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奴の事なんて、忘れてしまえば良い。

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「おーい。理人ぉ。」


 帰り際、昇降口を出たばかりの所で、理人が踏んでしまった靴の踵を直していると、後ろから声をかけられた。
 理人が振り返ると、緩い感じで理人を呼んだ岡ちゃんが、「じゃぁなー。」とクラスメイトらしき男子に手を振って、昇降口から出てくるところだった。


「あ、理人。ちょっと待ってて。」


 靴を出した所で、理人にそう声をかけた岡ちゃんは、慌てたように靴を履きながら、先程別れを告げたばかりの男子に声をかけにいった。何か用事を思い出したらしい。
 どうせ、バス停でまた一緒にバスを待つことになるのだ。置いていってもなんの問題も無いのだが、それでも「待ってて」と言われてしまえば待っているしかない。両手をポケットに突っ込んで、昇降口の脇で話している岡ちゃんの姿から目を逸らせば、自分が出てきた下駄箱と下駄箱の間から、三田が出てくるのが見えた。

 黒っぽいスニーカーを地面に置いてそれに足を突っ込んだ三田は、一度リュックの紐を肩にかけ直すと、右足の膝を曲げて踵を直す。
 斜めになった頭から、髪が落ちていかないことを少し寂しく思っていた理人は、どうやらじっと三田を見ていたらしい。顔を上げた三田と目が合った。


(俺、今、何考えてた?)


 三田のポニーテールの髪が、その首筋を滑って落ちていく。そんな姿を想像していた自分に気が付いて、理人は顔を赤くした。なんでこのタイミングと思ったが、もう遅い。
 三田は少し驚いたように目を見開いてから、ちょっと困ったようなそんな笑顔で「バイバイ。」と言って理人に手を振った。


「バイ、バイ。」


 理人も小さく手を振れば、三田はニコッと笑って、校門の方へ走り出すかのようにして去って行ってしまった。
 その背中を見送りながらも、理人はその揺れない髪の毛を探している。


(ああ、もうダメだ。)


 理人は両手で自分の顔を覆う。手を振る三田が、可愛いすぎる。そして、自分がダサすぎる。渦巻く感情が制御不能に陥って、もう墜落寸前だ。


「え?あれ、三田ちゃん?切っちゃったの?」


 気が付けば横に立っていた岡ちゃんが、驚いたようにそう言った。


「岡ちゃん。」


 顔を覆ったまま、歩き出せないでいる理人がそう呼べば、「どした?」と心底不思議そうに岡ちゃんが聞いてくる。


「俺、もうダメかも。」
「ど、どうした。何があった。」


 理人が両手をずらせば、ちょっと焦ったように、顔を覗き込んでくる岡ちゃんの顔が見えて、理人は少し安心して苦笑した。


「なんだよ。冗談かよ。」


 理人が歩き出すと、岡ちゃんもその横についてくる。バス停には、学生たちが既にずらりと並んでいるのが見えた。


「いや、まじです。」


『気になる子がいる。』とカイリが言えば、ポニーテールが無くなってしまうというのなら、カイリが生配信への参加を辞めたら、彼女はどうなってしまうのだろう。そう思ったら、辞めるという決心がぐらぐらと、それはもうぐらんぐらんと揺らいでいくのがわかった。


「岡ちゃん。どうしよう。」
「なんだよ。三田ちゃんのことか?」


 さすがは岡ちゃんだ。状況から見て、三田関係だという事はすぐにわかったらしい。理人は小さく頷いて、赤信号の横断歩道の手前で足を止める。バスが向こうからやってきているのが見えた。

「あ。」と言った理人に、「次で良いんじゃね?」と岡ちゃんが言う。目の前を通り過ぎたバスがすぐそこの停留所に停まれば、続々と学生たちを飲み込んでいく。横断歩道の信号が青になったのを確認し、白線だけを踏むようにしてゆっくり渡る。あの中に飛び込んでいく元気は今の理人には無かった。あれに乗れば、さっき手を振って駅に向かって行ったであろう三田の横を通り過ぎるだろうが、今この精神状態で、もう一度三田を見る勇気も無かった。

 バスの扉が閉まる。何かが挟まりでもしたのか、理人たちが丁度バス停に着いた時にもう一度開いたドアが、理人たちを乗せる気はさらさら無いかのようにあっという間に閉まって、特有の匂いを吐き出しながらバスは走り出した。

 バス停の先頭に立ち、岡ちゃんが話を促すかのように理人の顔を見る。


「カイリのせいで、三田が髪切った。」
「んな?まじで?ばっさり?」
「ばっさり。」


 マジもマジも大マジだ。昔から短い髪が好きだったとか、夏は暑くて面倒とか、他にも理由を言っていた気はするが、理人は「気になる人がいるんだって。」と言って寂しそうに笑った顔が、ずっと脳裏から離れない。


「配信。俺、辞めたら、どうなっちゃう?」
「え?辞めたらって…。丸坊主?」
「ま、丸坊主?」


 理人は苦笑しながら、スキンヘッドになった三田を想像する。照れくさそうに頭を掻いて、『カイリ様が配信辞めちゃって。』と、舌をペロリと―――って、「そんなことあるかい!」と岡ちゃんに突っ込めば、「冗談。冗談。」と笑う。


「まあでも中間テストも終わったことだし、期末ぐらいまでは配信続けたら?」
「適当だなぁ。」


 確かに、既になんとなくなあなあになっていて、辞めるタイミングを再び見失っているところではある。


「じゃあ、三田ちゃんに告白する。」
「へ?」
「カイリなんか忘れて、俺んとこ来いって。」


 何かの恋愛ドラマのベッタベタな台詞のようなそれに、理人は両腕を抱えるようにして「さむっ!」と言えば、岡ちゃんは楽しそうに笑った。
 でもいつか、それを言える日が来るだろうか。―――理人は真面目に、そんなことを思うのだった。





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