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最終章

【4.0.0】 残されしもの。

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「今日は、ありがとうございました。」


 そう言って倫太郎が頭を下げれば、なんだかスッキリとしたような顔をした菅原が、「こちらこそ、ありがとう。」と言った。
 駅まで送ってもらった倫太郎たちは、車を静かに降りた。マツ君を追いかけて、その後ずっと泣いていたさきちゃんは、泣き疲れてしまったのか、菅原に抱っこされて本殿から車に戻って来るまでの間に、眠ってしまっていたのだ。


 マツ君の姿は、あの後見つけることができなかった。どこかからでも戻ってきて、倫太郎の掌の上で少しでも腹を満たしてくれればなんて期待もしたが、クロは探す気が全く無いようで、倫太郎の肩の上で静かに肩を落とすだけだった。

 彼はこうして、たくさんの精霊を見送ってきたのだろうか。

 気だけで、その存在を維持できる精霊。その寿命というものが無いのだとすれば、それは倫太郎が思うよりも長い月日をクロは生きてきたのかもしれない。長い長いその命の中で、たくさんの命を見送ってきたのだとすれば、そして誰にもその存在に気が付いてもらえないようなそんな時間を過ごしてきたというのなら、その辛さは彼にしかわからないだろう。
 垂れ下がったまま静かに揺れるその尻尾を横目で見ながら、倫太郎はクロに同情した。

 さきちゃんが、「マツ君がいなくなっちゃった。」と言ってあまりにも泣くので、菅原が「家に帰ったら、小鳥が飼えないかママに相談してみような。」と言って慰めていた。

 おそらくは、全く理解できないような状況であっただろう神田と菅原だったが、ギンの言葉から何かを感じ取ったのだろうか。ただそれは、静かに何かを考えているような、そんな雰囲気にも見えたし、疲れ切ってがっくりと肩を落としているだけのようにも見えた。
 特に菅原については、昨日の社会科準備室の様子では、ひどく疲れているように見えただけに、運転手までさせてしまったことを、倫太郎は申し訳なく思っていて、駅まで送ってもらったその別れ際に、丁寧にお礼を告げたのだった。


「ねえ、ギンちゃんって結局何者だったの?」と、相変わらずマイペースというか、ノーカンな岸間春は、帰りの車の中でも終始喋りっぱなしで、お陰でお通夜のような雰囲気になってしまうことだけは避けられた。とてもありがたかった半面、寝ているさきちゃんを起こしてしまうのでは無いかと、ハラハラもさせられた。
 車を降りてからも、家に帰ろうという気配はさらさら無く、倫太郎が自転車置き場の方に足を向けようとすれば、「もう、帰っちゃうの⁉」と素っ頓狂な声を上げて、倫太郎を困らせた。気が付けば、雲が空を覆い始め、本来の時間よりもかなり暗く感じた。仕方なく、電車で帰る神田を見送った後、隣の学区だという彼女を、自転車を押しながら家まで送ったのだった。


 ギンは、あの後、姿を消した。


「倫太郎のお陰で、色々と分かった。これからのこともさ。」


 本殿から車へと戻る道すがら、ギンはとても満足したとでもいうように、腕を組みうんうんと頷いた。その度に揺れる銀色の髪が、太陽の光を反射して描く曲線。そして、銀色の瞳が、寂し気に細められる。


「だからといって、僕は見てるだけだけどな。」


 付け足すように吐き出された言葉は、ひどく投げやりだった。何もできないもどかしさが、そこにあると感じたが、それは倫太郎の希望のようなものがそうさせたのかもしれない。
 人間にこの先待っていることを考えれば、藁にでも縋りたい気分ではあるが、その藁はギンでは無いという事は倫太郎にも分かっている。

 ギンは、徐に両手を上げてその身体を伸ばした。「んんー。」という声が聞こえたような気がする。


「しかし、人間に形をもらうっていうのも、なかなか楽しいものだな。」


 銀色の髪、銀色の瞳、それさえも倫太郎によってそうぞうされたものだとしたら、一体何を感じとってその色にしたのか。正体がわかりそうでわからない、言葉にならない存在。そこにいて、ただ見ているだけのもの。

 ギンが、空を見上げる。太陽の光を浴び、その銀色の髪と瞳を輝かせる。
 倫太郎も、太陽に目を向ける。張り詰めた雲の向こう側にさえ常にそこにいて、照らし続けているそれは、かけがえのないもの。冷たい空気の中でも、その日差しの持つ熱は柔らかい。


「クロ、生き伸びろよ。生きてさえいれば、何かまた違う道が、見つかるかもしれないから。」


 倫太郎の肩の上、先ほどから黙り込んだままのクロが、聞いているのか聞いていないのか、そっぽを向いている。しかし、その耳はピクピクと動いている。


「人間なんかより、付き合いは長いんだ。僕にだって、寂しいと思う気持ちぐらいは知っている。意思無きものに戻る気が無くてもさ、消えてしまえば楽にはなるかもしれんが、面白いことは何一つないからな。」


 そう言いながら、子供の姿のギンが手を伸ばす。倫太郎の肩の上、そっぽを向いた黒い猫に、その手が届く。ゆっくりと、その姿が上がっていく。
 そして、銀色の瞳が、倫太郎を見下ろす位置まで昇る。それは、数日前に見たことのある景色。


「次会う時には、僕にも名前がついているだろう。人間は、区別するのが大好きだからな。」


 いつものあの、悪戯っぽい笑顔。人間を馬鹿にしたようなそれを、倫太郎はただ呆然と見ていた。


「ではな。倫太郎、クロ、楽しかった。また会おう。」


 そんな簡単な言葉だけを残して、銀色のそれはふっと姿を消した。
 しかし、涙は出なかった。



─────────



 夜になって、雪交じりの雨が降り始めた。










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