マサオの三輪車

よん

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(20年前のあの夏……ここで会ったあの人は幻だったのか?)

 破損部位の修繕、失ったパーツを取り付け、色せた箇所はラッカースプレーで入念に塗布。
 すっかりピッカピカに戻った青い三輪車に目を落としながら、正雄はゾゾのことを回想しています。

 父親の作った借金を完済できたのがつい2年前のこと。
 それまで何度か結婚のチャンスが彼にもありましたが、その借金のせいで自ら身を引いてここまできたのです。
 気づけば40目前……高校卒業後は定職に就き、欲しい物や食べたい物……勿論ジュースも飲みたいだけ飲める身分になっていた正雄は、それでも結婚にまでは踏み切れませんでした。
 それは借金がなくなった今でもです。

(やっぱり忘れられないんだな、あの堕天使のことが)

 クスノキの木陰の下、思わずフッと笑みがこぼれます。
 今から考えれば、あんなひどい女はいませんでした。
 それ以降に彼の人生で知り合った女性達の方がずっと人として優れていましたし、ゾゾほどでありませんが、自分にはもったいないくらいの美人揃いでした。

(まあ、そうだな。ゾゾはそもそも人じゃないし。人として優れていないのは、彼女が人間嫌いだからしょうがないじゃないか。何たって、僕達はタコクラゲ以下の存在なんだ)

 ゾゾは今も天使のままなのだろうか……正雄はそれだけが気がかりです。
 いまだにの感は拭えないながらも、それでいて20年もこうして三輪車をピッカピカにし続けたのは、ひとえに彼女の言いつけを守りたかったからなのです。

 最後にかわしたあの約束が果たされるとは思っていません。

 今更、この僕が恋なんて……。

 では、どうして正雄は休みの度に、こうして坂の上の児童公園を訪れ三輪車を磨き続けているのでしょうか?

 答えは彼にもわかりません。
 もしかしたら、彼にとって三輪車は盆栽と同じなのかもしれませんね。



 視線を感じました。
 いつの間にか、白いワンピースの女性がじっと正雄を見つめています。つばの広いストローハット。
 やがて、目が合います。
 正雄は困惑しました。

(もしかしたら通報されたかもな。休みの日になれば、いつも乗り手がない三輪車持参でここを陣取っている……。そんな僕は明らかに不審者だ)

 そう思いつつも、目の前の女性が例の”素敵なコ”かもしれないと、淡い期待を抱いてしまう自分がいました。

(何を考えているんだ、僕は? 見るからに向こうはまだ若くてとびっきり綺麗なお嬢さんじゃないか。不釣り合いにも程がある)

 それに、と正雄は自分の心に問うてみるのです。

(おまえがこうしてここに来る本当の理由は何だ? そう、ゾゾだ! おまえはゾゾのことがいまだに忘れられないんだ! 天使と40前の冴えない中年、一生叶わぬ恋……。だからこそ、僕は安心していつもここに来るんじゃないのか?)

 だとしたら、目の前の白いワンピースの女も特に意識する必要はありません。
 だって、彼女は天使でも堕天使でもない、タダの素敵な女性なんですから。

「あの……僕に何か用ですか?」

 ベンチから立ち上がった正雄は思い切って声を掛けてみました。
 すると、白いワンピースの女は尻込みするどころか、躊躇なくこちらへと近づいて来るではありませんか。
 途端、正雄は情けない顔になりました。

「三輪車……」
「は、はい?」
「お好きなんですね。いつもここに来て三輪車を磨いてる」
「え……どうして……」
「ずっと見てましたから」

(ずっと? 今日だけじゃなかったのか……)

「さ、座って話しましょう。その前に隣、いいですよね?」

 返答に困る正雄は、まるで思春期の少年のように顔を真っ赤にして小さく頷きました。
 それに体中カチコチに固まり、自分が変になりそうでした。
 彼は結婚こそ一度もしていませんが、それなりのおつき合いは経験があるので、余計にこの緊張感が不可解なのです。

 ギラギラの太陽、ジージー鳴く蝉の大合唱。
 暑くてうるさい矛盾した静寂が今、この二人だけを包み込んでいます。
 そうそう、忘れてはいけません。
 ベンチ横に立っているあの自動販売機も。

 青い三輪車を抱きしめるように、ベンチに腰掛ける正雄のその姿は滑稽そのものでした。
 相手が喋りかけるのをしばらく待っていましたが、白いワンピースの女性は苦笑交じりに「仕方ないな」と口を開きます。

「私も三輪車、好きでしたよ。ちょうどソレと同じメーカーでした」
「は、はあ……」
「色は赤でしたけど」
「女の子っぽいですね」
 
 我ながら今のはうまい相槌あいづちだと、正雄は自分で満足しています。
 ところが、隣の女性は突然おかしなことを口走り出すのです。

「パンダはダメでした」

「は……?」

「シャチもダメ」

「あ、あの……何ですか、それは?」

「タコクラゲならいけると思ったんですが、それもアッサリ却下されました」

(タコクラゲ……ま、まさかッ!)

「私の転生先は3歳の女の子でした。小児がんで命を失うと同時に、私はその蝕まれた体に入るよう神に命令されたのです」

「キ、キミはッ……!」

 黙って

 正雄の唇に指先を添えると、彼女は颯爽とストローハットを取りました。
 長い黒色の巻き髪を風になびかせ、かすかな葉擦はずれの後に彼女は続けます。

「人間はすぐに死んでしまうし、恋をしたり哀しんだり何かと落ち着きません。それでも、私はこうしてここに立っています。……マサオとの約束を果たすために」

「ゾゾ! やっぱりゾゾなんだねッ?」

 白いワンピースの女はかぶりを振り、そしてこう言うのです。

「私の名前は倉田くらた亜梨沙ありさ。……マサオはここで私を信じてずっとずっと待ち続けてくれた。ゾゾではなく、人間として生まれ変わったこの私をね」

 聞き慣れた口調に変わったことで、マサオは亜梨沙の中にハッキリとゾゾを見ることができました。

「いいや、キミは間違いなくゾゾだ! 僕の初恋の相手だよ。……でも、もう遅い。だって僕はもう38だし。キミは幾つなの?」

「23よ。これくらいの年齢差は下界じゃ普通でしょ?」

「それにしても……」

「ちなみにゾゾの最期は3014歳だったけれど、当時のマサオくんはそんなおばあさんを受け入れる覚悟があったのかしら?」

「……いや、そこまでは考えてなかったよ」

「ふふ、もう考える必要もないけどね。マサオの失った20年、この私と一緒に取り戻そ?」

 耳を疑いました。
 けれど、間違いなく目の前の女性は小首を傾げて彼の返事を待っているのです。……答えて、と。

「いいのかい? 僕はタコクラゲじゃないよ?」

「私もタコクラゲじゃないわ。晴れて私はマサオと同じ人間になれた。ずっと待っててくれた人に今度は私が恋をしたの。……だからさ、マサオ」

「うん?」

「人間て、すぐに死んじゃうから。まして、マサオはもういい歳したおじさんなんだし」

「何が言いたいんだよ?」

「時間が惜しい……から」

 白いワンピースの女はストローハットで顔を隠し、やがてもどかしそうにこう言うのでした。


「とっととプロポーズしなさいって」




 マサオの三輪車は数年後、持ち主を変えてこの公園で大活躍することでしょう。
 その前に、元堕天使の公園デビューが先になりそうですが。



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