やってきたのは柳生十兵衛最後の弟子! -止水流道場始末記-

中岡潤一郎

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第一話 切腹って痛いんだろうなあ

四之一

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 翌朝、五郎は寝坊した。いつもなら陽が昇るのにあわせて目が醒めるのに、今日はやわらかい光が穴の空いた障子越しに差し込む時間帯になっても眠っていた。意識がはっきりしてきたのは、棒手振の声が彼方から聞こえた時だった。


 五郎はゆっくりと身体を起こす。

 頭がはっきりすると、昨日の情景が浮かんでくる。

 いったい、何が起きたのか。いまだにわからない。

 三四郎のねぐらに乗り込み、三四郎とその一党を叩きつぶした。とても現実のこととは思えない。いまだに夢だったのではないかと思うのであるが……。

 五郎が視線を転じると、扁額が部屋の傍らに立てかけてある。明鏡止水の文字は、これまでと変わらない。

 確かに、止水流の扁額だ。よって、あれは現実だったことになる。

 五郎は首を振って立ちあがった。

 仕度を調えて遠縁に出ると、道場から物音がした。何かを叩くような音もする。

 気になって稽古場に入ると、拓之進がちょうど刀掛けに手をかけたところだった。

「おう、五郎さん、ちょうどよいところに来てくれました」
「なんだ、どうした」
「いっしょに起こしてください。ちょっと重くて」
「すごい。直してあるじゃないか」
「朝早く目が醒めましたので、やってみました。思ったよりも簡単でした」

 昨日、三四郎に壊された刀掛けが形になっていた。言われるがままに手伝って、壁際に立てる。

 刀掛けは、以前と変わらぬ姿を五郎に見せた。あまりのことに涙が出そうだ。

「あとは、木刀を掛けておけばいいですね。真剣はどうします」
「ああ、物騒だから、普段は片づけてあるんだ」
「おう。そうですか」
「木札額は……片づけてくれたのか」
「すみません。あれは、直せませんでした。ひどくやられていて」

 木札額の残骸は跡形もなく消えていた。気をきかして、拓之進が始末してくれたのであろう。あとできちんとまとめておかねばいけない。

「いいさ。どうせ誰も来ない。見ているだけで哀しくなる」

 五郎は稽古場を見回した。

 無惨に飛び散っていた木刀はきれいに片づけられていた。泥だけだった床板は磨かれていて、日の光を浴びて美しく輝いていたし、床の間も整理されて、新しい掛け軸が飾ってあった。壁板も今までとはまったく違う輝きを放っていた。

「わざわざ掃除してくれたのか」
「ちょっと早く目が醒めたので。それに、お世話になっていて、何もしないというのも心苦しかったのです」

 拓之進は笑った。五郎が思わず息を呑むほどの澄みきった表情だった。

「そんなこと気にしなくていいのに」

 五郎は、視線をそらした。

「お前は、うちの扁額を取り戻してくれた大恩人だ。もっと、偉そうにしていてくれていいんだよ」
「偉そう、ですか。よくわかりません」
「ああしろ、こうしろと威張り散らしていいってこと」
「ああ、そういうのは好きではないので結構です」
 拓之進は手を振った。
「人の物を勝手に取るのはよくないことです。しかも、あの人たちは五郎さんを馬鹿にするためにやっていました。そういうのはよくありません。取り戻すのは当然です」

「そうだな」

 自分でもわかっていた。ただ、現実にそれができるかどうかは、別の問題だ。

 五郎では無理だった。だから、あきらめていた。

「すごかったな。お前の剣。何が起きたのか、まったくわからなかった」
「師匠に教わったとおりのことをしただけです。誰にでもできますよ」
「いや、無理だろう。俺にはさっぱりだ」
「そんなことはありませんよ。ちょっとやってみせましょうか」

 拓之進は左右を見回した。

「片付いたので、これで稽古ができますね」
「稽古って、誰が」
「私と……」

 その視線が五郎に向く。

 えっ、ちょっと待ってくれ。おい、そんな、まさか……

 じりっと下がる五郎の前で、拓之進は涼しげに笑った。




「おい、待ってくれ。いくら何でも……」

 そう言っている間に、拓之進は右から寄せてきた。下がったばかりなのに、いつの間に
か必殺の間合いに入っている。

 下からの一撃で、木刀は跳ねとばされて、宙に舞った。

 五郎は圧力に負けて、尻餅をついた。

「まいった、まいった。もう無理」

 五郎が手を振ると、拓之進は下がって剣尖を下げた。

「今のはいい感じでしたね」
「何を言っているんだよ。まるで止められなかったじゃないか」

 拓之進との稽古は、五郎が一方的に押されるだけだった。

 とにかく太刀筋はまったくわからない。どこから刃が来たのかわからないまま、身体を打たれている。見極めようとしても、そもそも動き出しからしてはっきりしない。

 今回も態勢を整えるために後退したところで、一気に間合いを詰められた。切り返す余裕もなく、自棄で横薙ぎの一撃を放ったが、呆気なくかわされてしまい、あえなく決着がついた。

 十回の撃ち合いで、五郎が懐に飛び込めたことは一度もなかった。

「腕がまるで違うよ。天と地というか、それ以上の差がある」

 歯が立つとか、そういう水準の話ではない。

 あまりにも力量が違うので、少し押さえてくれるように頼んだが、それでも剣の動きを見切ることはできなかった。

 速さだけでいえば、父の勘三郎を上回っている。

 化物だ。

「かわしようがない。なんの前触れもなく、すっと来るからな」
「気がつくだけでもたいしてものですよ。五郎さんは目がいい」
「お前が手を抜いてくれたからな。本気だったら、どうにもならなかった。まったく、どうやったら、その技を身につけられるのか」
「師匠と打ち合っただけですよ。変わったことはしていません」

 拓之進は天を仰いだ。

「師匠の剣は、私よりはるかに速く、激しい。下手すると、骨も砕きます。私も何度かやられました」
「なんだって」
「今でも、脇腹がきしみます」

 稽古では、木刀か竹刀を使うので、本気で打ちこまれれば相当に痛い。頭に打ちこまれれば、生死にかかわるし、実際に死者も出ている。いずれは防具を使って、安全に打ち合える日が来るかもしれないが、それは当分、先のことであり、五郎が生きている間は、生身で打ち合う流れは変わらないはすだ。

「容赦はありませんでした。打ちこまれて、身体が痛くとも道場に引きずり出されました」
「ひどいな。誰なんだ、師匠は」
「それは……」

 そこで、拓之進は道場の出入口を見つめた。

「どうした」
「誰か来たようです。声がします」
「そんな。何も聞こえないぞ」
「女の人のようですが」

 間を置かず、高い声がして、今度は五郎も聞き取れた。

「なんだ、あいつか」
「知り合いですか」
「まあな。ちょっと面倒くさい奴でな」
「はあ」

 拓之進がぼんやりと返事をするのと、さらに大きな声が響くのはほぼ同時だった。

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