糸を読むひと

井川林檎

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その9・糸を読むひと

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 短期バイトで、デパートのある地点に座り、通り過ぎる人をカウントするやつをやった。
 時給も良かったし、なにより人と関わらずに済むアルバイトなので、これはいけそうだと思った。

 祝日のデパートはお祭りのように賑わっていて、行き交う人たちの年齢層は様々だった。近所から買い物にきた感じの、普段着のおばさんから、べったりくっついた学生カップル、元気な子供を連れたお母さん。
 バイトの仕事内容は、行き交う人々がどんな人たちであるかは関係なく、ただその地点を通り過ぎる人の数をカウントするだけのものだった。かちかちと機械を指で押し、ある時間までひたすらカウントし続ける。たまに、さっき通り過ぎたのと同じ人がまた通り過ぎることがあったが、それも普通にカウントした。

 そこは一階の洋服売り場の前で、少しいったところに地下に続くエスカレーターがあった。地下は食品売り場で、普通のスーパーと、お土産や少々セレブなお菓子を売る店がある。主に、普段着のおばさんたちは地下から上ってくる感じだった。エコバッグからネギを覗かせながら、堂々と高級衣料品店を覗いていたりする。

 今日の味噌汁の具材が詰まっているのに違いないエコバッグを下げたおばさんたちと、頭のてっぺんからつま先までおめかしした女の子や男の子が、同じ場所にわらわらと集い、水槽の中の金魚のようにぐるぐると歩き回っている様子がシュールに思えた。

 そのバイトで、同じ地点に座ることになったもう一人の子がいた。
 幸いなことに、わたしが苦手な派手派手しいタイプではなくて、同じ年あいだけど、ちょっと幼く見えるほど地味で、おさげ髪にカーディガンといったいでたちの、見るからに大人しい子だった。

 昔から「ゆめちゃん変人、ああやっぱり変だわ納得」と同級生から言われ続け、人付き合いするにも許容範囲が狭すぎるわたしである。大学2年ともなれば、相手が正面から喋って良いタイプか、それとも壁を作っておいたほうが無難なタイプかを、一瞬で見抜くことができるようになっていた。
 バイトで同じところに座ることになった彼女は、嬉しいことに前者である。
 同じ地点で、わたしは右に行く人を、彼女は左に行く人をかちかちとカウントし続けていたのだった。

 ぽつんぽつんと会話を交わしながら、適度に心地よいバイトタイムが流れていった。
 ほぼ一日がかりのバイトである。途中、休憩を交互に挟んではいたけれど、同じものを見て、同じようにカウントして、肘が触れ合う程の距離で常に一緒にいることで、仲良くなったような錯覚に陥った。
 お酒に酔うように、ひとはひとに酔う。

 わたしは彼女に酔い、たぶん彼女もわたしに酔った。
 全く別の大学に通う同士だったし、このバイトが終わったら恐らく金輪際会うことはない。なのに、なんだか、ものすごく気心が知れた親友の様な気になった。

 なので、バイトの終盤になると、交わす会話の内容は濃くなった。
 これから就職どうしようか、なんか考えてる、という話やら、付き合っているひとの話やら、いろいろ飛び出してきた。

 あの、おかしなサイト「糸を読むひと」の話は、バイトが終わる10分前くらいに彼女の口から何の気なしに飛び出したものである。
 
 そろそろホタルの光が流れる頃だった。
 バイトを管理するスーツの男の人が機械を回収しに来るのを待ちながら、とりあえず最後まで通り過ぎる人をカウントしていた。
 
 「悩み事は、『糸を読むひと』に相談してみたら良いよ」

 次第に深くなってしまった会話も、そろそろ終盤だった。長い一日のおしゃべりも終わり、なんらかの落としどころが欲しくなった時分だ。いろいろな悩み事を言い合ったけれど、愚痴の垂れ流し大会になるのか、ほんの僅かでもなにか有意義な結果に落ち着くのか。

 (あっそうか、この子とは今日はじめて出会って、明日からは顔を合わせることもない、もちろん連絡先も知らない、全くの他人同士だった)
 今更のようにわたしはそれを考えた。
 寂しいような、いっそ清々しいような。
 バイト最後の10分間は、とても重要な時間だった。

 なにその「糸を読むひと」って、とわたしは聞いた。
 あり得ない予感がした。「糸」というワードが出て来た時点で、もはやドキドキしていた。
 
 一日限定の親友が教えてくれたことには、そのサイトはお悩み相談のような感じで、なにか解決したいことがあったら、「糸を読むひと」への依頼としてメールを送ることができるらしい。
 その相談事を引き受けてくれるかどうかは、サイト主の「糸を読むひと」の気分次第だという。

 「なっかなか、お返事がもらえないらしいよ」
 彼女は言った。
 サイト主は、引き受けない依頼については完全に黙殺し、返事もくれないらしい。だけど、引き受ける気になった依頼については、恐ろしいほどの速さで返事が返ってきて、その素早さは最早ホラーだと彼女は言った。

 つまり彼女は、「糸を読むひと」とコンタクトが取れた、数少ない依頼人であるらしい。
 どんな悩み事だったのか、それを語る時間はもうわたしたちには残されていなかった。

 彼女の依頼を、「糸を読むひと」はぶっきらぼうではあるが、嫌もうんもなく引き受けてくれて、そのうえ、一時間後くらいには悩みごとは綺麗に解決してしまったのだという。

 ついに、バイトの終わる瞬間がやってきて、わたしたちは「ホタルの光」の流れる中で、永遠の別れを交わした。
 ばいばい。
 うん、ばいばい。
 彼女は電車に乗って自宅に帰り、わたしは自転車で梟荘まで帰る。短期バイトは、非日常を味わえるから、すごく贅沢だと思う。こういうバイトなら、またやりたいものだ。

 
 まだ昼の熱が残り、なまぬるい夜風が通り抜けてゆく。
 空は群青色が支配しかかっていたけれど、残光でうすら明るいままだった。飲食店のライトが灯され、駅前のネオンが華やかに輝きだしている。
 デニムのカプリパンツからひざこぞうを出し、ぬるい空気の中、自転車を走らせた。

 梟荘に近づくにつれ、日常が近づいてくる。
 高揚していた気持ちは、いつの間にかいつもの、つまらない落ち着きを取り戻していた。
 もう、今日一日一緒にいた彼女のことなど、顔すら忘れかけていた。変わって、今日の晩御飯のことを一生懸命考え始めているのだった。

 冷蔵庫の中にあるものを思い出し、よしイケル、と確信したら気持ちがずいぶん楽になった。
 いとちゃんはだいたいのものは文句を言わずに食べる。好き嫌いなどないのだろう。

 (あるいは、自分の嫌いなものを作らないよう、糸を引いてわたしを操作しているのか)
 どう考えても、スポイルされてしまって、我儘放題、のびのびと変人街道闊歩中のいとちゃんが、好き嫌いのない良い子であるわけがない。ああいうひとは、相当な偏食であるのが自然なような気がした。

 とりあえず今日の晩御飯は、きゅうりとカニカマの酢の物と豆腐とわかめの味噌汁、メインディッシュは冷凍カレイで煮つけをしよう。このメニューを思い浮かべた時、かちんと、時計の針が0時を指す時のように、小気味よさがあった。
 ああ、これでいって良いんだわ、と何となく確信した。

 賑やかな場所を通り過ぎ、住宅が並ぶ静かな道に入った。
 その頃には空も落ち着き始め、街灯が頼もしくなっていた。夏らしく、いろいろな虫がたかる、電柱に取り付けられた街灯たち。もう夜だ。わたしは急ぎ始めた。

 
 それにしても。

 「悩み事は『糸を読むひと』に相談すると良いよ」
 まあ、メールするだけタダだし。
 滅多に返事が来ないから、スルーされて当たり前くらいの気軽さで、試しにやってみたら。

 お下げ髪の地味彼女の言葉が蘇る。
 まるで都市伝説のような、その不思議なサイトが、とても気になった。
 帰ったら、パソコンで検索をしてみようか。

 依頼を引き受けるかどうかは、サイト主の気分次第。
 引き受けてくれる時は電光石火の勢いでメールが返ってきて、恐ろしい速さでなにもかもが解決するという。
 メールの文面はものすごくシンプルでぶっきらぼうで、ちょっと意味不明だけど妙に力強い。

 わたしは、そのサイトといとちゃんを重ね合わせているのだった。


 (まさかいとちゃん、怪しい商売を始めているんじゃなかろうな)
 ききっ。
 梟荘に到着し、自転車を降りた。梟荘の中は既に電気がついていて、玄関のガラスから中の温かい光が透けていた。

 聞こえてくる生活の音で、いとちゃんがお風呂を沸かしてくれているらしいことが分かる。

 いとちゃん。


 (そのサイトを覗くのは、もう少ししてからにしよう。今はちょっと、頭の中がまだ非日常から帰ってきていないから、もうちょっと落ち着いて、平常心で間違いない判断をできるようになってから、見てみよう)

 ただいまあ。
 玄関を開いた。

 「糸を読むひと」。
 はっとした。
 その悩み解決は、有料なのか。ボランティアなのか。肝心なことを聴きそびれていた。

 いんちきスピリチュアリストのぼったくり商売なのか、そうではない何かなのか。

 知りたい気持ちが沸騰してきて、今にも焦ってしまいそうだったが、わたしは敢えてその焦りに蓋をした。まだだ、もうちょっと先に取っておこう、この謎解きは、と、自分で自分に言い聞かせたのである。

 食べたことのないお菓子を、とっておきの瞬間に味わう事ができるように、棚にしまうような気持で。
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