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第十四章 三叉路
32話
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「私、記憶が戻りました」
栞さんはとてもわかりやすく動揺した。
洗っていたカップをシンクに落としたのだ。
「びっくりさせてごめんなさい……」
「う、ううんっ。カップも割れていないし――」
動揺はまだ続いていたけれど、落としたカップをきゅ、と掴むと「大丈夫?」と訊かれた。
本当だ……。唯兄は正しい。
人は「大丈夫?」と訊くとき、相手の表情をうかがい見るのだ。
「実は、思い出したことに気づいたのはもう少し前なんです。先日、退院してきた日には記憶が戻っていました。でも、なかなか話せなくて……ごめんなさい。でも、もう混乱も動揺もしたあとだから大丈夫です」
口にして、どんな言い分だろう、と思う。
でも、それが事実なのだ。
もう、動揺してはいない。混乱して逃げもした。今の私は全部やったあとなのだ。
「それから、記憶をなくしたいきさつもきちんと知ってもらいたくて……」
「いきさつ……?」
「はい。……あの流れだと、秋斗さんが原因だと思われているかもしれませんが、違います」
「え?」
「違うんです……。確かに、あのとき何が起こっているのかわからなくて、秋斗さんのことを怖いとも思いました。でも、あの状況から逃げてしまいたかったのは別の理由があります」
「別の、理由……?」
藤原さんが教えてくれた、ラインを引き抜く直前に私が口にした言葉たち。
それは今、私の記憶として私の中にある。
「記憶の話を続けるために十階へ行ったのを覚えていますか?」
「えぇ……覚えているわ」
「そのとき、藤原さんが教えてくれました。私が最後に口にした言葉を」
「……最後に話したこと?」
「――湊先生や秋斗さんたちものすごく仲が良くて……ツカサとだって仲が良かったのに、どうしてこんな――私が、私が。……これが私が記憶をなくす直前に口にした言葉です。そして、これが本当の理由。自分の取った行動ひとつで仲の良かった人たちがギクシャクしだす。その現実に耐えられなかった。自分が入院しなければ、自分がいなければ――そう思うくらいには耐えられなかったんです。だから、秋斗さんのせいじゃない。誰よりもひどいのは秋斗さんじゃなくて私です。だから――」
話の途中で栞さんにぎゅ、と抱きしめられた。
「何も知らなくてごめんね」
それは違う。
あのとき、私が何を考えていたかなんて、その場にいた人ですらわからなかっただろう。わからなくて、知らなくて当然なのだ。
「栞さん、秋斗さんのこと――」
「あのときは感情的になっていたけど、もう大丈夫よ。……翠葉ちゃん、お茶を飲もうか」
栞さんは柔らかな笑みを浮かべ、私はその表情に安心してコクリと頷いた。
ふたりでお茶の用意をするのは久しぶりのことだった。
幸倉の家ではよくしていたことなのに。
ふたりとも、リビングへ移ってラグに座る。
「実はね、あのあと昇に怒られちゃったの」
栞さんは肩を竦めた。
「いくら秋斗でも無理やり翠葉ちゃんを襲うことはない、って。……少し冷静になって考えればわかることなのにね。私、しばらく秋斗くんのこと警戒しすぎていたわ」
「いえ……。それまでの私が私だったから……」
栞さんは私のことをずっと見てきてくれた。
二月からの私を。高校へ通い始めてからの私を。
擦過傷のことも何もかも、栞さんは誰よりも近くで見てきたのだ。
「あまりにも私が秋斗くんを敵視するから、後日静兄様に呼び出されたわ。秋斗くんが何を思ってあんな行動に出たのか……。それを聞いても私の憤りはおさまらなかった。ほら、秋斗くんに会わせるっていうのも最後の最後まで反対していたくらいだし」
栞さんは言葉を区切り、クスリと笑う。
「あの日、廊下で秋斗くんの話を聞いていてやっと納得できたの。無暗やたらと人を傷つける子ではないし、ましてや翠葉ちゃんが傷つくことを率先してする子じゃない。……本当に、少し考えればすぐにわかることだったのにね」
「……今はもう」
栞さんはにこりと笑った。
「なんの不信感も抱いてないわ」
「……良かった」
自然と涙が零れた。
誤解が解けて良かった――
栞さんが帰ると、意図的に席を外していた唯兄が顔を出した。
「話せた?」
「うん。でも、私が話す前に秋斗さんの誤解は解けていたみたい」
「リィはそれがネックだったんだ?」
「わからない……。でも、あんなに優しい人が誤解されるのだけは違う。私が記憶さえなくさなければこんなふうに誤解されることはなかったから……」
「ほら、過ぎたことよりこれから! とっととお風呂に入ってくる!」
私は唯兄に言われるままにお風呂に入った。
先日髪の毛を切ったばかりだから、トリートメントのセットを持って。
三ステップのそれを丁寧に塗り、櫛でコーミングしてから洗い流す。仕上げに軽くワンシャンプーすることで仕上がりが軽くなる。
バスタブに浸かるとただ一点のみを考える。
秋斗さんにいつ伝えよう……。
授業が終わってから仕事部屋に行く……? でも、仕事の邪魔になるだろうか……。
ごちゃごちゃと考えたら、また逃げる口実を見つけてしまいそうだった。
「メール、しよう。明日、仕事部屋に行ってもいいかどうか……」
それが大丈夫なら、明日、放課後に伝えよう。
秋斗さんには伝えるだけではなく、謝らなくてはいけない。
髪の毛を切ったことも何もかも。
今だから謝れること。記憶が戻ったから謝れることがある。
私はお風呂から上がるとすぐに携帯を手に取った。
件名 :明日
本文 :明日、図書棟にいらっしゃいますか?
会ってお話をしたいことがあるので、
都合のいい日を教えていただけると嬉しいです。
送信すると、すぐに返事が届いた。
件名 :Re:明日
本文 :大丈夫だよ。
明日は一日図書棟にいる。
昼休みでも放課後でも、翠葉ちゃんの都合のいいときにおいで。
お茶を淹れて待ってます。
私はそのメールに、「放課後にうかがいます」と返事をして携帯を置いた。
「……意気地なしだな」
たかだかメールのやり取りをしただけなのに、心臓が無駄にドクドクと動いている。
私は何度か深呼吸を繰り返すと髪の毛を乾かし、湊先生に言われたように早く寝ることにした。
朝は五時に目が冷めた。
もう一度寝ようと思っても眠れなかったので、起きて勉強をすることにした。
早く寝た分起きる時間が早くなってしまったのか、それとも秋斗さんと会うことに緊張しているのか……。
どちらなのかは定かじゃない。
私は洗顔を済ませると、六時半まで文系を中心にさらった。
ランニングから帰ってきた蒼兄が部屋に顔を出し、
「早いな?」
「うん。昨日は勉強せずに寝ちゃったし、二度寝もできそうになかったから起きちゃった」
「そっか」
そんな会話をすると、蒼兄は汗を流すためにバスルームへと向かう。
そろそろ朝食の用意をしに唯兄が起きてくるころだろう。
私はそんな時間を見計らってキッチンへ向かう。と、先にキッチンへ入っていた唯兄が、
「あれ? リィ、今日は早くない?」
「うん。昨日早くに寝たでしょう? だからかな? 五時に目が冷めて二度寝もできなかったから起きて勉強していたの」
「そうだったんだ」
「うん」
「さてと、今日は何作ろっか?」
「あっ! あのね、私、フレンチトーストが食べたい」
「珍しい」
「うん。ほら、あまり食べられてないでしょう? フレンチトーストなら少量でもカロリーは取れるし、胃にも優しい気がするから」
「なるほど。じゃ、フレンチトーストにしますか!」
唯兄と私はどっちがきれいに卵の殻を割れるかを競いつつフレンチトーストを作った。
「ほい、仕上げ!」
「え?」
唯兄が手にしていたのは小さな小瓶。
「シナモンさんです。これを一振りするだけで高級な感じがしない?」
にこりと笑って三つのお皿すべてにシナモンを振りかけると、甘やかな湯気の立つフレンチトーストがスパイシーな香りでほんのりと引き締められる。
コーヒーを淹れに来た蒼兄が一瞬顔を引くつかせたけれど、甘さ控え目であることを伝えると、目に見えてほっとした顔をした。
栞さんはとてもわかりやすく動揺した。
洗っていたカップをシンクに落としたのだ。
「びっくりさせてごめんなさい……」
「う、ううんっ。カップも割れていないし――」
動揺はまだ続いていたけれど、落としたカップをきゅ、と掴むと「大丈夫?」と訊かれた。
本当だ……。唯兄は正しい。
人は「大丈夫?」と訊くとき、相手の表情をうかがい見るのだ。
「実は、思い出したことに気づいたのはもう少し前なんです。先日、退院してきた日には記憶が戻っていました。でも、なかなか話せなくて……ごめんなさい。でも、もう混乱も動揺もしたあとだから大丈夫です」
口にして、どんな言い分だろう、と思う。
でも、それが事実なのだ。
もう、動揺してはいない。混乱して逃げもした。今の私は全部やったあとなのだ。
「それから、記憶をなくしたいきさつもきちんと知ってもらいたくて……」
「いきさつ……?」
「はい。……あの流れだと、秋斗さんが原因だと思われているかもしれませんが、違います」
「え?」
「違うんです……。確かに、あのとき何が起こっているのかわからなくて、秋斗さんのことを怖いとも思いました。でも、あの状況から逃げてしまいたかったのは別の理由があります」
「別の、理由……?」
藤原さんが教えてくれた、ラインを引き抜く直前に私が口にした言葉たち。
それは今、私の記憶として私の中にある。
「記憶の話を続けるために十階へ行ったのを覚えていますか?」
「えぇ……覚えているわ」
「そのとき、藤原さんが教えてくれました。私が最後に口にした言葉を」
「……最後に話したこと?」
「――湊先生や秋斗さんたちものすごく仲が良くて……ツカサとだって仲が良かったのに、どうしてこんな――私が、私が。……これが私が記憶をなくす直前に口にした言葉です。そして、これが本当の理由。自分の取った行動ひとつで仲の良かった人たちがギクシャクしだす。その現実に耐えられなかった。自分が入院しなければ、自分がいなければ――そう思うくらいには耐えられなかったんです。だから、秋斗さんのせいじゃない。誰よりもひどいのは秋斗さんじゃなくて私です。だから――」
話の途中で栞さんにぎゅ、と抱きしめられた。
「何も知らなくてごめんね」
それは違う。
あのとき、私が何を考えていたかなんて、その場にいた人ですらわからなかっただろう。わからなくて、知らなくて当然なのだ。
「栞さん、秋斗さんのこと――」
「あのときは感情的になっていたけど、もう大丈夫よ。……翠葉ちゃん、お茶を飲もうか」
栞さんは柔らかな笑みを浮かべ、私はその表情に安心してコクリと頷いた。
ふたりでお茶の用意をするのは久しぶりのことだった。
幸倉の家ではよくしていたことなのに。
ふたりとも、リビングへ移ってラグに座る。
「実はね、あのあと昇に怒られちゃったの」
栞さんは肩を竦めた。
「いくら秋斗でも無理やり翠葉ちゃんを襲うことはない、って。……少し冷静になって考えればわかることなのにね。私、しばらく秋斗くんのこと警戒しすぎていたわ」
「いえ……。それまでの私が私だったから……」
栞さんは私のことをずっと見てきてくれた。
二月からの私を。高校へ通い始めてからの私を。
擦過傷のことも何もかも、栞さんは誰よりも近くで見てきたのだ。
「あまりにも私が秋斗くんを敵視するから、後日静兄様に呼び出されたわ。秋斗くんが何を思ってあんな行動に出たのか……。それを聞いても私の憤りはおさまらなかった。ほら、秋斗くんに会わせるっていうのも最後の最後まで反対していたくらいだし」
栞さんは言葉を区切り、クスリと笑う。
「あの日、廊下で秋斗くんの話を聞いていてやっと納得できたの。無暗やたらと人を傷つける子ではないし、ましてや翠葉ちゃんが傷つくことを率先してする子じゃない。……本当に、少し考えればすぐにわかることだったのにね」
「……今はもう」
栞さんはにこりと笑った。
「なんの不信感も抱いてないわ」
「……良かった」
自然と涙が零れた。
誤解が解けて良かった――
栞さんが帰ると、意図的に席を外していた唯兄が顔を出した。
「話せた?」
「うん。でも、私が話す前に秋斗さんの誤解は解けていたみたい」
「リィはそれがネックだったんだ?」
「わからない……。でも、あんなに優しい人が誤解されるのだけは違う。私が記憶さえなくさなければこんなふうに誤解されることはなかったから……」
「ほら、過ぎたことよりこれから! とっととお風呂に入ってくる!」
私は唯兄に言われるままにお風呂に入った。
先日髪の毛を切ったばかりだから、トリートメントのセットを持って。
三ステップのそれを丁寧に塗り、櫛でコーミングしてから洗い流す。仕上げに軽くワンシャンプーすることで仕上がりが軽くなる。
バスタブに浸かるとただ一点のみを考える。
秋斗さんにいつ伝えよう……。
授業が終わってから仕事部屋に行く……? でも、仕事の邪魔になるだろうか……。
ごちゃごちゃと考えたら、また逃げる口実を見つけてしまいそうだった。
「メール、しよう。明日、仕事部屋に行ってもいいかどうか……」
それが大丈夫なら、明日、放課後に伝えよう。
秋斗さんには伝えるだけではなく、謝らなくてはいけない。
髪の毛を切ったことも何もかも。
今だから謝れること。記憶が戻ったから謝れることがある。
私はお風呂から上がるとすぐに携帯を手に取った。
件名 :明日
本文 :明日、図書棟にいらっしゃいますか?
会ってお話をしたいことがあるので、
都合のいい日を教えていただけると嬉しいです。
送信すると、すぐに返事が届いた。
件名 :Re:明日
本文 :大丈夫だよ。
明日は一日図書棟にいる。
昼休みでも放課後でも、翠葉ちゃんの都合のいいときにおいで。
お茶を淹れて待ってます。
私はそのメールに、「放課後にうかがいます」と返事をして携帯を置いた。
「……意気地なしだな」
たかだかメールのやり取りをしただけなのに、心臓が無駄にドクドクと動いている。
私は何度か深呼吸を繰り返すと髪の毛を乾かし、湊先生に言われたように早く寝ることにした。
朝は五時に目が冷めた。
もう一度寝ようと思っても眠れなかったので、起きて勉強をすることにした。
早く寝た分起きる時間が早くなってしまったのか、それとも秋斗さんと会うことに緊張しているのか……。
どちらなのかは定かじゃない。
私は洗顔を済ませると、六時半まで文系を中心にさらった。
ランニングから帰ってきた蒼兄が部屋に顔を出し、
「早いな?」
「うん。昨日は勉強せずに寝ちゃったし、二度寝もできそうになかったから起きちゃった」
「そっか」
そんな会話をすると、蒼兄は汗を流すためにバスルームへと向かう。
そろそろ朝食の用意をしに唯兄が起きてくるころだろう。
私はそんな時間を見計らってキッチンへ向かう。と、先にキッチンへ入っていた唯兄が、
「あれ? リィ、今日は早くない?」
「うん。昨日早くに寝たでしょう? だからかな? 五時に目が冷めて二度寝もできなかったから起きて勉強していたの」
「そうだったんだ」
「うん」
「さてと、今日は何作ろっか?」
「あっ! あのね、私、フレンチトーストが食べたい」
「珍しい」
「うん。ほら、あまり食べられてないでしょう? フレンチトーストなら少量でもカロリーは取れるし、胃にも優しい気がするから」
「なるほど。じゃ、フレンチトーストにしますか!」
唯兄と私はどっちがきれいに卵の殻を割れるかを競いつつフレンチトーストを作った。
「ほい、仕上げ!」
「え?」
唯兄が手にしていたのは小さな小瓶。
「シナモンさんです。これを一振りするだけで高級な感じがしない?」
にこりと笑って三つのお皿すべてにシナモンを振りかけると、甘やかな湯気の立つフレンチトーストがスパイシーな香りでほんのりと引き締められる。
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