光のもとで1

葉野りるは

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第十一章 トラウマ

39話

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 本当は身体を冷やさないほうがいいこともわかっている。でも、じっとしていると痛みに神経が集中して余計に痛くなってしまいそうだったから外へ出た。
 それと、ここへ来た本当の目的――
 昨日は森林と噴水を見た。見ていないのはチャペルのみ……。
 こんな朝早くから式を挙げるということはないだろうから、鍵がかかっていなければ見られるかもしれないと思ったのだ。
 廊下を歩く人はみんなレストランへと向かって歩いている。
 品のいい老夫婦であったり、きれいに着飾った女の人をエスコートする男の人。
 藤倉のウィステリアホテルとは少し客層が違う感じ。もしくは、時間の流れが違う。
 藤倉のホテルでは、もう少しテンポよく人が動いていた気がする。ここは、とてもゆっくりと時間が過ぎる。人の歩みひとつとっても、その差が歴然とわかるようだった。
 噴水広場に着くと迷わずチャペルへと向かう。チャペルのドアの前に立つと足が竦んだ。
 私は立ち止まったまま、ひとつの画像を携帯から呼び出す。
 自分が撮ったはずの画像データをパソコンから携帯へ送っていたのだ。
 チャペルの扉は普通のドアとは違う。両開きなのはもちろんのこと、目の前に立ちふさがるような印象を受けなくもない。これが木製ではなく黒い鉄製だったら、さぞかし威圧感があったことだろう。
 色や素材が与える効果は絶大――
 ごくり、と唾を飲み込み扉に手をかけようとしたとき、
「お嬢様、おはようございます」
 視界の隅に木田さんをとらえた。
「おはようございます」
「今、チャペルのロックを解除したばかりですので中はまだ冷えますが、私でよろしければご案内いたしましょう」
 携帯に目をやると、七時四十五分と表示されている。
「……今のお時間はお忙しいんじゃ――」
「お気になさらずに。当ホテルには優秀なスタッフが揃っております」
 職場や従業員を誇りに思っているのがわかる受け答えだった。
「さ、ドアを開けましょう」
 木田さんが重そうな扉を手前に引く。
 入り口から伸びるのは大理石のバージンロード。
「真っ白――」
 写真には虹のような光が写っているのに、そこには何もなく白い大理石だけがあった。
「じきにあたたかくなりますから、中へどうぞ」
 扉の前で靴を脱ぎたくなる衝動を抑え、私は真っ白なバージンロードに足を踏み出した。
「あちらを」
 木田さんに勧められたのは、壁面に設置されているステンドガラス。
「あ……」
 携帯の画像とそれを見比べる。
「きっとあそこから差し込んだ光をお撮りになられたのでしょう。そのお写真は来年度から、こちらのパレスのパンフレットに使用されるとうかがっております」
「そうなんですか……?」
「お客様からしてみたら単なるホテルのパンフレットにすぎないかもしれません。ですが、ここで働いている私たちは、自分の職場をこのように撮影していただけたことをとても嬉しく思っております。ウィステリアホテルグループにおいては、オーナーである静様が贔屓にしておられる久遠様とお嬢様が撮影された写真でパンフレットが作られるということはとても栄誉あることなのですよ」
 え――?
「今、久遠さんって……久遠さんって仰いましたかっ!?」
「はい、申しました」
 木田さんはにこりと笑う。
「どうして、久遠さん……?」
「お嬢様は久遠様のファンでしたか?」
「はいっ! 写真集は二冊とも持っていますっ」
 思わず、手にも声にも力が入ってしまう。
「久遠様は、現時点では静様と個人契約をされているカメラマンでいらっしゃいます。ですので、出版する際も静様の伝手を使った出版社からのみの出版ですし――いつかお会いできるかもしれませんね」
 久遠さん――年令も顔も何もかもが謎に包まれている写真家さん。
 写真集の奥付に記載されるオフィシャルサイトからメールを送ったことがある。それはとても短いメール。


 すてきな世界を見せてくださりありがとうございます。
 私もカメラに興味を持ちました。
 こんなにすてきな世界は撮れそうにないけれど、
 私の身の回りにあるものを、
 自分が感じたままに表現できるようになりたいです。


 一ヶ月ほどしたころ、そのメールに返信が届いた。


 初版をお手に取っていただきありがとうございます。
 きっとSuihaさんにしか撮れない写真があると思います。
 素敵なカメラライフが始まりますように。
 自分もやっとスタートラインに立ちました。


 久遠さんの写真集は初版に限りシリアルナンバーが記載されており、メールフォームに必要事項とシリアルナンバーを入力すると久遠さんから返信メールが届くというプレゼント企画付きなのだ。
 ゆえに、初版発行数は少なく、実店舗の書店でしか購入できない。
 初版以降はネット購入も可能になるし、増刷数も増える。
 カメラを手にして、初めてカメラ雑誌を買ったときの特集にそう書いてあった。
 久遠さんのサイトには別途メールフォームや掲示板があるけれど、そこに返信コメントがつくことはない。
 サイトには、「いつもありがとうございます。いただいた感想やコメントは大切に読ませていただいております」の記載があるのみ。
 だからこそ、ファンの人たちは初版の写真集を手にしたいわけで、プレミア度が増すのだ。
 ファンとしては複雑な心境……。もっとたくさんの人に久遠さんの写真を見てもらいたいけれど、それで自分が初版を手にできなくなる日がくるのかと思うとちょっと切ない。
 木田さんはチャペルの説明をひとつひとつしてくれ、今の季節はお昼近くにならないと、この光がバージンロードに映ることはないことも教えてくれた。
「まだこのパレスでもお嬢様がリメラルドであることは伏せられています。が、いつか撮影旅行に来ていただける日を楽しみにしております」
 急にお仕事の話になり少し困惑する。
 昨日だって写真を撮る時間はたくさんあったのに、一枚も写真を撮ることができなかった。
 でも、さっきは写真を撮りたいと思った。
 カメラは好きだし写真を撮りたくないわけじゃない。
 ……きっと、ピアノのコンクールと同じなのだ。
 点数をつけられたり、何かと比べられる、評価されると思うから怖くなる。
 学校のテストは自分だけがその評価を受けるわけだけど、ピアノのコンクールは師事している先生の評価にもつながると知って怖くなった。
 なら写真は――お仕事だから、私を採用した静さんの評価につながるのではないだろうか。
 さらにはウィステリアホテルという大きな企業の評価にすらつながる気がして身動きがとれなくなる。
 でも、目指す人がそこにいる。憧れている人がそこにいる。
「木田さん……ホテルに勤める人たちは、どのくらいの期間研修を受けるのでしょう」
「うちは厳しいですよ。三ヶ月はみっちりと研修を行います。研修期間が終わっても、一定条件をクリアするまではフロアへは出しません」
 やっぱり厳しい世界だよね……。
「私は……写真のお仕事なんてしたことがないんです。お仕事、と意識しただけで写真が撮れなくなってしまいました。どうしましょう……」
 私よりも少しだけ背の高い木田さんはとても優しい笑みを浮かべた。
「誰もが通る道です。アルバイトでも正社員でも。ですが、立ち止まったままでは前へ進めません」
「……どうしたら先へ進めますか?」
「そうですね……とりあえずは歩くことではないでしょうか?」
「歩くこと……? どうしてもその一歩が踏み出せなかったら?」
「人に背中を押してもらって、無理やりにでも進む方法もあります。ですが、踏み出せるまで時を待つ方法もあります」
 待つ――それはどのくらいの期間? どのくらいまでなら待ってもらえるのだろう……。
「静様からうかがったお話ですと、まだたんまりとストックがあるのだとか?」
 それは私が静さんに見せたアルバムのこと? 
「お嬢様はまだお若いのですから、焦る必要などないのですよ」
 その言葉は私の心をふわりと包み込んでくれた。
「……また、こちらにうかがってもいいですか?」
 いつ来られるかなんてわからない。そのときに写真が撮れるようになっているかもわからない。
 でも、ここは好き。木田さんも大好き。
「もちろんです。藤倉からでしたら支倉で乗り換えて、特急列車で一時間くらいです。その際には白野の駅までお迎えにあがります」
 木田さんはスーツの内ポケットから皮のカードケースを取り出し、
「私の名刺です。ホテルの番号も私個人の携帯番号もアドレスも記載してあります。いつでもご連絡ください」
 名刺をいただくのは二回目。初めていただいたのは蔵元さん――あ……。
「木田さん、ありがとうございますっ」
「……? 名刺を渡したことに対してのお礼ではないようですが?」
「実は……私、記憶が少しだけないんです。以前、ここへ来た記憶もなくて……」
「……申し訳ございません。先日静様からうかがって存じておりました」
 あ……だからステンドグラスの光のことを教えてくれたのね。
「今、名刺をいただいたことで、ほかの人に名刺をいただいたことを思い出せました」
「さようですか。何かひとつでもお役に立てたようで良かったです」
 そこへ、
「リィ、ご飯行こうっ!」
 唯兄の声がチャペルに響いた。
 振り返ると、少しだけ開いていた扉から唯兄の顔がひょっこりと覗いていた。
「あ、木田総支配人、おはようございます」
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
「はい、ぐっすりと! ステラハウス、雪が降る前にシーズンオフって本当ですか?」
「えぇ、今はまだ試作段階ですので一度取り壊し、ご利用いただいたお客様のご要望を再度熟考してから、本格的に離宮扱いで建築する予定です」
「なるほど……。だから広報部になんの通達もなかったんですね」
「さ、こちらよりも本館の方があたたかいですよ。お嬢様、あちらへ戻りましょう」
 私は木田さんに促されて歩きだした。
 きれいなチャペルだったけれど、写真のことは思い出せなかったな……。でも、この写真があの場所で撮ったものであることはわかった。それに、蔵元さんと初めて会ったときのことも思い出せた。今はそれで良しとしなくちゃ……。
 ここのところ、立て続けに思い出していることもあり、もしかしたら――と少し安易に考えていたかもしれない。でも、物事はそんなにとんとん拍子に進まない。それが常だと認識しなおさなくてはいけない気がした。
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