マサオの三輪車

よん

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 高校最後の夏休み。
 ギラギラの太陽、ジージー鳴く蝉の大合唱。
 草葉くさば正雄まさおはそんなうだるような暑さの中、キコキコと音を鳴らしながら急な坂道をのぼっています。
 漕いでいるのは勿論、青い三輪車ではありません。

(チェーンが錆びてんだよな)

 顔中からしたたり落ちる汗もそのままに、ようやく坂をのぼりきった正雄は自転車をとめて近くの児童公園で一休み。
 朝からずっとポスティングのアルバイトで働き詰め、これが彼の取った今日初めての休憩です。

(喉が渇いた……けど)

 クスノキの木陰の下、自動販売機が正雄の腰掛けるベンチのすぐ隣にあります。
 小銭を確認すると、お目当ての炭酸飲料が買えるくらいはありました。
 しかし、首を横に振った彼はチラシの束いっぱい詰め込んだリュックのサイドポケットに財布を戻します。
 とにかく、1円でも出費を抑えたい彼にとってはたった1本のジュースでさえが贅沢品でした。
 父親が事業で多額の借金を背負い、正雄はその返済にあてるため普段からアルバイトをしていたのですが、夏休みになると更に仕事を掛け持ちするようになりました。
 高校生活なんて、彼にとっては借金返済の足枷あしかせ以外、何物でもありません。
 いっそ中退してしまおうと考えたくらいです。

 公園沿いの道を一組のカップルが歩いています。
 どちらも高校生のようです。
 楽しそうに受験勉強の話をしながら、片手にストローのささったオシャレな飲み物フラペチーノ、そしてもう片手は恋人の手をギュッと……。

「『羨ましい』って顔してるね?」
「わ、わあああ――ッ!?」

 正雄が驚くのも無理ありません。
 さっきまで誰もいなかった公園にもかかわらず、いきなり自分の鼻先に見知らぬ金髪の女性がいたのですから。

「ど、ど、ど、どこから出て来たんですかッ?」
天界うえから」

 入道雲の遥か上を指さした女性は、どことなく苛立っているように見えます。

「はじめまして、マサオくん。私はゾゾ。天界で天使稼業やってるの。以後、お見知りおきを」
「て、天使? ど、どうして僕の名前を?」
「質問は受けつけない。時間がないからよく聞きなさい。使
「え、そ、それってどういうことですか? 僕、あなたのことなんて知らないけど……」
「『質問するな』って言ったんだけど? あのね、マサオくんにしてみればこれは【寝耳に水】であり【濡れ衣】かもしれない。でもさ、実際、私はこのままだと天使じゃいられなくなる。それを回避できる僅かな可能性がたった一つあるの。……だからさ、協力してくんない?」

 ゾゾの怠け癖が事の発端なのですが、自身の失態はおくびにも出そうとしません。ズルい天使なのです。

「ぼ、僕にできること……ですか?」
「そうよ」

 混乱する正雄はまだ事態を把握できないながらも、ゾゾに従う気マンマンです。
 それはゾゾがとても美人で、彼女に一目惚れしたからに他なりません。
 上から目線は相変わらずですが、それでも時折見せる媚びた表情が何とも愛らしく感じたのです。

「あんたにしかできないことなの。……あんたが3歳の時、誕生日にもらった『一生大事にする』と豪語した三輪車を粗末にしたからこうなったの。その責任を取りなさい」

 三輪車?

 ああ、納屋に仕舞い込んでるあの青いオンボロ三輪車のこと?
 
「僕、そんなこと言いましたっけ?」
「言ったのよ。だから、私はここにいるの。そしてあんたは禁じた質問を普通にドンドンしてくるのね。……まあ、いいわ。今すぐこんな安い仕事辞めて、とっとと三輪車のお手入れをしなさい。この私のために」
「えーっと。ゾゾさん、確か天使……でしたよね?」
「何よ、悪魔だって言いたいの?」
「そこまでは……。ただ、本物の天使にしちゃ随分と自己中だなって思います」
「失礼ね。今のところは正真正銘の天使よ。神様からは殆ど堕天使扱いされてるけどさ」

 ”堕天使”は”悪魔”をさすのですが、ゾゾはその事実を知りません。

 正雄が返事に窮していると、

「何よ? 別にタダでお願いしてるわけじゃないわ。……あんた、欲しい物があるんでしょ?」
「や、やっぱ、わかります?」

 赤くなる正雄にゾゾはニヤリと笑います。

「そりゃわかるわよ。マサオくん、物欲しそうにあのカップル見てたもの」

 おもむろにゾゾが自動販売機の前へ移動し、振り向いて訊きました。

「さ、遠慮なく言いなさい。どれが飲みたいの?」
「違うって! 飲み物じゃないっすよ! 恋人が欲しいんです!」
「……ハァ? 随分ませてるのね。こないだまで3歳で三輪車漕いでたのに」
「今は18歳です! ゾゾさんッ!」

 ん、とゾゾは怪訝な表情を浮かべます。

「何かしら?」
「ぼ、ぼ…………」
「イヤ」

 告白前なのに、電光石火の如く断られた正雄がかわいそうです。これでは身も蓋もありません。

「ごめんねぇ、私、マサオくんが嫌いじゃなくて人間そのものが嫌いなのよ。それより、タコクラゲの方がずっと好き」

(人類、タコクラゲに負けてんのか!)

 正雄のひと夏の恋はこうして無残に散りましたが、ひどく落胆する彼を気の毒に思ったゾゾはある提案を示します。

「もしね、マサオくんが納屋に眠るオンボロ三輪車をピッカピカにしてくれたら、ちゃんと彼女を紹介してあげるけど?」
「えッ!? ほ、本当ですか?」
「本当よ。……いい? ピカピカじゃなくてピッカピカだからね。生半可な努力じゃダメ。真心込めてあの三輪車をピッカピカにしたら、私は必ずあなたの前に素敵なコを連れて来るから」

 約束する……それが正雄の聞いた最後の言葉でした。


 

 
 ひと夏の恋が過ぎ20年目の夏――ギラギラの太陽、ジージー鳴く蝉の大合唱。
 あの頃と何も変わらない夏模様の中、坂の上の児童公園で青い三輪車をゴシゴシ磨く男だけが変わっていました。 


 草葉正雄、38歳……現在、独身。


 
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