じゃ薬すら効かなくなってきていて――そんな状況で誰に何を言えって言うのっ!? 誰かに言ったら楽にしてくれたっ!?」
だめだ、涙が止まらない。沸々と湧きだす感情にも歯止めがかけられない。
最近、こういう話をすると冷静になれない。どうしても感情的になってしまう。
「悪かった……。確かに、今までがそうだったから諦めるしかなかったんだろうな」
先生はサイドテーブルに置いてあったティッシュを私の手に押し付け、頭にポン、と手を乗せる。
「君は、たぶん線維筋痛症という病気なんだ。俺はこの手の分野は専門外でね。相馬の受け売りなんだが――」
と、私の身体の状態を少しずつ話してくれた。
「通常、痛みを感じれば脳が痛みに対してブレーキをかける。それでバランスを保って痛みを緩和するんだが、君の場合は痛みだけが加速して、ブレーキが壊れていてきかない。だから、痛みだけがどんどん加速して膨れ上がる。それがこの病気の特徴だな。痛みが続けばメンタルにも影響を与えるし、そうすれば必然的に自律神経も乱れる。今の君の状態は正にそれだ」
「……それは、治る?」
「繊維筋痛症に劇的に効く薬はない。そして、外科処置でどうにかなるものでもない。それから、自律神経失調症においては君も知っているとおり。基本は規則正しい生活とバランスの取れた食生活、ほか自律神経訓練法くらいしかバランスを整える方法はない。……だが、そんなことはもう実践済みだと栞から聞いている」
「……治らないの?」
「それをどうにかできる医者が来月帰国する。相馬一樹――ヤツが帰ってくるまでは、俺が責任を持って痛みには対処する」
少し前の私ならそれだけでも喜べただろう。でも今は、奈落の底に突き落とされた気分だ。
病名がわかったら、もう少し気持ちが楽になるものだと思っていた。でも、手の打ちようがないのなら、意味はない。病名がわかっても治らないのなら、意味はない。
「翠葉ちゃん、この病気は日本では学会が立ち上がったばかりだが、アメリカではもっと前から知られている病気なんだ。相馬はアメリカに長いこといた。だから――」
「だから何? ……先生、ひとりになりたい……。ひとりに、してください」
気持ちの折り合いをつけるのに時間がかかりそうだ。こんなことを言われて、どう受け止めたらいいのかがまるでわからない。
「最近になって、この病気に有効な薬も出てきた。君がまだ試していない薬がある。だから、まだ諦めるな」
そんなことを言われても――
「これまで色んな病院をたらいまわしにされてきたって聞いてる。でも、君は詐病じゃない。普通の人が感じたら失神してしまうような痛みと闘ってきたんだ。それは今の検査で証明された」
「そんなのっっっ、なんの救いにもならないっ。出ていってっっっ」
「……一気に色んなことを話しすぎて悪かった。でも、君には知る権利があるし、知ったほうがいいと思ったから話した。自棄にはなるな。……廊下にいる。何かあればすぐに呼べ」
先生はそう言うと、検査機器と一緒に部屋を出ていった。
この痛みと共存していかなくてはいけないのなら、もう生きていたくない。
それに、これ以上こんな自分に家族を付き合わせるのも申し訳なさすぎる。
これを飲んだら死ねるという薬が目の前にあったなら、何を考えることなく飲み下すのに――
ひとりになって少し冷静になると、情報が欲しくなった。「線維筋痛症」という病気の詳細が知りたくなった。でも、誰に訊いたらいいのだろう。
……ううん、訊くよりも調べたい。どんなことが書かれていようとも、オブラートに包まれた曖昧な表現ではなく、明確な情報を得たい。
「誰を頼ればいいのかな……」
真っ先に司先輩が頭に浮かんだ。でも、先輩はインターハイ前だ。ほかに――
蒼兄や唯兄とも思ったけれど、まだ家族には知らせたくない。
神崎先生はさっきの触診と検査で病名を特定したのだろう。ならば、まだ家族には連絡が行っていないはず。
「……神崎先生」
今はこの人以外誰も頼れない。
先生はすぐに姿を現した。
「痛みじゃなさそうだな」
「……その病気のことを知りたいです。先生は専門家ではないのでしょう? なら、ネットで拾える情報でもいいです。なんでもいいから、知りたい……」
「ここに、ネットで調べたもののコピーがある。読むか?」
紙の束を見せられ、コクリと頷いた。
「泣いたり感情的になったり――かと思えば、冷静に現実を見る」
「……すみません」
「謝らなくていい。どんな状況でも現況を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ、建設的だ」
私はそんなふうに考えて動いているわけではない。きっと、向き合うために資料を読むわけでもない。ただ、もうどうやっても這い上がれないところまで自分を突き落とすために読むのだ。
読めば読むほどに合致する自分との身体症状。文字を目で追っては呆然とするしかなかった。
治療方法は確立されていない。普通の血液検査やCT、MRIなどの検査では異常が見つからない。そして、この病気は医療従事者の三割の人にしか認知されていないらしい。
この病院にたどり着くまで、何件の病院を回っただろう。そして、何度同じような検査をしてきただろうか。
病院に行っては診察待ち、検査をするのに予約を取り、その日のうちに検査ができたとしても何時間ともわからない順番待ち。結果的には異常なしで片付けられ、精神科へと回される。
子どもである自分ですら、病院に対して不信感を抱いていた。それを思えば、私に付き添ってくれていた両親はどれほどのストレスを抱えていたことだろう。
そんなことを思い出していると、低い声が上から降ってくる。
「相馬からはトリガーポイントブロックという治療をするように指示されている」
「トリガーポイント……?」
聞いたことのない言葉だった。
「痛みを引き起こす、誘引する場所に局部麻酔より浅い部分に細い針の注射器で、少量の麻酔を入れていく」
局部麻酔という言葉に身体がビクリとした。
「君が怖がってる注射とは別物だ。あんな、神経の中枢に刺すようなものじゃないし、分量ももっと少ない。ただ、場所にして数十箇所に刺すことになる。それもほぼ毎日。君が運ばれてきたときにもひととおり処置はした。今はどうだ?」
そう言われてみれば、目覚めたときにも不思議に思った。痛みが軽いと……。
「……耐えられる痛みです」
「これからは耐えなくていい。知覚神経が覚えている痛みが君の最大の敵だと思ってくれ。これからはその神経に痛みを忘れてもらう。そういう治療だ」
身体の記憶を消す、ということ?
「その治療をこれから毎日続ける」
治療法は確立されていないと書かれていたけど、何かしら手立てがあるの……?
「先生……相馬先生はどこにいるんですか?」
「今はまだアメリカだ」
「電話でお話することはできますか?」
「……できるが、最っ高に柄が悪いぞ? 腕はいいんだがな」
この際、柄や性格はどうでもいい。
「話せるのなら、話したいです」
「わかった」
先生はPHSから発信すると、流暢な英語を話し始めた。
「あ、俺だ。うっせーな。かわいいお姫様がおまえにご用だとよ。――あ? あぁ、多分間違いない。ペインビジョンの数値は一六一五。圧痛点もほぼ全箇所ヒットだ。――じゃ、代わるけど、少しくらいは紳士ぶれよ」
大きな手にPHSを渡された。
「……お忙しいところすみません。御園生翠葉と申します」
『おぉ、俺の患者一号さんな?』
「あの……私の痛み、治りますか?」
それだけが知りたい。それ以外はどうでもいい。
『完治は難しいかもな。何せ、治療法が確立されてないんだ』
……やっぱり。
『でも、痛みを軽減することや防衛策は練れなくもねぇ。こっちの後片付けと入国に手間取りそうだから、しばらくは昇の治療を受けててくれ』
「……はい。お忙しいところ失礼しました」
やっぱり、「治る」なんて言葉は期待するだけ無駄だった。
ズン、と肩に重いものが乗って、そのまま地中深くに押し込まれるような感覚を得る。けれども、肩に置かれたのは先生の手だった。
「君のここ」
先生は私の頭をツンツン、とつつく。
「長らく飢餓状態にあってホルモンバランスが崩れてるんだ。脳内ホルモン――ドーパミン、ノルアドレナリン、セレトニンの三つが脳を司る主要ホルモン。それらが崩れると躁鬱になったり抑鬱になったりする。気持ちの浮き沈みが激しかったり涙が止まらなくなるのはそのせいだ」
先生はわけのわからない横文字を日常会話のように話しだす。
「あまりにもひどければ薬を使うという手もあるが、君の場合はエネルギーや必要な栄養が足りてない状況っていうのがわかってるから、薬の処方はしない。痛みはこっちで引き受けてやる。だから、経口摂取くらいは自分でできるようにしろ。そうすりゃ自然と治る」
そんなのっ、できたらしてるっっっ。
思い切り睨みつけたけど、そんなことはものともせずに訊いてくる。
「匂いがだめだと聞いた。具体的には何がだめだった?」
顔の筋力がふと緩む。
何、が――?
ひとつひとつゆっくりと思い出す。
「洗剤や柔軟剤の香り。それから香水、アイソトニック飲料の香り。栞さんの手作りのスープもだめで、お水しか飲めなくて……」
ほかには――
「ハーブティー……。ハーブティーは飲めました」
「なるほどね。一時的なものかもしれないけど、化学物質過敏症っぽい症状だな。人工的な香りが全般的にだめってことだ。じゃ、まずは重湯から試してみるかね」
先生は自然な動作でスツールに腰掛けた。
……いったいいつまでこの部屋にいるつもりなのだろう。
太陽はまだ高い位置にあり、外は先生が言うように三十五度くらいあるのだろう。
空調管理されている病室からは想像でしかわからない外の世界。手をかざし、その手を通り抜けてくる光に目を細める。
アスファルトの上はもっと熱いんだろうな……。
「閉めてやろうか?」
「え……?」
「カーテン」
「だめっっっ」
「……眩しいんじゃないのか?」
「あのっ、本当にいいので――」
光を遮られたら、何を道標にしたらいいのかわからなくなってしまう。
もう、とっくに心の中なんて真っ黒だし真っ暗だ。でも、あの太陽の光だけはまだ見える気がするから……。小さな点でもいいから、それだけは遮っちゃいけない気がした――
※ このお話を書き始めたのは2009年です。
そして、日本の線維筋痛症学会は2009年にできました。
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後悔の念が強すぎて、この世に魂が残ってしまったりん。
尚也はそんなりんを無事に成仏させるため、りんと共同生活をすることを決意する。
また新学期の学校では、尚也は学園のアイドルこと花宮琴葉と同じクラスで席も近くなった。
尚也は1年生の時、たまたま琴葉が困っていた時に助けてあげたことがあるのだが……
霊能者の尚也、ギャル地縛霊のりん、学園のアイドル琴葉。
3人とその仲間たちが繰り広げる、ちょっと不思議な日常。
愉快で甘くて、ちょっと切ない、ライトファンタジーなラブコメディー!
※本作品はフィクションであり、実在の人物や団体、製品とは一切関係ありません。
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